渾天に昇る ②
日没から間もなく。マーハ南東部。
つむじ風が舞い、砂塵が吹き溜まるばかりの砂漠の一角。民家がちらほら遠くに見えるだけで、人気は全くない。
目につくものと言えば、子供の背丈くらいの石の柱が一つ、無造作に突き立っているだけ。
そこに向かって、一人分の足跡が伸びている。
足跡を追っていった先には、人が入れるくらい大きな穴と、穴の底を掘っている誰かがいた。穴のそばに、何か大きい物を包んだ麻袋が一つ置かれている。
「…………………ん?」
穴を掘る青年――――シドルクは、砂の上を歩いてくる足音に気づき、穴から顔を出した。
そこには、ローブに身を包んだサフィが立っていた。
「えっと、その、お疲れさま…………かな」
その口調はいつになく弱弱しい。内心では、昼間にシドルクの脚を叩いてしまったことを気に病んでいた。
サフィの胸には、小さな布包みが抱えられている。
「…………何か持ってきたのか?」
一方で、シドルクの方は眉一つ動かさない。サフィに裏拳で叩かれたことなど露ほども覚えていなかった。持っていたシャベルを手放すと、穴の底から這い出て、サフィの方へと歩み寄る。
サフィは布包みを開いてみせる。
入っていたのは、乳白色の花びらだった。
「来る途中でね、帰りがけの花売りさんがいたから…………」
サフィが買った白い花びらは、本来なら香りを楽しむ物だが、死者の弔いに使うこともある。砂漠世界では新鮮な花が貴重なので、手に入った花を選り好みせずに使うのが常識だった。
シドルクは、サフィの手元から花びらを一つ摘まむ。
じっと見つめ、匂いを嗅いで、そっと元に戻した。
「………………花は要らない。死んだ奴隷は埋めるだけだ」
そう言い残すと、シドルクは再び穴の底へと戻っていく。
その声は淡々として、花にも、サフィの来訪にも――――仲間の死にも関心がないように感じた。
花弁の包みを持ったまま、サフィは沈黙している。
「それから、言おうと思っていたんだが…………用意する食事が上等すぎる。今日の夕飯もだ。あれは奴隷に食わせるものじゃない」
ザッ……ザッ……と、砂の底にシャベルを突き立てる。
「婆さんが出したのは麦粉を練って茹でたものだけだ。それで十分生きていける。着る物もそうだ。あんなに白くしなくていい。俺たちは――――」
「もうやめてよ、そういうの!」
サフィは思わず叫んでいた。
肩が小さく震えている。夜風は冷たいが、胸の奥がそれ以上に熱い。
「そうだよ…………わたし、全然知らなかった。壁の外のことも、みんなのことも」
それでも、心は言葉を紡ぐのを止めない。
「お金だって初めて持ったし、地面で寝るのも初めてだし…………。王宮にいた頃はさ、友達と一緒に働いて、笑って…………思いっきり踊って、ほんとに幸せだったと思う」
サフィはうつむき、丁寧に布に包まれた花を見つめた。シドルクは沈黙したまま背を向けている。
「だから、みんながどんな風に生きてきたかとか…………どうするのが正しいとか、そんなの分からないし…………シドルクの言ってること、正しいのかも知れないよ………………でもさ」
目線をあげて、古傷だらけの背中を見た。
「思ってもいいじゃない…………大切にしたい、って」
言葉にしたことで、自分の心が鮮明になった。
サフィが一番許せなかったもの。それは差別や理不尽そのものではない。他ならぬ奴隷の彼らが、そんな扱いに何も疑問を持たないことだ。
日の暮れた砂漠は、ただ静かだった。
しかし、少し経って、再びシャベルを突き立てる音がした。
サフィは乱れた息を整え、そして少し、肩を落とす。
その言葉は、シドルクに届かなかった、と。
――――――――しかし。
「名前、あるのか」
「………………え?」
シドルクは墓穴を掘り終え、手を止めた。
「知らないんだ。供えたことが無い。『花』じゃなくて、名前があるんだろ」
――――――穴の底に、遺体の入った麻袋を二人で下ろした。
亡骸の重みの生々しさに、サフィの手はわずかに震えた。それでも、昼間のような冒涜だけは二度とすまいと心に決めていた。
まぶたを閉じる。組んだ両手を、ぎゅっ……と胸元に押しつける。
サフィの所作を見ながら、シドルクも真似をした。多民族が暮らすマーハでは、風習や信仰を問わない基本所作が古くから根付いている。「祈り手」もその一つだった。
「…………ジャスミンって言うの」
「…………ん?」
サフィは、ローブの袖から布包みを取りだして開いた。
「この花の名前。いい匂いがするでしょ? 香水とか、お茶の葉と混ぜたりもするんだけど」
「ジャスミン…………ジャスミン。これが」
「うん。それじゃ、撒いてあげよっか」
純白の花弁を手に取って、遺体の上に散らしていく。
にわかに夜風がやみ、ふわりと香りが立ち込める。遺体を埋めてから、他の三人が葬られた場所にも花びらを散らし、丁寧に祈りを捧げる。
「…………良かったのか?」
「何が?」
サフィと並んで「祈り手」をしながら、シドルクは尋ねた。
「三人の方はともかく、あいつは…………」
