願わくば、叶わずとも ②
壁についていた梯子を登って、地下室から這いあがる。
出た先は、物置のような小さな部屋だった。出口にドアはない。外の廊下には、踏むのが惜しいくらい立派な、ラクダ毛の赤いカーペットが敷いてある。
サフィが銀盤邸に入るのは二度目。一度目は見習い卒業の時の御前披露だが、何年も前なので記憶が薄れている。それでも、邸宅の間取りは何となく覚えていた。
夕刻の鐘が鳴ってから約三十分。辺りはもう薄暗く、廊下には燭台の明かりが灯っているようだ。
(大饗宴は…………もう始まっちゃう頃かな)
大饗宴の舞台では、踊り子隊の出る順番がおおよそ決まっている。一番手を務めるのは、前年に序列一位だった隊。つまり、舞台の時間が来れば「瑠璃組」の出番となり、サフィの不在は明るみになってしまう。
とはいえ、今こうして王宮にいると示せば、大目玉を食らいはしても、脱走はバレないはず。
それよりも重要なことがある。
王族の全員が出払っている今のうちに、この銀盤邸から出ることだ。
今ここで見つかれば、「王の喉」を通って侵入したという事実がバレかねない。そうなれば努力は水の泡。逆に、見つからずに銀盤邸を脱出できれば作戦完了。あとは何の不自然もなく、ただの王宮の踊り子に戻ることができる。
サフィは意を決し、部屋の出口から廊下を覗いた。
「――――――誰ぞ?」
びくぅぅっ! サフィの肩が跳ねる。見ていた方向の逆側から声がかかった。
聞こえたのは女性の声。それも、十歳にも満たないような幼い少女の声だ。
おそるおそる振り返ると、わずか数歩先に、声の主が立っていた。
「………………パ、パイラ皇女殿下……⁉」
サフィの目線が下がって、小さな少女の全身が映った。赤い花蔓模様が縫いこまれた白いカフタン、可愛らしく結われた黒い髪、まばゆい黄金の首飾り。幼いながら堂々とした王族の出で立ち。
パイラ=ウル=ザヒード皇女。
御年六歳。ドゥラーン国王とルベリエラ現王妃との間に産まれた唯一の子だ。
「…………! そなたは――――」
「まあッ!まあまあッ! これは一体何事です⁉」
パイラ皇女が何事か言う前に、近くにいた御付きの女官が割りこんだ。年齢は三十歳ほど。鼻が高く、かなり神経質そうな印象を受ける。王族であるパイラ皇女ほど華美でないが、平時の装束に比べれば明らかに着飾っていた。
(うそ……⁉ 皇女様も御付きも、大饗宴に呼ばれてるはずじゃ……⁉)
致命的な誤算だった。汗と同時に、したたる水がカーペットの染みを増やしている。ずぶ濡れの衣装を乾かす時間など無かったのだ。
「こ、これは、えっと………」
「あ、あなた踊り子の……⁉ なぜこの邸宅に⁉ どこから入ったのです⁉ 答えなさいッ!」
金切声をあげて捲し立てる御付き女官。
不審に思うのも無理はない。王族が留守とはいえ、銀盤邸の入り口には衛兵がいて、誰だろうと無許可での入宅は許していない。
そんな事情を知り、疑り深く、しかも踊り子に対して好意的ではない人物。ある意味、この場面で最も遭遇してはいけない相手だった。
(………………そんな………ここまで来て………!)
