壊れない道具
夢を見る。
月のない夜は、決まってあの夢だ。
真っ暗闇だった。目が潰れたかと思うほど。光はひとかけらも見えない。
動かない。首も、足も腕も、指の関節まで動かない。
右腕がじくじく痛む。背中に石が食い込んでる。ひびの入った脚がめりめり唸る。
死にたいほど痛いのに――――――生きてる。
右手の指先が、少し、ほんのり温かい。
ほかの誰かの指が触れてるんだ。誰かいる。そこに誰かが居てくれてる。
真っ暗闇がずっと続く。痛い。暗い。冷たい。おかしくなりそうだ。
でも、最後に光が見える。
石がぼろぼろ落ちる。ずるっと引っ張られて、太陽の下に帰ってくる。
首が動いた。足も腕も、指の先まで自由だ。
痛かったのを忘れた。
生きてるのが嬉しくて、自分の手をじっと見る。
小さな掌に――――――潰れた指があった。
「………………………………ゔッッ!」
十年も前になる。
あの日もずっと、穴を掘っていた。
この国の王様が言ったらしい。カナートを造れと。水ならテブリス川があるのに、王宮のためだけの水を欲しがった。
奴隷が何千人も集められた。大人、年寄り、歳の近い子供までいた。
太陽を見るのは朝と夕方。ずっと穴の底に潜って、大人の砕いた岩を掻き出す。
同い年の奴隷がいた。
少し珍しい、栗色の巻き髪だった。
喋るのが好きなやつで、こっちが何も言わなくても話しかけてきた。きっと寂しかったんだ。こんな真っ暗で狭苦しい場所、居るだけで狂いそうになる。
色んな話を聞いた。故郷で降った雪のこと。奴隷に売られた時のこと。いつか見たい景色のこと。
この穴掘りが終わったら、次はどんな景色を見に行けるだろうと、いつも目が輝いていた。
――――――あの日の落盤で、十二人が埋まった。
真っ暗だ。息が苦しい。右腕は完全に折れた。両脚は落ちてきた岩に挟み潰された。
指先に温度を感じた。あいつが近くにいる。
あいつは生きてる。俺たちは生きてるんだ。
大丈夫。痛いのは耐えられる。穴から出たら、あいつは不幸自慢が一つ増えたなと笑うだろう。
ずっと待って、耐えて、待って――――――反対側から掘り進んできた奴隷に見つけられた。
あの落盤は、もう七日前のことだと言った。
気がつくと、指の切れ端を握っていた。
あいつを掘り出した。もう人間の形じゃなかった。顔が潰れて、絡まった栗毛だけが証だった。
俺は生きてたのに――――――あいつは死んだ。
げらげら笑ってたオヤジ、子供嫌いの爺さん、他にいた同い年、みんな潰れて肉になった。
みんな死んだのに――――――俺は生きてた?
(――――――どうしてだろうな)
帰った次の日、また穴に潜れと命令された。
胃汁を吐くほど嫌だったのに、鞭で打たれて蹴り落とされた。
そうして一年後、「王の喉」は完成した。
あの日のことも、あの闇も、蓋をして永遠に忘れようとした。
穴掘りが終わって、次の仕事場に売られた。
そこでも、次の場所でも、周りの奴隷が次々に死んでいく。
事故で死んで、病気で死んで、日の悪魔で死んだ。
死んだ翌日には、代わりの奴隷が補充された。
どこかで聞いた。奴隷は「しゃべる道具」だと。
奴隷は、道具。その考え方は、すんなりと理解できた。正しいと思った。道具はいつか壊れる。壊れやすい道具と、壊れにくい道具があるだけだ。
壊れにくい道具なら、壊れるまで使えばいい。
人の何倍も働いた。背骨が折れそうな重さを担いで、毎日毎日走って運んだ。
でも、何年経っても壊れない。忌々《いまいま》しいほど頑丈だった。
だから、壊れるまで休みなく使うことにした。
みんな寝静まった夜、遠くの土捨て場まで荷車を牽いた。次の日に誰かがやる仕事だ。
一睡もせず続けていたら、限界は数日で来た。
真夜中、何でもない路上で前のめりに倒れた。額の皮が裂けて、血が出た。
やっと壊れた、と思った。でも不思議だった。
痛いはずが痛くない。
動かす力はあるのに、手足を動かせない。
立ち上がれるはずなのに、立ち上がれる気がしない。
壊れない外側より先に、中身が壊れてくれた。
―――――――何がしたかった?