「シドルクが決めたんでしょ? ここに埋めてあげたいって」
「それは…………」
「…………人を死なせてさ、もう誰にも弔ってもらえないけど、せめて自分一人くらいは、って思ったんじゃない?」
「…………!」
「だったら、一人が二人になっても一緒だよ」
サフィ自身も不思議だった。
会ってまだ数日と経たない、生まれも育ちも違うシドルクの考えることが、なぜかすんなりと理解できる。奥底の部分で、サフィはどこかシドルクと繋がっているような気がした。
最後に、立てられた石の柱――――慰霊碑に向かって祈りを捧げる。
遠い昔に、死んだ奴隷のために誰かが建てたのだろう。「奴隷」と一括りではあるが、彼らが生きた証を後世に知らしめるため、埋もれもせず砂漠の片隅に立ってきたのだ。
サフィは祈り手を解くと、慰霊碑の表面をそっと撫でた。風化が激しいが、碑文らしい溝が残っている。
「…………『渾天に昇る』だって」
「字を読めるのか」
「習ったから一応ね。これを建てた人は、ちゃんと人間として見送りたかったんだよ。…………道具じゃなくてさ」
サフィは夜空を仰ぐ。かかる雲なく、渾天は星の輝きに満ちていた。
「人の魂ってさ、星になるんだって」
星空を見つめ、サフィは呟く。
「星になってる間、みんな月の女神様に仕えてるんだけどね。選ばれた魂だけは、神様から知恵を授かって、流星になって帰って来るって」
「砂漠では、そう言い伝えるのか」
「うん。そっか、やっぱりシドルクは砂漠生まれじゃないんだね」
「…………東の草原だ」
初めて会った時から、サフィは彼の目鼻立ちに異国の雰囲気を感じていた。宴の客として何度か見たことのある、東方草原に暮らす遊牧民らしい面影を。
しかし、サフィとしては彼のことを知る機会だと思って切り出したが、シドルクから次の言葉は出なかった。沈黙が続いたあと、サフィが慰霊碑に背を向ける。
「さぁて、帰りますか。明日も頑張らなきゃねっ」
背伸びをしながら、サフィは歩き出す。
今日だけで色々なことがあり過ぎた。心の整理は何とかついたが、情報の整理は残っている。叡智の門で会った老賢者のことも気にかかるし、帰還までの期限もいよいよ迫っていた。
「サファルケリア」
「んっ?」
改まって本名を呼ばれ、サフィはそろりと振り返る。サフィの倍近い歩幅でシドルクは近づいてきた。
「あの約束、いつにするとは決めてなかった。今夜でもいいか」
「今夜って…………今からってこと?」
サフィは戸惑いを顔に出す。それは予想外の申し出だった。
もちろん、ジュニやシドルクと交わした「約束」を忘れたわけではない。
サフィに協力してもらうかわり、一つだけ願いを叶える。
すでに日没から数時間が経って、遠くに見えていた街並みの明かりも減っている。
「うん、いいけど…………もう遅いしさ、明日じゃ駄目なの?」
「夜が明けてからだと人の目がある」
「ん? んん……? ねえ、何をお願いするつもり――――」
サフィが訊こうとした瞬間。
シドルクの両腕は、彼女の身体を抱きあげていた。
「へっ⁉ ちょ、ちょっと⁉」
「時間が惜しい。なるべく人目のない場所にする」
戸惑うサフィをよそに、お姫様抱っこで走りだす。
シドルクの太い五指が、サフィの二の腕や太ももに食いこんでいた。
「ちょ、ちょっと、人目って何⁉ あのっ、シドルク⁉ シドルクさん⁉」
「…………約束した時、こうする事は考えてなかったのか?」
「やっ……! そ、それは……ちょっとは考えたけどっ……!」
サフィが身をよじる。全身全霊で暴れたとして、この肉のゆりかごを脱出できる気はしない。胸筋の厚みと硬さを感じるたび、サフィの脳内で妄想が膨らんでいく。
「で、でも…………ちょっとはその、心の準備っていうか……!」
「そんなに心配か? お互い初めてでもないだろ」
「うえええぇぇ!? やっ、やや、わたしはまだ……って」
言いながら、耳の赤みがどんどん増す。
「は、初めてじゃないんだ…………へ、へぇぇ、そうなんだぁ……」
「………? 何かおかしいか?」
「い、いやぁ? そんなコトないですけど……?」
おろおろと目を泳がせながら、サフィはちらりと見上げる。
がっちりした肩幅。戦士のような精悍な顔立ち。ちょっと不愛想だけど凛とした鋭いまなざし。
低い声を聞いていると、無性に心が安らいで、つい頼りたくなってしまう。
もし王宮の衛兵にでもいたら――――言い寄る子がいるかもしれない。
「とにかく今夜だ。すぐに始める。いいか?」
「ええええ、えっとね、待って? どっ、どうしても駄目…………じゃ、ないけど……! で、でもその、こういうのは、ほら、もっと……」
シドルクの顔をこっそりと伺う。
切れ長の眼はまっすぐで、彼の気持ちが生半可ではないことが、サフィにはよく理解できてしまう。
「う、うううう…………わかった、わかったからぁ……!」
観念したのか、サフィは腕の中で丸くなった。
疾走するシドルクの鼓動が胸から伝わるが、自分の鼓動の方が耳についた。
帰還期限まで、あと44時間。