ラピスラズリの首飾り ④
マーハ市街地から北東に離れた、なだらかな高台の上。まばらに草が生えるだけの赤土の荒地に、サフィは立っていた。
その足元に、ぽっかりと竪穴が空いている。
直径は、ちょうど大人一人が通れる程度。地下深くまで垂直に掘ってあり、奥には暗闇が満ちている。穴の側面はすべて石積み。つまりは土木工事の産物だ。
蓋になっていた石の円盤はどかしてある。竪穴の存在を隠すため、蓋はもともと赤土の下に埋めてあった。
竪穴のそばに、三人の人影があった。
「これが…………そうなの?」
「そうみたいっす。つっても噂で聞いただけで、見るのは俺も初めてっすけどね」
サフィとジュニが、深淵をまじまじと覗きこむ。
「これが『王の喉』なんすね、兄貴」
「…………ああ」
「カナート」という種類の地下水路がある。
まず、地底深くの帯水層に届くまで垂直に穴を掘りぬいて「母井戸」にする。帯水層までの深さを測ったら、水が欲しい目的地から母井戸に向かって横穴を掘りぬき、水路として開通させる。
母井戸から目的地まで、カナートを流れる水は太陽に晒されることがない。地上の河が干上がってしまう地域では、カナートこそが集落の生命線になる。
カナートの真上には管理用の竪穴が、まるで縦笛の穴のように点々と空いている。サフィの足元にあるのも竪穴の一つだ。
「十年くらい前だ。マーハの国王の命令で『王の喉』が造られた。奴隷が何千人も駆り出されて、工事を一年で終わらせた。…………俺も、そこで働いていた」
「シドルクが、ここで?」
「俺が憶えている入口はここだけだが、間違いなく王宮の下まで通じている」
しかし、話を聞きながらジュニは首を傾げた。
「でも兄貴、これって『水路』なんすよね? 王宮の井戸までつながってるのは良いっすけど、溺れないっすか?」
「いや、井戸までは行かない。それに空気は通っている」
シドルクは、サフィの方を向き直る。
「採風塔が立っている家に、出口がある」
こくり、とサフィは首肯した。
採風塔というのは砂漠の家にしばしば見られる設備で、煙突に似ている。上部に空いた穴から風を取りこみ、室内から昇る熱気を逃がす仕組みをもつ。
そして採風塔は、カナートと組み合わせることで真価を発揮する。
家の地下までカナートを引いて、床から竪穴を通すと、地下水と一緒に流れてくる冷気が竪穴から吹きあがる。採風塔の排気機能が加われは、家の中に絶えずカナートの冷気が流れる、というシステムが完成する。
もっとも、ここまで設備を整えられるのは一握りの富裕層に限られる。
そして、王宮には一箇所だけ、採風塔を備えた屋敷がある。
王族一家が生活する大邸宅――――通称「銀盤邸」。
作戦は至ってシンプル。
この竪穴から「王の喉」に潜り、銀盤邸の真下まで歩いて到達し、穴から這い上がる。
この作戦を果たすのに、条件は二つあった。
まず、カナートの暗闇を越えるための道具。
照明となるランタンはもちろん、万が一の場合に引き揚げてもらうため、体には命綱を結んでおく。市場でありったけの麻縄を買って回り、昨日の夜、三人がかりで結んで一本にしたのだ。
もう一つは、作戦決行の時刻。
首尾よく銀盤邸の真下まで着いたとして、地下から這い上がるのを誰かに目撃されるとまずい。だから、サフィは今日の夕方を待った。今夜は年一度の大饗宴。王族はもちろん、御付きの従者たちも大多数が金纏宮の方に出払っているはずだ。
すでに太陽は赤みを帯び、西に傾きつつあった。
水路を歩いても間に合う時間は確保したが、そこまでの猶予はない。
「う、わ………………っ」
だが、サフィは竪穴に満たされた闇を見つめ、怯んでいた。
奥を流れているはずの水の音も聞こえないほど最深部は遠い。ランタンがあるが、この暗闇に立ち向かうには心許なく、そもそも地下まで無事に降りられる保証もない。
腹をくくったはずだが、生理的な恐怖は思った以上に足を重くした。
「あ…………そうだ、『お願い』! 二人ともまだだったよねっ⁉」
恐怖を紛らわすため、サフィは明るく振り返った。
今日まで二人は約束どおりに手を貸してくれた。今度はサフィが彼らの願いを叶える番だ。
「はいはいはぁい! 俺からいいっすか⁉」
ジュニが溌溂と手を挙げる。この能天気な明るさが、今は後押しになってくれる。
「よぉし、ジュニ君! このサフィ様が叶えてしんぜよう!」
おとぎ話の魔人よろしく腕を組んでみる。
「いやもう滅茶苦茶に悩んだっすよ。十番目くらいまで候補があって。でも一番は決めたっす!」
「うむっ! その願いを言うがよい!」
「おっぱいを揉ませてください!」
ざしっ、とサフィの踵が少し沈んだ。
「きっ、聞き入れた……! けど一応、二番目も聞いとこうか!」
「尻を揉みたいっす!」
「…………その次は?」
「二の腕っす!」
「待って待って、どういう順?」
「どうって、肉がついてる順っすけど」
「ちょっと⁉ そんなについてないからね⁉ ほらっ! ほらぁっ!」