濡れた肌に風が吹きつけ、心臓まで凍るように感じる。
「…………よい。ムッタ、蒸し風呂の用意を」
小さな手で、パイラ皇女が女官を制した。
「ひ、姫様……⁉ な、何をおっしゃいますか!?」
「この者は、踊り子隊『瑠璃組』が一人、サファルケリア=ウル=アシタファだ。どこぞから紛れこんだ胡乱の輩ではない」
「お、恐れながら存じております……! ですがこの者は今……‼」
「そう、濡れねずみになっておる。ほれ。もとよりパイラのために湯浴みの支度はしておったろう?」
皇女の口調は落ち着き払っていて、何倍も歳を重ねているだろう従者より風格があった。
「そなたもよいな? 十分に暖をとり、身を浄めるがよい。着付けと化粧の係も呼んでおく」
「えっ……? あっ………あ、ありがとう、ございます……?」
サフィはサフィで、状況が全く呑みこめていない。
いきなり銀盤邸の中心に現れた、ずぶ濡れで挙動のあやしい踊り子。御付き女官のムッタは泥棒を見るように訝しんだが、むしろ彼女の反応の方が正しい。一方、この小さな王族はサフィを怪しむどころか、手厚く助けようとしている。
「し、しかし、姫様…………!」
「はよう参れ。今だけはパイラから離れることを許す」
「…………ッ! 仰せのままに」
釈然としない様子で、ムッタは赤カーペットを小走りで駆けていく。がらんとした広い廊下に、サフィとパイラ皇女だけが残された。
「お、皇女様………どうして、ですか?」
「なぜも何も、そなたは疚しい者ではあるまい」
小さな皇女は、サフィを見上げて微笑んだ。
「それに、王宮の者には手厚くせよと、いつも父上が仰せでな」
「国王陛下が…………いつも」
口に出した瞬間、それが失言になりかねないと気づき、あわてて両手で口を覆った。
「ふははは、よいよい。下手に子煩悩であるより、あのくらい静かな方が楽なものぞ? 一人娘としてはな!」
パイラ皇女の笑顔には何の衒いも感じなかった。全く真意を掴めないサフィだが、この気高く愛らしく皇女に悪意があるとは思えない。
「で、ですけど皇女殿下…………わたし、お風呂なんて……! すぐにでも金纏宮に行かないと……っ!」
「おお、大饗宴の舞台のことであろ?」
サフィは、ちらりと廊下を見渡した。
他に人の気配がないのを見るに、大饗宴そのものは開催されている。夕刻の鐘からの時間を考えれば、もう舞台が始まっている頃だ。
確かに、びしょ濡れの冷えきった身体で、しかも水を吸った衣装で舞台に立てるわけはない。とはいえ、蒸し風呂で体を洗い、髪や舞台衣装を整えようとすれば、どう急いでも数十分かかる。
「…………開宴の前に、何やら騒がしいので小耳に挟んだ程度だがの」
パイラ皇女は前置きして、金纏宮の方向に目をやった。
「どうやら、そなたの出番はまだ先のようだぞ?」
――――――同時刻。
迎賓広間では、年一度の大饗宴が華やかに幕を上げていた。
五百人あまりの賓客が一人一席の絨毯を与えられ、大理石のフロアを埋めつくす。そこらの商人では手が届かない最高級のブドウ酒に、スパイスを効かせた羊肉料理。壁に灯された燭台は千を数え、まさに不夜城と呼ぶにふさわしい。
そして――――大広間の中央、円形の大舞台。
賓客の目が注がれる中、とある踊り子たちが場を沸かせていた。
「御覧に入れました演目は、『七つ海の奇譚』が第二節『宝の峡谷』にございます! いや見事、実に見事でございました!」
司会役の声は明らかに興奮していた。賓客も熱に浮かされ、その手に汗を握っている。
「さあ、どなた様も刮目あれ! 前代未聞の七連舞! 挑みますは踊り子隊、『翡翠組』でございますッ!」
喝采が嵐のように轟き、金纏宮のドームを震わせた。観る者はみな熱狂し、そして応援者となった。
舞台中央に立った踊り子が、わずかな小休止に息を整える。
「――――――まだ踊れるか、お前ら」
翡翠組を率いる主役、ジェッダ。
鎖骨まで汗を垂らしながら、後ろにいる仲間二人を気にかけた。
「平気っす。ていうか、ジェッダ先輩が一番キツいでしょ」
「あたしは余裕だっての。…………悪いな、付き合わせちまって」
もう一人の仲間は、からかうように口角を上げた。
「主役様のお望みなら仕方ないじゃない。ま、愛しのサフィちゃんの為だもんね?」
「愛しくねえッ! んなことで………息、使わすんじゃ、ねぇ……ッ!」
丸い眉を寄せながら、ジェッダは次なる踊り出しの構えをとる。
正式な演目というのは凄まじい集中力を要求され、まして大饗宴の舞台となれば立つだけで神経をすり減らす。「七つ海の奇譚」のような連編演目は、本来なら複数の踊り子隊で代わる代わる踊るもの。
一つの隊が通しで踊るなど、正気の沙汰ではない。
大舞台の後ろには「花道」が伸びていて、その先にある出演者の控え場所はカーテンで隠されている。現在そこに控えているのは、二番手である瑠璃組のマルシャとネフリム。マルシャはおずおずと、カーテンの隙間から舞台を覗いていた。
「ぜ、全部やろうとしたら一時間はかかるよね、『七つ海の奇譚』って…………。ジェッダさん、本気でやるつもりなの……?」
「ええ、やりきるわ。あの子なら」
舞台の時間になる直前、ジェッダは大饗宴の仕切り役に大見栄を切ったのだ。
翡翠組が一位を奪る。最高に盛りあげてやる。
だから一番手に出せ、と。
「さあ、続きましては第三節『狒狒の砦』でございますッ!」