祝福の鐘
カァァー……ン カァァー…ン
高らかな鐘の音が響いていた。
夕映えの砂漠の街は、それだけで絵画さながらに人を魅了する。
マーハ王宮の南側――――実質的な正門である「慈悲の門」は、すでに閂を解いていた。門兵による検問を通過し、ぞろぞろと来賓たちが入場する。彼らをまず迎えるのは、花々が鮮やかに咲き乱れる緑地庭園、清らかな庭池、そして中央に鎮座する金纏宮。
天界の楽園のような光景は、有力者であるはずの客に、大砂漠の覇者が何たるかを知らしめる。
金纏宮の中央正殿、一階奥の廊下。
普段なら「化粧部屋」は一部屋で十分だが、今夜の大仕事には全く足りない。その廊下に面した部屋全てを使っての大陣営が敷かれて、女官たちが宴の用意に忙殺されていた。
踊り子の衣装をせっせと運んでいく幼い下級女官。アイシャドウを塗る熟練の化粧係。侍女頭トルマリアは、百人以上の女官を軍隊よろしく動かしつつ、時には接待役の官僚にすら指示を飛ばす。
今夜は、年に一度の祝祭「大饗宴」。
マーハの商人や名門氏族をはじめ、遠い国の貿易商、果てには近隣諸国の王族までもが一堂に会し、夜どおしで盛大な酒宴に興じる。規模はいつもの夜宴とは比較にならず、振るまわれる酒や料理、調度品の格式までもが一段上。
しかし、何より違うのは踊り子の舞台だ。
「いやあ、一年待ちわびた。あれほどの美女、あれだけ揃って拝めるのは今日限りだ」
「今年も『札入れ』があるんだろう? あれは御趣向だよ、胸が躍るな」
「とはいえ、一等となれば『あの三人組』で決まりじゃろ。ええ、名は何と言うたかな……」
庭園の池のほとりで、招かれた賓客が語らっていた。
マーハ王宮が擁する踊り子隊――――総勢十五組が、今夜は立て続けに舞台に立つ。
それが終わると「札入れ」、つまり投票が待っている。得られた札の数が評価となり、今後一年における踊り子隊の序列が決まるのだ。
化粧部屋が面している廊下には、数十人の踊り子が集められていた。舞台に上がる順番はすでに決定済み。出番が早い踊り子から順に、化粧や着付けのために部屋に呼ばれる。
「瑠璃組のマルシャ、入りな!」
「は、はいっ! マルシャ、行きますっ!」
背丈が小さく、顔立ちも幼く見える少女。しかし瑠璃組という名が呼ばれた瞬間、待機している踊り子たちは騒めいた。
通りかかった若い侍女が、知り合いの踊り子に話しかける。
「…………あんなに小さい娘が、去年で三連覇したっていう瑠璃組? そんな雰囲気、全然ないけど」
「あんた、踊り子のこと本当に知らないのね……。あのマルシャって娘、そこらの主役より断然上手いわよ」
「ふぅん……そんな娘を差し置いて主役とか、どんな踊り子なのよ」
(うぅぅ〜………サフィ、どこにいるの……?)
化粧部屋に入っていくマルシャの胸は不安でいっぱいだった。
ここに招集がかかる直前、ネフリムと一緒に最後の捜索をしたが、サフィの行方は杳として知れない。
一方、ネフリムは廊下の壁際に立っていた。
佇まいは悠然として、舞台前の緊張など一切見えない。序列一位に相応しい、品のあるオーラを醸していた。
(瑠璃組の出番、分かってはいたけど…………よりによって一番手か)
その姿とは裏腹に、ネフリムもまた焦れていた。すでに会場の迎賓広間には来賓が入ってきており、節操のない客は酒を運ばせているらしい。
適当に理由をつけて辞退する、という手は無かった。いつもの酒宴ならともかく、マーハの威信をかけた大饗宴を辞するとなれば、辞退者本人がきっちり弁明しなくては通らない。
(まさか…………戻って来ないつもり……?)
無意識にネフリムは親指の爪を噛んでいた。
そんな彼女のもとに、一人の足音が近づく。
「おい、まだ来てねえのか、あいつ」
「あなた……!」
声をかけたのは、瑠璃組に次ぐ序列二位――――翡翠組の主役、ジェッダ。
「…………よしっ! 届いた!」
水底から出口までの高さは、男二人を縦に重ねたほど。穴の出口には鉄格子の蓋が乗せてあって、カナートを流れてきた冷気が隙間から吹き上がるようになっている。
サフィはシドルクの両掌を足場にし、限界まで背伸びをして、鉄格子の蓋を両手で突っ張っていた。
「押して、シドルク!」
「…………!」
シドルクは、ランタンの取っ手をがっちり咥えていて喋れない。合図に合わせ、勢いよく両掌を持ち上げる。サフィの全身をつっかえ棒にして力が伝播…………ついに、鉄格子の蓋が持ち上がった。
差しこむ光が、サフィの瞳を輝かせる。
「跳ぶよ、せーのっ!」
シドルクと呼吸を合わせ、鉄格子をどかした出口へと跳ぶ。どうにかサフィは地上に這い上がった。
目が眩むほど明るくはない。そこは目指していた場所――――銀盤邸の地下室だった。
支えの石柱がある以外は、風通しを良くするためか何も置かれていない。
カァァァ………ン! カァァァ………ン! カァァァァ………ン!
ふと、遠くない場所から夕刻の鐘が聞こえた。街で聞いた忙しない音とは違う。耳によく馴染んだ、間延びした大鐘楼の音色。
(帰って…………きた……っ!)
じんわりと鼻先が熱くなる。でも、それより先にすべきことがあった。
「………………シドルクっ!」
出てきた床の穴を覗きこみ、サフィは彼を呼んだ。
道中といい、最後の鉄格子の蓋といい、やはりシドルク抜きで通れる道ではなかったのだ。
シドルクはこれから、来た道を通ってジュニが待つ出口へと帰る。でもその前に、彼に言うべき言葉――――――言いたかった言葉があった。
サフィは、穴の暗闇に目を凝らす。そこに彼の姿があった。
「あれ…………?」
しかし、暗闇で目立つはずのランタンの明かりが見えない。シドルクの手にあるランタンは、水没したのか本体のガラス胴に水がたまり、火が消えている。
当然ながら、この暗渠はランタン無しで通れるものではない。
「待ってて、火種つくるから!」
サフィは即断した。シドルクが手を伸ばしてランタンを渡すにはギリギリ届かない。強引にランタンを投げ渡そうとして、万が一破損でもすれば唯一の光源を失うことになる。
ならば、サフィが火種を起こし、地下のシドルクに投げ落とせばいい。
すぐに革袋から火打石とナイフを取りだす。麻縄の切れ端をほぐして、ナイフの刃先を火打石に擦りつけて火花を落とす――――が、火花が出ない。何度も何度も何度も擦り、ようやく麻縄が白い煙を吹いた。
燃え移すものが無いので、サフィは着ていたローブを脱いだ。ローブの下は、あのシルクの踊り子衣装。王宮に到着した今、どのみち外で購入したローブは処分する必要がある。
丸めたローブに火をつけ、サフィは再び穴を覗きこむ。
「火種できたよ! シドルク――――」
そこに、彼の姿は無かった。
「………………………………シドルク?」