ふと思い返してみた。
何かをしたい、と最後に思ったのはいつだろう。
あいつは言っていた。食べたい物、行きたい国、見たい景色、帰りたい場所。
夢があるから、壊れそうでも耐えられると。
夢がなくても、壊れないし耐えられた。
だから何も欲しくなかったのか?
壊れたい、楽になりたい――――それが望みだったのか?
でもいい。終わった。中身が壊れたなら、あとは動く屍だ。そんな奴隷を何人も見てきた。
星空でも眺めて終わりにしたい。
望みがあるとしたら、きっとそれだけだ。
――――――――…………………
……………………?
ひら……と、何かが動いた。
仰向けの視界に、近くの城壁が映りこむ。
夜空に聳える壁の上で、なにか揺らめいた。
「…………………………あ…………」
声が漏れる。
人影が一つ――――――踊っていた。
月の光を浴びて、神々しく。
その人影は女だった。
黒い髪が揺れて、灰色の瞳が見える。
しなやかな手が、泳ぐような軌跡を目に残す。
見たことのない光景だった。汗と砂ばかりの記憶に、鮮烈に描き込まれていくのが分かる。
彼女の瞳は下を向かない。
どこまでも空の彼方を見つめ、心底楽しそうに見えた。
まるで、踊れるなら――――明日も、その先も踊れるなら、もう何も望まないと言うように。
「……………………あ………………あぁ……!」
喉奥から何かが漏れる。
いつしか大地を踏み、月を見上げていた。
時が経つのも忘れ――――――壊れたはずの中身が零れて落ちた。
次の日の深夜。
気づけば、また昨日の場所に立っていた。
ここは宿舎から離れていて、他の奴隷や顔なじみもいない。
だが、壁を見上げても彼女の姿は無かった。
次の夜も、また次の夜も出向いた。よく懲りもせずにと自分でも思う。それでも、夜になると同じ場所に足が向かっていた。
二十五日目の夜、彼女は再び現れた。
月の精霊だ。そう思うほど、ただ美しかった。
踊りのことは分からない。それでも、あの人が踊りにどれだけ心血を注いできたかは伝わってくる。歳は自分と変わらなく見えるのに、尊敬と憧れが湧いてきた。
六十一日目の夜、また見ることができた。
その姿を目に映すたび、記憶と一緒に蓋をした感情が、少しずつ蓋を押し上げるのが分かった。
そして、九十日目の夜。
あの人は突然、壁から転落した。
(………………⁉)
何が起きたか分からない。何かが前触れもなく壁を砕き、足場を奪った。
思考するより早く、脚は動いていた。
一直線に真下に向かう。
でも、理性は告げていた。間に合うわけがない。
落下なんて瞬きほどの出来事。人間の脚力でどうこうなる話ではない。
ただ、それは脚を止める理由にはならない。
(………………! ……………………!)
そして、理性の見立ては誤っていた。
足の指で土煙が爆ぜる。
壊すために酷使した脚は、自分ですら信じがたい速度を叩きだした。
地面まで、残り一階分。
――――――――差しだせ、全部。
腕を出せ。割りこませろ。
どこでもいい。脚でも内臓でもくれてやる。
いくつ奪ってきた?
いくつ失ったと思ってる?
今だけでいい。一度くらい許してくれ。
だから、だからどうか、この人だけは――――――
――――――そして、願いは届く。
差し出した両手には、生きた少女が抱かれていた。