ラピスラズリの首飾り ②
「――――――それで、あれは足りそうなのか?」
ピタを食べ終えたシドルクが、サフィに尋ねる。
「うん、たぶん足りると思う。市場にあったの全部買い占めちゃったかもね」
「…………顔を覚えられてないといいな」
シドルクの言うのは皮肉ではなく、ただの懸念。目立つ客は記憶される、という発想がサフィにはまだ無かった。
あの夜から、丸二日。
今日この日こそが、サフィの帰還期限。踊り子隊「瑠璃組」の出番当日だった。
タイムリミットは、夕刻の鐘の直後。
ただ、その帰還作戦は今すぐ始めることはできない。時を待つ必要があるのだ。
サフィは、胸が騒がしいのをギュッと押さえた。
二日前の夜、すでに覚悟は決めたはずだった。シドルクを信じると。踊り子としての自分を守るために、賭けに出ると。だからこの騒めきは、作戦本番への不安とは違う気がする。
「…………みんなとご飯食べるのも、これが最後になっちゃうかもね」
食べかけのピタを持ったまま、サフィは呟いた。
「ああ」
「ああって、もう…………。あと、たまには掃除しなさいよ? 風通しを良くしたり、着てるもの洗ったり、それだけでも病気除けになるんだから」
「…………そうか。そうする。ジュニの身体には良さそうだ」
「ジュニの? どうして?」
サフィは、畑の反対側にいるジュニの方を眺めた。あちらもサフィの方を見ていたらしく視線が合ったが、どうしてか即座に目を逸らされた。
となりにいる木板を持った友達が、せわしなく手を動かしている。
「ジュニは身体が弱いんだ。もともと没落した名家の生まれで、病弱なせいで売られたらしい」
シドルクが語るのは、とある古参の奴隷から聞いた話。
「最初はどこかの商家に『跡取り』として買われた。子供の奴隷を買って、あとから奴隷身分を解いて家を継がせるのは珍しくない。でも、ジュニが育ちきる前に息子が生まれた。育て親はジュニを持て余して、後腐れのないように安い労働奴隷として売りに出した」
「……………なに、それ……!」
サフィは奥歯を噛みしめていた。
今日までのジュニの気楽そうな笑顔には、そんな闇など少しも感じなかった。
「小さい頃から汚れ仕事をしてれば多少は丈夫になる。でもジュニは違う。もともと身体が弱いのもあって、仕事の最中に何度も倒れた。少し前には悪い風にも罹った」
悪い風――――遠い時代では「破傷風」と呼ばれる病。傷口から「風」が入りこむことで発症し、光などの刺激を受けると筋肉痙攣を起こす。時に、自らの筋力で背骨を折ってしまう者もいる。治療には光の射さない暗室に寝かせるのが第一だ。
「ああ、そっか、それで…………」
どうして二人の寝る場所だけが地下の物置小屋なのか、サフィはずっと疑問だった。破傷風になったジュニの治療と、その付き添いをしていた名残りだと思えば納得できる。
シドルクならそうしそうだ、という納得も込みで。
「うん、決めた」
サフィは大きく頷くと、土囊から立ち上がった。
「王宮に帰ったらさ、わたし、やるよ」
「…………? 何をだ?」
「踊り子ってね、上手くやれば王宮の中でも金貨を稼げるみたい。友達に一人、それが得意な人がいるの。だからさ、時間はかかると思うけど――――」
灰色の瞳で、サフィは雲一つない穹を見た。
「わたし、みんなを買う。それで自由にする」
ここまでの数日間、サフィは初めて外の世界を見た。
サフィが育った王宮には存在しなかった「奴隷」。
マーハの繁栄を支える働き手であり、しかし、どこか遠い世界の住人だと思っていた「奴隷」。
彼らには彼らの生活があり、喜びや苦しみがあり、未来があり、自分と変わらない人間だと思い込んでいた「奴隷」。
それが盲目だったと、サフィは知った。
喜んだり苦しんだりする心も――――未来もない。
何気なく食べていた真っ白な大麦も、彼らの口には満足に入らない。
それを知った今、無事に王宮に戻れたとして、以前のような気持ちでは暮らせない。
奴隷制度そのものを今すぐ無くせると思うほど、サフィは夢見がちではない。だからせめて、彼らには人間らしい生活をさせてあげたい。それを叶えられるのは唯一、奴隷を買った主だけだ。
奴隷一人をいくらで買えるか、その額を貯めるのに何年かかるか、それは分からない。
一つ確かなのは――――――サフィは一度言ったことを曲げる女ではないことだ。
「…………そうか。王宮に帰れたらな」
「んん~? そりゃもちろん! 帰らせてくれるんでしょ?」
「…………ああ」
にひっと笑って、サフィは最後の一口を惜しまず放り込んだ。