ラピスラズリの首飾り ③
大饗宴の当日、午後三時過ぎ。
「瑠璃組」の居室に、マルシャとネフリムの二人がいた。
さっきまで室内には悪臭が漂っていた。強い消臭効果のある没薬のおかげで、どうにか鼻栓が要らない程度には戻っている。
激臭に耐えること丸三日。嗅覚が狂いそうだったが、そんな苦労はもう必要はない。
ただし。
今日の夕刻に控えた大饗宴の舞台に、もう一人の仲間――――――サフィが現れなければ、その苦労は徒労だったことになる。
「ねえ、ネフリム…………」
マルシャはベッドに腰かけ、小さなひざを握りしめる。時には年齢らしからぬ度胸を見せる少女も、今はもう半泣きだった。
「サフィ、来るよね……? 帰って来るよね……っ?」
「…………っ」
もう一人の踊り子、ネフリムは親指の爪を噛んでいた。マルシャの手前、年長者として余裕ある態度を心がけてはいたが、その仮面は剥がれつつある。
ネフリムは、外務府の高官である父と、学者の母との間に生まれた。
幼い頃から理知的な子どもだった。いずれ自分も入るだろう宮廷社会で少しでも地位を得たいという打算から、上級女官である踊り子の道を選んだ。もしも芽が出なければ切り上げ、母親と同じように学者の道に進むつもりで。
覚えのいい彼女は順調に腕をあげ、いずれは筆頭の踊り子になると噂された。そうしてネフリムの心に芽生えたのは強すぎる自意識。踊り子だろうと学者だろうと、自分は人の中心になるべき存在なんだと確信した。
そして、十四歳の頃。
そんな驕慢を、三つも歳下の後輩に打ち砕かれることになる。
稽古場で見せられた後輩の踊り。その信じがたい完成度と表現力は、ネフリムに歴然たる実力差を知らしめた。当時のネフリムは、肥大化したプライドを必死に守ろうと躍起だった。その後輩を「比べてはならない例外的な天才」と見なし、割り切ることにした。
しかし気づけば、その後輩の姿を目で追っていた。
そして、ネフリムは誤りを知る。その後輩の本質は「天才」ではない。ただ一途に、踊り以外の何も考えずに没頭できる、例外的な「踊り好き」なのだと。
そして数年後、踊り子隊を結成するという時期になって、その後輩はネフリムを「主役」として勧誘した。
ネフリムは、その後輩の申し出を拒んだ。その後輩に主役をゆずり、人生で初めて「脇役」となることを選択した。
ただ一途に、彼女の輝きを、一番近くで見ていくために。
(甘えてんじゃないわよ……! 待たせても平気だと思ってるでしょ、わたしなら……!)
同時刻、マーハ市街地にある奴隷小屋。
「よーしよし、これからは綺麗に使ってもらうんだぞー?」
サフィは小屋の入り口に立って、小屋の土壁をぽんぽんと叩いた。
初日に必死になって掃除したのが、もうずっと昔のように思える。名残り惜しそうに土間の室内を眺め、奴隷たちと囲んだ食卓を思い出す。
保存のきく乾果や塩漬け肉、赤砂糖や麦粉などは、甕に入れて隠しておいた。ジュニとシドルクに隠し場所を教えてあるので、しばらくはそれなりの食事ができるだろう。
そして土間に敷いた布には、夕食にと焼いた大盤のマナイシュがある。以前とは違い、塩のきいた仔羊肉まで乗せた豪華版だ。
「うっ…………小分けの料理にすればよかった……」
大盤のマナイシュは、なぜかすでに一切れ消えていた。誰かがつまみ食いした証拠だが、容疑者は一人しかいない。
色々な道具を革袋に詰めこんで背負うと、サフィは奴隷小屋を後にした。
シドルクやジュニと約束した刻限まで、あと一時間ほど。二人とは、マーハ郊外の「ある地点」で合流することになっている。少し距離があるが、サンダル履きのサフィでも十分たどり着ける。
フードで顔を隠しながら、にぎわう市場を通り抜けていく。足早に通過しようとするが、きらびやかな装飾品を売る店、食べ損ねた料理屋台は、サフィにとって目の毒だった。
壁ひとつ隔てた外の世界は、こんなにも未知と魅惑でいっぱいだった。
大通りを走っていくと、少し人混みのはけた場所に出た。
そこで足を速めた時、ガッ!と何かにつまづいた。
「あたっ! …………って、あっ、ご、ごめんなさいっ!」
サフィが蹴ってしまったのは、地面にうずくまった人間だった。体格はとても小さく、サフィと同じように頭からフードを被っていて顔が見えない。
「あだだだァ! あったく、ちった気ぃつけなァ!」
「わわわわ、だ、大丈夫ですか……⁉ どこかケガとか……?」
サフィは慌てて駆け寄った。革袋を地面に下ろし、ひざをついて相手の顔を覗く。
「どこも平気だけどねェ、今ので溢しちまったよ! ほら、さっさと集めな!」
「え、えっと……? 何か持ってたんですか? 麦とか、豆とか」
サフィは地べたを見回すが、それらしい物は見当たらない。
「ああん? 最近の若いのは物を知らないねェ、これだよォ」
声の主は、薄汚れた麻袋の口を開けてみせる。
中に詰まっていたのは、白っぽくて細かいだけの――――砂だった。
「粉みたいな砂だろォ? 餌に混ぜると分かりゃしねえのさァ。生活の知恵ってやつさね」
フードが風で捲れた。現れた顔は、しわが深く畳まれた老婆だった。
「まったく嫌になるねェ。明日からまた汚えもんの世話こきさァ。もっとお暇が欲しかったねェ」
「…………うん、ばっちいのは駄目ですよね」
革袋を左手で抱え、サフィは立ち上がる。右手は固く握られていた。
「あの、ごめんなさい。わたし、どうしても急がなきゃいけなくて」
「あん? 世の中を知らない小娘だねェ。いいかい、自分の不始末ってのは――――」
「だから、もらった分だけ返しますねっ」
老婆の口に、一握りの砂をぶちこんだ。
「もごぉああ⁉ ぶぺッ! ぺッ! ぶべェ!」
もがきだす老婆に、道行く人々は騒然とした。
サフィは革袋を背負い直すと、一度だけ振り向いて、そのまま走り去っていく。
「さよなら、『お祖母ちゃん』」