裏切り者
早朝の鐘が鳴ってから、三時間後。
金纏宮の北側に建てられた、ひときわ大きな白壁の平屋。床板には柔軟なクルミ材をあしらい、壁の一面をガラス鏡で埋め尽くしている。邪魔なものを一切置かない、体を動かすための広大なフロア。
そこは歌舞練場――――踊り子たちの稽古場だった。
スタンッ! スゥゥ――……タッタンッ! シュルルッ!
その中央で、模範演技をしている踊り子がいる。
スタッカートを刻んだ切れ味のいい足さばき。凛とした目線。深紅のヴェールは、盛炎が揺らぐような無数の残像を生みだす。
連編演目「七つ海の奇譚」のうち、第二節「宝石の谷」。
本番さながらの気迫に、取り囲んでいる見習いたちは思わず見稽古なのを忘れてしまう。
「はーい、ジェッダ先輩、ありがとうございましたぁ!」
「「ありがとうございましたっ!」」
模範演技が終わると、指南役である元踊り子が見習いたちを連れて行った。この後、見習いたちには広場で基本ステップの反復練習が待っている。
出口の方から、興奮冷めやらぬ少女たちの姦しい声がした。
「やっぱりカッコいいよね、ジェッダ先輩!」
「だよねだよね! そのへんの殿方より全然イケてるし! 腕前だって一番でしょ⁉」
「ええ~? さすがに一番はサフィ先輩だよぉ。ほら、この前の『魔人』とかさぁ――――」
稽古場に一人で残り、柔らかい布に汗を吸わせるジェッダ。
丸っこい眉以外は凛々しいパーツが揃った美人だが、その表情は晴れやかではない。
「ジェッダちゃん、お疲れ様ねぇ」
後ろから声を掛けられる。おっとりした声の主は、踊り子隊「黄金組」の主役・アウロ。
北方の血筋らしい金髪をなびかせ、豊満なスタイルを見せつけている。
「でもぉ……模範演技なんて面倒くさいの、わざわざ請けなくても良かったんじゃない? まあ、うちがパスしたからアナタに行ったんだけどねぇ」
「…………たまには本物の演舞、見せなきゃならねーだろ」
おでこを顔拭きに埋め、ジェッダはアウロと目を合わせようとしない。
「あらら? ワタシたちのは本物じゃないってことぉ?」
「乳だの尻だの振り回すのが踊りじゃねえからな」
ようやく布から顔を離すと、アウロと視線がカチ合った。アウロの後ろには「黄金組」の仲間が来ているが、場の空気に圧されて黙っている。
「ジェッダちゃんは相変わらずマジメねぇ? だけどぉ………あの子は、アナタほど純粋じゃなかったみたいねぇ?」
「ああああぁッッ⁉」
突如、ジェッダが狂犬のごとくアウロを睨みつける。
「あらぁ? だってあの時、一番怒ってたのはアナタなんでしょ?」
長身美女のアウロは、小柄なジェッダを悠然と見下ろしながら続けた。
「気持ちは分かるわ。とても残念よねぇ? 求道者って言うのかしら? あんなにストイックに毎日毎日、踊りの稽古ば~っかりして…………。あの子も同類だと思ってたのに、実はあっちは下心満々でした、だものねぇ?」
「口を閉じろッ! その無駄にデケえもん引きちぎるぞッ!」
「あら、あの子が正しいのよぉ? 踊り子を観たがる男なんて、所詮は『コレ』で満足するんだから」
アウロは乳房を吊っている肩紐に爪をかけ、ぺんっ!と鳴らして見せる。
「おかしいと思ったのよねぇ。この狭苦しい王宮から出られるわけじゃなし、踊り子の一番になったって何も変わらないのに…………どうしてあんなに頑張ってたのか」
ジェッダを睥睨しながら、アウロは冷笑を浮かべた。
「すごいわよねぇ? 王妃様にあやかろうとしてたなんて」
「言うなッ! あいつは…………あいつはそんなんじゃねえ!」
アウロの肩にジェッダが掴みかかる。しかし、アウロが自ら抵抗するまでもなく、後ろの「黄金組」の仲間たちがジェッダを引き剥がした。
三か月と少し前、とある深夜。
明かりの消えた稽古場で、一人、誰かが踊っていた。
たまたま忘れ物を取りにきたジェッダと翡翠組の仲間が居合わせ、それを目撃した。
踊っていた演目は「月に乞う」。
今から十年前、現王妃ルベリエラ=ウル=ジルヴァが踊り子だった頃。
とある夜宴で起こった刃傷騒ぎの中、ドゥラーン国王の前で、彼女は「月に乞う」を披露した。ドゥラーン国王はルベリエラを見初め、その場で正妃位を約束したという。
マーハの歴史上、女官に過ぎない踊り子が見初められた例は一つもない。
しかし、ルベリエラという前例が生じたせいで、ただの伝統舞踊に過ぎなかったはずの「月に乞う」は全く異なる意味合いを孕むことになった。
すなわち。
「月に乞う」を披露する踊り子は、王妃になりうると。
若さと美貌にかまけて稽古を怠っていた踊り子たちは、態度を一変させた。
第二妃、あるいは寵姫になれる可能性があると知り、みな秘かに「月に乞う」の習得を目指した。その手段はあった。踊りの詳細が記された儀典から、あるいは年老いた数少ない継承者から。しかし「月に乞う」の習得難度はケタ外れで、やがて大多数が挫折していく。それでもなお習得しようとする者に対しては、挫折した踊り子だけでなく、踊り子以外の女官からも嫌がらせが加えられた。
月に奉じる神聖な舞は、穢れた野心の象徴になってしまった。
そして、十年が経った現在。
次期国王であるジャムゥル皇子が妻を迎えるべき年頃になると、ジャムゥル自身の魅力もあり、女官たちの間で「下心」の探り合いは苛烈さを増した。「月に乞う」にまつわる偏見は、かつて踊り子だった世代から、アウロやジェッダのような現役の踊り子へと波及していく。
ジェッダもまた、かつてルベリエラの「月に乞う」を目撃し、憧れた一人だった。
しかし、踊りの道を極めたいだけの彼女にとって、ありもしない魂胆を疑われるのは不本意でしかない。おのずと「月に乞う」を踊ることは憚られ、幼い日の憧れは秘めておくようになった。
そんなジェッダの前に、現れてしまったのだ。
月明かりの下―———まるで、あの夜のルベリエラを写し取ったような踊り子が。
(「裏切り者」「もう踊り子じゃねえ、お前なんか」とか…………言ったっけな、アタシ)
両腕をアウロの仲間に掴まれながら、ジェッダは述懐する。
あの時は、いつもの口喧嘩とは違った。
腹の底から怒りをぶつけ、彼女を否定した。寝るのも忘れ、昼も夜もなく没頭するほどの踊りへの愛を――――自分と変わらない愛を、真っ向から否定してしまった。
下心なんてあるわけない。
そんなことは、誰より分かっていたはずなのに。
「まあ、そんな下心も御破算かもねぇ? その子って今、部屋でヤバいことになってるみたいだし」
「はあ……?」
ジェッダの丸っこい眉が離れる。
職人かたぎで硬派な彼女は、うわさの類いに敏感な方ではなかった。