誰もいない街で ①
すでに月は天頂をまわり、大通りの人影は完全に消えていた。
マーハ市街地の治安は比較的いい方だが、夜盗や悪漢はしっかり息を潜めている。ただ、そういう輩も狙うべき獲物がいない時間に徘徊する意味はなく、まして、今夜のような明るい月夜を選ぶ理由もない。
サフィが見つめる先には、王宮の城門の一つ「哀の門」があった。
四つの城門は、それぞれが名前と役割をもつ。
西に通じる「衛府の門」。
国王軍を統べる司令塔や、常駐兵五千人をかかえる大規模兵舎、軍馬の厩舎などが近くにある。おもに軍の出陣式や凱旋パレードで開かれる門だ。
南に通じる「慈悲の門」。
実質的な正門だが、開かれる機会が多いだけあって検問も厳しい。門から続く大通りでは最大規模の市場が開かれ、経済大国マーハの象徴になっている。
東に通じる「叡智の門」。
城門としての機能は無いに等しい。「王の額」が建造される際、百年の歴史をもつ巨大図書館が数万冊の蔵書ごと引っ越して付設され、今では「叡智の門」は門ではなく巨大研究施設の通り名になっている。
北に通じる「哀の門」。
王家代々の廟墓につながる門であり、最も小さい。葬儀や祖霊祭でもなければ開放されず、みだりに近づくのは禁忌とされる。
奴隷小屋から最も近いのは南の「慈悲の門」で、サフィが見ているのは北の「哀の門」。 つまり、「王の額」をはさんだ向こう側にまで到達していた。
全ては、そこに帰還の糸口があると信じて。
「………………ごめん、駄目みたい」
サフィは「哀の門」を遠巻きに観察し、残念そうに言った。
立っている五人の門番の中に、あの恋文の衛兵を見つけてしまったのだ。
「そうか? 今夜は駄目でも、明日には壁の上に来てるかも――――」
「ううん、来ないよ。門番って、一度なると十日くらいは続くから」
サフィの知識は正しい。
頻繁に門の周りをうろつく人物がいたら気づけるよう、門番は十日ほど勤め続けるのが決まりだ。つまり、しばらく彼は壁の上の警備に戻ることはない。
加えて、門番はどんな時でも必ず複数人。たった一人を味方にしたところで無意味だ。
恋文の衛兵――――という手札は失われた。
ぼんやりと、夜空にそびえる「王の額」を眺める。
今夜の調査で「王の額」をぐるりと確認して回ったことになる。そう期待してはいなかったが、やはりと言うべきか、文字どおりの「壁の穴」も、比喩としての「壁の穴」も存在しなかった。
炭のペンを持ち、布きれの地図に描きこむ。
「王の額」を表した円は、びっしりと×印で埋まっていた。
「……………………。」
最初から、分かってはいた。
今日の昼間、サフィは「叡智の門」の仕組みを利用して忍び込もうと試みた。そんなふうに王宮の人間だけが持つ何かを生かさない限り、熟練の暗殺者すら通さない壁を突破できるわけがない。
分かっては、いた。
それでも、自分の生まれ故郷に拒まれる気持ちは――――知りたくはなかった。
(…………あれ? 何だろ、あそこ)
ふと、サフィは目を凝らした。
王の額の最上部、その一箇所だけ色味が違っている。欠落した部分を新しい石材で補修したようだ。
「あそこの角、もう直したのか」
「…………あそこ? 何か特別なの?」
「…………? あの部分が突然砕けて、それで落ちたんだぞ」
「…………そうなの⁉」
四日前の夜、あの場所にサフィはいた。
認識できないほどの速さで飛来した何かが―――青い流星の前触れのように飛来した何かが、サフィが立っていた壁を砕いた。
はずみで壁の外へ投げ出され、落下の最中、サフィは「何か」を掴みとった。
手が触れた瞬間、痺れるような感覚が走り、サフィは意識を奪われた。
そして。
それら刹那に起きた出来事を、サフィは一切覚えていない。
(ええと、あの時は「月に乞う」を踊って…………落っこちて…………あれ…………何だっけ? 何か変なもの見たような……)
思い出せない。
記憶のページで、そこだけ墨を塗ったように。
「シドルク。わたしが落っこちた時にさ、何か変なもの見なかった?」
「変なもの…………すまん。壁が壊れたのが見えて、それ以外は何も」
「そっか、何だったんだろね」
謎は謎のまま。とはいえ、その答えがサフィに味方するわけでもない。
あの夜に立入禁止の壁上に登っていたのも、今こうして壁の外にいるのも事実。たとえ壁から転落したのが摩訶不思議な力によるものだろうと、審問官から情けは引き出せない。
「脱走」の罪は揺るがない。
その時、ブォ……ッ!と夜風が吹いた。
油断したサフィの手元から、地図を描きこんだ布が飛ばされた。
「あ……っ!」
あれを誰かに見られたら――――と焦ったが、足が動くより先に、布きれは近くの鐘塔に灯された松明に引っかかった。
火がうつり、地図が燃えていく。
「………………。」
落ちていく灰を、サフィは拾おうとも思えなかった。