誰もいない街で ②
サフィは歩き出した。
目指すあてもなく、とぼとぼと。
すべての始まりとも言える「王の額」を見つめ、物思いにふける。
これから一体、どうしたら。
――――今からでも出頭する?
あの時は脱走だけだったが、今は違う。ここまで日数が経ってしまった以上、きっと罪は重い。「職位の永久剥奪」は決定的で、免れない。
――――いっそこのまま、本当に脱走して逃げてしまうのは?
このマーハで何年も隠遁生活が送れるとは思えない。どこかのキャラバンを頼って、他の都市まで行ってしまった方が安全。残っている装飾品を売れば、しばらく路銀には困らない。
でも、王宮で帰りを待っている二人――――マルシャとネフリムは?。
ただの仲間じゃない、本当の姉妹みたいな存在。あの二人を裏切ることになるのは、考えただけでも鳥肌が立つ。寂しがりなマルシャは、きっとしばらく塞ぎこんでしまう。ネフリムは…………寂しがるのは想像できないけど、もしかしたら色々と察して、マルシャや自分に責めが来ないように立ち回ってくれるかも知れない。
――――だけど、そうやって逃げた場所で、まだ「踊り子」を続けられる?
それは多分できる。外の世界にも「踊り子」がいるのをさっき見た。
酒場がもっと多そうな他の都市なら踊り子も多いはず。素性を隠したまま酒場の踊り子として生きていくのも不可能じゃない。この自由な世界で、毎日好きなだけ踊って暮らす。それは、とっても魅力的な選択に思えた。
(………………でも)
サフィは足を止めた。
想像した。逃げて、逃げて、名前も顔も隠しながら逃げて――――その先で行きついた、聞いたこともない遠い街を。
サフィの知る人など、誰もいない街を。
頼れる人も、名前を明かせる人も、その街には一人もいない。
寂しくても折れそうでも、誰もいてくれない。
(じゃあ、誰がいればいいの?)
サフィは思い浮かべる。
誰もいない街で、たった一人の味方。
この人さえ側にいてくれたら大丈夫。乗り越えられる。少なくとも、そう信じることができる人の顔を。
(………………いやいや、おかしいでしょ)
ひゅら……と夜風が砂を舞わせ、足元に吹きつける。
この数日間、壁の外の厳しさは骨身に染みた。だから理解はしている。右も左も分からない街で、たった一人の逃亡生活。そんなもの絶対に耐えられない。
サンダルに入った砂粒が、ざりざりと足裏に纏わりつく。拭えない不快感は、胸に空いた穴を蟻地獄のように広げていく。先の見えない不安が不安を呼び、悪い想像ばかりが心を蝕む。
「ねえ、シドルク」
「ん?」
サフィは、その言葉を口にするのを躊躇していた。
あまりにも都合がいい。あまりに身勝手。そんな台詞が浮かぶのは、心のどこかで相手を侮っているから。そんな自分嫌悪が渦巻いて、その一言を喉の奥へと押し留める。
「もしも、ね…………もしも、なんだけど」
だが、サフィはついに押し殺すことができなかった。
「逃げたい、って言ったら…………一緒に来てくれる?」
さり……と、つま先を砂の粒が掻いた。今だけは何の感触も与えない。
月明かりが射す。サフィの影が伸び、向かい合う青年の足元に届いている。
ほんの数秒の、しかし永い沈黙――――――そして
「………………俺は」
「ごめんっ! い、今の無し! 言ってみただけっ!」
シドルクが答える寸前、サフィは拒んでしまった。
ずるい自分を許せなくなった。
それに――――答えがどちらでも、聞くのが辛かった。
サフィはずっと感じていた。
この大きな青年は、あまりにも献身的すぎると。
あの夜にサフィを助けたのも、市場で巡邏兵から逃がしてくれたのも、「脱走者」を今日まで匿っているのも…………どれもこれも、たかが「お願い」一つとは釣り合わない危険を冒している。
だから、サフィは心のどこかで甘え、そして危惧していた。
シドルクはきっと、自分を顧みず、どこまでも助けに来てしまう。