二の腕をつまんで必死に訴える。だがそれより、十番目までの間に「脇腹」や「背中」が入っていないか、怖いながら聞いておきたい気もしていた。
「………………時間が無い」
後ろのシドルクが二人を促す。故意なのかどうか背中を向け、サフィの革袋から道具を出して準備を進めてくれている。
シドルクの言うとおり、刻限は迫っていた。
「いやぁ、姉さんのこと近所に怪しまれて毎回大変だったなぁ~? 兵士に通報られそうになって、その度に上手いこと誤魔化したのは誰だっけなぁ~?」
「くっ…………よしわかった!」
「おおおお!」
「でもっ!」
ずばっ! サフィは豪快にローブを脱ぎ捨てた。
あの夜に着ていた踊り子衣装が露わになる。
「お願いは『一つ』だから、どっちか片方ね!」
ぐっと胸を張って、仁王立ち。
その立ち姿だけは女傑と呼んでも良かった。
「片方って、左右どちらかっすか⁉ うぐ………それは決めてない……‼」
両手の指をわきわき動かしながら、大秘宝を目前に迷っている。
「ほらほら、もうすぐ店じまいだよ! 引っこめちゃうぞ!」
「くっ……なら、右手で揉みやすい方……? いや、そもそも左右で均等か……? 感触が違うとか……⁉ ううぅ、間違えたら一生後悔する……! イヤだ、ここで後悔したくないぃ……っ!」
最低すぎる葛藤を始めるジュニ。一方、サフィは品定めの時間だけ恥辱が長引くことに今さら気づいた。下手に出し惜しみしたことを少し後悔している。
限界まで悩み抜いた末――――――少年は刮目した。
「これ、どっちがデカいんすか?」
「……………………!」
ジュニの手首が掴まれ――――――吸い寄せられた。
「ふわ………………………………!」
耳を赤らめ、酸欠の魚のように口を開閉する。
生涯で初の、生涯忘れないであろう感触。
ほんの数秒が永遠にまで伸びる。時間が過ぎ、手を離しても、ジュニは石像のように硬直していた。
そこへ、準備を終えたシドルクが近づいてくる。
「もういいのか?」
「…………約束…………今のは約束だから」
ローブを拾って羽織りながら、サフィは何となく気まずくなって顔を伏せた。
「用意はできた。ランタンにも火を入れてある。縄は、あの岩に縛っておいた」
「あ…………うん、ありがと」
サフィは道具入りの革袋とランタンを受け取る。その傍らで、ジュニは魂が抜けたまま直立していた。
「……………………今の、見てた?」
顔を伏せたままサフィは尋ねる。伏せなくとも、どのみち二人の身長差では目線は合わないのだが。
「いや、見てはいない」
「そっか…………」
「ああ。でも考えもしなかった」
「…………? 何を?」
シドルクは、自前の大胸筋をぺたぺたと触った。
「左右で大きさが違うのか、これ」
スパァン!と、少女の平手打ちが胸板を鳴らした。
サフィは、革袋を抱えながら中を探った。
革袋には、道具の他にも、あの夜に身につけていた装飾品が入れてある。もともと大小合わせて十数点あったが、二つは換金済み。王宮に着いたら、それらは紛失したと説明するしかない。サフィは装飾品の一つを取り出した。
涙の形をした、ラピスラズリの首飾り。
それを、シドルクの右手に渡した。
「これは…………?」
泥汚れが染みついた掌の上で、海色のラピスラズリが鮮やかに光った。サフィの顔と首飾りを交互に見て、シドルクは疑問符を浮かべている。
「だって、どうせ言うでしょ?」
シドルクの顔を見上げて、にっこりと微笑む。
「お願いなんて何もない、って」
「…………どうして分かった?」
「顔に描いてあったから?」
サフィは、シドルクの性分を分かっていた。ジュニみたいに素直に欲望に従えばいいものを、シドルクはしない。硬派気取りでもなく、とにかく何に対しても欲や執着がないのだ。
そしてそれは、サフィにとって喜ばしいことではなかった。
「受け取ってよ。こうでもしなきゃ心残りになっちゃうし」
「…………わかった」
シドルクの大きな掌が首飾りをそっと握る。だがシドルクは、それをとなりで硬直しているジュニの手に持たせた。
「ちょ、ちょっ、それは…………!」
予想外の行動に、彼女らしくない弱弱しい声が漏れる。
「その、それはさすがに、シドルクに持ってて欲しいな……って」
「ああ。帰ったら受け取る」
「…………帰ったら?」
サフィが首を傾げた。シドルクは地面に横たえた縄を拾うと、自分の胴体に巻き始める。その縄は、サフィの身体に結ぶはずの命綱だ。
「俺も行く。ランタンと荷物は持ってくれ」
言うと、シドルクはサフィを肩に担ぎあげた。
「え、えええええ⁉ き、聞いていないけど⁉」
「ジュニ、頼んだ」
「ひょ…………りょぉかいっす…………」
ふやけきった頼りない声。それでもシドルクは信頼した顔で頷くと、サフィを背負ったまま竪穴の縁に足をかける。
岩に結びつけた命綱を頼りに、みるみるうちに穴の底へと降りていく。
帰還期限まで、残り2時間。