帰り路
まさしく「地の底」だった。
月のない夜を何倍にも煮詰めたような闇。ランタンの明かりが無いと、すぐ鼻先に何があるかも分からない。ふくらはぎを濡らす水流だけが、わずかな勾配を下っている事実を教えてくれる。
とはいえ、実際に濡れているのはシドルクの両脚だけ。
サフィは彼の背中にしがみつき、ランタンを持った右手をできるだけ前方に伸ばしていた。
「どう……? 顔に当たらない?」
「…………大丈夫。天井に気をつけろ」
少しでも先を照らそうと右腕を突き出すが、所詮、ろうそく一本分の光源に過ぎない。その一本だけが頼みの綱だった。サフィが背負われてランタン係に徹しているのは、甘えではなく、シドルクの両手を自由にするためだ。
天然の洞窟ほどではないが、カナートは狭くて凹凸も多く、両手で探り探りに進まねばならない。
つまり、これが最適解なのだ。
右手のランタンをもっと前にと、サフィはいっそう強く抱きつく。
(………………胸が当たるとか…………うん、そういう場合じゃないんだけど)
どこかのスケベ小僧のせいで、つい意識してしまう。
ただ、サフィはもともと羞恥心が強い方ではなかった。
瑠璃組として最初の踊り子衣装を仕立ててもらった時のこと。手違いで、小柄なマルシャの寸法で作られた衣装が三人分届けられた。丈も布面積も圧倒的に足りなかったが、初めての舞台衣装に興奮したサフィは、それを試着したまま稽古場にダッシュ。ネフリムの鉄拳が止めてなければ変態痴女として名を馳せていただろう。
その頃と比べて、サフィの何かが変わっているのは間違いない。
だんだんと水路が広さを増し、壁の凹凸が減っていく。その一方で水嵩は増え、今の水位はシドルクのひざ下くらい。どうにも、他のカナートが少しずつ合流しているらしい。
ひざを越える水位では、人間は極端に歩きにくくなる。「王の喉」の流れが緩やかで、しかもシドルクの脚力があればこそ進めるのだ。実際、今のペースは予想より順調。このままいけば、大饗宴の開始までに十分到着できるだろう。
「………………マハ、ラーナ……」
「へ…………?」
シドルクの呟く声は小さいが、密着したサフィには聞き逃しようがなかった。
「ど、どうして? どうしてシドルクが知ってるの⁉」
「…………すまん。気になった。知らない言葉だったから」
「いやっ、じゃなくて! それ、誰から聞いたの?」
「寝言で言ってた。ほとんど毎晩」
「っ…………⁉」
かぁぁっとサフィの顔が赤らむ。さっきの羞恥とは全くの別物。
そう、シドルクは意外と好奇心旺盛なのだ。
自分自身のことに頓着しないだけで、初めて聞く言葉は覚えようとしたり、初めて見る花をとりあえず嗅いでみたり。今の呟きも、サフィをからかう気など毛頭なく、ただ未知の単語が気になっただけなのだろう。
「…………踊りだよ。『月に乞う』っていう演目の名前」
「…………マハ、ラーナ…………マハ・ラーナ」
「そっか、観せてあげれば良かったね」
サフィは少しだけ悔やんでいた。
思い返すと、シドルクやジュニの前で踊り子らしいことを一度もしていない。踊るには地下の物置小屋は狭すぎて、屋外では誰の目があるか分からないという事情はあったが。
「――――――わたしね、あの夜も『月に乞う』を踊ってたんだ」
サフィは思い出す。
間もなく終わるだろう、この短い冒険の始まりの夜を。
「どうして壁の上なんかで、って思うでしょ。眺めは最高だけどね、だからじゃないよ」
しがみつく左腕に、ふと力がこもる。
サフィ自身も、なぜこんな話を今更しようとするのか分からない。王宮内の事情を知らない、それでいて心を許せる相手に、抑えてきたものを吐き出して楽になりたいのかも知れない。
「小さい頃ね、踊り子さんの『月に乞う』を観てさ。綺麗だったんだ。綺麗で、綺麗すぎて、忘れられないくらい。それから何年も思い出して、練習したの」
シドルクの相槌はない。しかし歩む脚は止まらず、ざぶざぶと澱みを踏破していく。
「でもね、いつの間にか、あの踊りに変な意味が付いちゃってさ。踊ると…………まぁ、嫌な顔する人が増えたの。でも、わたしは我慢できなくてさ。みんなが寝たあと、こっそり練習してたんだけど」
サフィのつま先が水面に触れ、冷たさが神経を伝う。
「…………三か月前かなぁ。わたしが『月に乞う』をやってるの、他の子に見られちゃって。だけどその子、わたしと同じくらい踊りが好きだからさ、きっと分かってくれるって…………甘えたんだよね。すごく怒らせちゃった。たぶん、その子も『月に乞う』を踊りたくて我慢してたのに、わたしが好き放題に踊ってたから…………許せなかったのかな」
サフィの考えは、ほぼ正鵠を射ていた。ただ、その時の口喧嘩を「その子」がどんな気持ちで振り返っているか、それは知る由もない。
水深は徐々に増していく。位置的には、そろそろ「王の額」の真下を通過する頃だった。
「だから、誰にも見つからない場所を探して…………ちょっと前に、あの壁の上を見つけたんだ。心配かけちゃうから、誰にも内緒でね」
「………………。」
「…………ねえ、おかしいと思わない?」
サフィの声は微かに笑っていた。
ゆらりと、ランタンの灯が明滅する。
「だってさ、踊りだよ? なのに、誰にも見られちゃ駄目って…………わたし、踊り子なのにさ。踊りたいだけなのに…………あの人みたいな踊り子に、なりたかっただけなのに」
ずっと蓋をしてきた心。
それは、サフィが思っていたよりもずっと、穏当な言葉になった。
「ちょっと、さみしいかな」
それでも、胸のつかえは少し癒された。
王宮に帰ったら、また性懲りもなく秘密の練習場所を探すのだろう。誰に見られることもなく、たった一人、「月に乞う」を踊るのだろう。
それでいい。
舞台で披露できなくても、誰かに観られなくても、それでいい。
あの日の憧れを――――——「月に乞う」を醜い感情で汚されるくらいなら、それで十分なのだ。
「……………………そうか」
「うん、それだけ!」
シドルクの短い返事に、サフィは努めて明るく答えた。
共感や同情が欲しくなかったといえば嘘になる。ただ、シドルクの口から歯の浮くような慰めが聞こえたら、サフィは違和感に襲われたことだろう。
(あぁ、そっか…………今頃分かっちゃった)
言葉など最初から求めていない。やっと気がついた。ずっと感じていた物足りなさの正体。
心の中で、自分が何を望んでいたのか。
(わたし…………もっと一緒に――――――)
じん、と眼底が疼いた。
闇に慣れた瞳孔に、ランタンの灯とは違う鮮烈な光が入りこむ。
「あ…………!」
真上から水面に、ひとすじの光芒が差していた。
帰還作戦の終着点。
王族の邸宅――――――銀盤邸の地下に、二人は到達した。