願わくば、叶わずとも ①
たんっ、と足音が響いた。
地下室の柱に縛っておいた縄を頼りに、出口の竪穴を勢いよく登り、サフィは着地した。
シルクの衣装から水が垂れ、埃っぽい床をまだらに濡らす。穴から吹き上がる風で冷たい。それでも、直前までランタンを持っていたので凍えるほどの状態ではなかった。
「…………ほんとに、もう大丈夫?」
サフィは登ってきた穴を覗いた。穴の奥底は暗く、ランタンの小さな灯しか見えない。
「大丈夫、なんともない」
穴の底から答えが返ってきた。相変わらず感情の分かりにくい声だが、むしろそれが彼らしくて、サフィは安心した。
熱源のランタンさえあれば、これからの帰り道で身体が冷えきることはない。あとの問題は、あの悪夢にまた心を呑まれないか、それだけだった。
「帰ったら、明日、あの石碑に行こうと思ってる。…………花は、なんとか」
「大丈夫だよ。お祈りして、ちゃんと思い出してあげれば」
穴の底のシドルクが、サフィの顔を見上げた。
黒曜石に似ているシドルクの瞳に、星屑ほどの小さな光が宿っている。ようやく過去と向き合い、乗り越えたことで取り戻した光。死んでいった仲間と自分を同一視するのを辞め、シドルクは、自分が生きている事実を受け容れた。
生きていていいと、思うことができた。
「シドルク………………あのさ」
ひざをつき、サフィは穴の底を覗きこんだ。
「お願い、やっぱり何も無い?」
サフィも、シドルクの目に光が宿っているのを感じていた。
悪夢と一緒に蓋をしてきた感情。解き放たれた心の中には、シドルクの本当の願いもあるのでは、と思った。
「首飾りをもらった」
「う、うん、そうだけど、ほら……」
彼らしい愚直さに、サフィは複雑な表情を浮かべた。とはいえ、この期に及んで叶えられる願いがあるはずもない。それでも尋ねてしまったのは、サフィの心残りゆえだ。
「――――――もし、叶わなくてもいいのなら」
「うん、言ってよ。わたし、頑張るからさ」
サフィは切なげに笑った。
シドルクは、光が降りそそぐ頭上を仰ぎ、サフィを見つめた。
「また会いたい」
…………ぴちょん、と水音がした。
直後、シドルクの胴体に結ばれていた縄が強く引っぱられた。
はっと思い出す。作戦を決行する前、地上で待機するジュニと約束したのだ。夕刻の鐘が鳴ってから三十分経っても戻る気配が無ければ、無理矢理にでも命綱を引くようにと。
はずみでランタンを落としかけ、なんとか持ち直した。どうやら引いてるのはジュニ一人ではないらしく、踏んばっても抵抗できそうにない。
シドルクは役目を果たし、仲間たちの待つ世界に帰ろうとしていた。
「――――――ばっかああああああああああッッ!」
「…………⁉」
「ばかばかばかばかばか、この筋肉ばかっ! これじゃわたしが馬鹿みたいじゃないっ!」
頭の上から罵声が降り注ぐ。
その意味がまるで分からず、シドルクは戸惑う。
身体はもう引かれ始め、サフィの姿は視界から消えつつあった。
「待ってなきゃ許さないからねっ!」
目が合った最後の一瞬。
サフィの想いは、消えていく彼に届いた。
荷揚げ舟のように身体を曳かれながら、シドルクは自分の胸板に手をやる。
蓋から解き放たれた中にはない。
十七歳の少年にとって、それは知らない感情だった。