「ごめんね、変なこと訊いて! 大丈夫、そんなこと考えてないからっ!」
「………………サファルケリア」
「ひひひっ! そう呼ばれるの、お説教のときくらいだなぁー! ぜんぜん慣れないや!」
サフィは白い歯を見せつけた。とびきりの笑顔が、月明かりの下で蒼白く映える。
誰かを無茶な逃亡生活に巻きこもうなど、もともと本気で考えてはいなかった。それ以前に、シドルクに甘えるのだけは絶対に駄目な気がした。
心の波風は凪いでいない。でも、頭は答えを出していた。
出頭するか、逃げるか。
一人で決着をつけるために取るべき選択肢は。
(楽しかったなぁ、外の生活。それに――――踊り子も)
すぅ――――と右手を差し出す。
しなやかな蛇のように腕をしならせ、見えないヴェールを泳がせる。
なびく指先は、舞い落ちる羽毛のように衒いなく、美しい。
少しでも踊りの心得がある者なら、この手を見ただけで、サフィを一流の踊り子だと看破してしまうだろう。だから、深夜とはいえ誰が見ているか分からないマーハの街で、これ以上は許されない。
肩が小さく震えていた。
踊り子になった時から、ずっと叶えたかった一つの願い。たった一つの夢。それを果たせないまま、道半ばで舞台を降りる。覚悟を決めたつもりでも、その激情は溢れかけていた。
その後ろ姿を、シドルクは見ていた。
ローブ越しの華奢な背中。
節くれ立った奴隷の腕とは違う、陶器のように繊細な手。
血と砂ばかりの世界とは違う、星空から降ってきたような存在。
(………………?)
その時、シドルクは気づいた。
サフィが立っている場所の、ずっと奥――――何もない地面に、小さな人影がある。
じっと、目を凝らす。
おぼろげに夜闇に浮かぶだけ。顔の見分けなどつくわけもない。
そのはずなのに、シドルクには見えた。
こちらを見つめる――――――栗色の髪の少年が。
「……………………はぅッ、ぐぅう……ッ!」
突然、シドルクが激しく呻いた。口を押さえ、急激に呼吸が荒くなる。
背後にいた彼の急変に、サフィもすぐに気づいた。
「…………シドルク⁉ ど、どうしたの⁉ やっぱり痛むの⁉」
慌てて駆け寄るサフィ。ケガをした部位に触れないよう、丸まった背中をさすって呼びかける。無事に見えても、やっぱり骨は折れていたのか、それとも…………と、悪い方にばかり想像が膨らんでしまう。
しばらく悶えた後、シドルクはまぶたを開いた。
荒い呼吸を抑えながら、声を絞りだす。
「………………サファル、ケリア」
「えっ? な、なに?」
うずくまった彼の口元に、サフィは耳を寄せた。
「井戸…………王宮に、井戸……は、あるか」
「へ?」
サフィは混乱しながらも、彼の質問の意図を汲み取ろうとする。
「井戸…………それって、井戸から忍び込もうってこと?」
確かに、王宮には地下水を汲める井戸がある。洗濯仕事のたびに使っていたので、忘れるわけもなかった。
しかし、サフィはそこまで夢見がちではない。「お城の古い井戸を探ってみたら秘密の抜け道がありました」なんて言うのは、先の展開に詰まった冒険譚の中だけだ。
「わたしも考えたんだけどさ…………あの井戸、涸れてないから水で一杯だし…………たぶん普通の井戸だよ?」
「そうか、それなら……、………、……?」
シドルクは小さく、サフィの耳元で質問をささやく。シドルクにも間違いのない確信があったわけではない。
「…………………………ある」
しかし。
その言葉は、サフィの記憶の底から何かを引きずり出した。
「あるっ! シドルク! あるよ、それっ!」
シドルクの肩を掴んで跳びはねた。夜の街なのを一瞬忘れて、声が弾んでしまう。
シドルクの乱れた呼吸は収まり、無言で頷いた。そして、いつもの淡々とした口振りで語り聞かせる。
サフィにとって唯一の希望となりうる、その帰り道を。
「…………今日は戻ろう。準備が要る」
「うん、うんっ!」
サンダルに纏わりついた砂粒を、サフィは片手で叩き落とした。
帰還期限まで、あと40時間。