渾天に昇る ①
サフィが到着した時、麦畑のそばには野次馬が群がっていた。
「…………なに、これ?」
人混みの隙間を抜け出ると、風に乗って、鉄の臭いが鼻をついた。
ふと、いつも土嚢が積まれている辺りを眺める。
そこには、一人、二人————三人の男が、動かずに横たわっている。
一人は、白目を剥いて泡を吹き、
一人は、何かに殴られたように頭の形が歪み、
一人は、切り裂かれた脇腹から赤黒い――――――
「―――――――――ぅぷッ!」
すぐさま彼らに駆け寄る…………ことも出来ず、ひざから崩れる。胃の中身を止められない。
「奴隷が暴れたんだとさ、おっかねえ」
「あそこで泡吹いて死んでる奴だろ? しつけ役がシメてんのを見たぜ」
野次馬が見物している中、四つ目の死体が運ばれてきた。
奴隷が二人がかりで、遺体の両手足を持って運んでいる。四人目は、頸椎が折れている以外は無傷で、そっくりした死に顔がむしろ生々しさを際立たせた。
遺体の運び手のうち、一人はシドルクだった。
「…………報告に行ってくる。いいか、いつもの場所に埋めておけ。日が暮れる前にだ」
監督役のヒマールが奴隷に命じた。
いつも奴隷に鞭を打ちすえる役目だが、その瘦せこけた顔には悲愴感が表れている。一方、他の奴隷たちは意外にも平気そうな様子で、それどころか、離れた場所では黙々と「塩掻き」が続けられていた。
「なぁおい、ありゃ嬢ちゃん家のもんじゃねえよな?」
不意に、野次馬の一人がサフィに声をかけた。
「…………?」
質問の意味が分からないサフィをよそに、ずかずかと死体置き場に歩いていく男。遺体の一つを見下ろすと、ナイフを取り出し、死体から一つかみの赤茶けた頭髪を切り取った。
「へへ、思ったとおり赤毛だぜ。そこそこの値で売れるな」
その振る舞いを見て、周りの奴隷は全く反応しない。黙々と自分に与えられた作業をしている。
「…………しかし汚えなぁ。ああ、昼メシの後で良かったぜ」
男は死体の顔を踏みつけて押さえ、また髪を刈ろうとした。野次馬の中からも続こうとする者が出てくる。
「う…………ああああああああああぁぁぁぁぁああああああああああああッッ!」
瞬間、場にいた全員が一斉に振り向いた。
髪剥ぎ男に向かって吶喊し、ナイフをもつ手首を掴む。
「な、なんだァ……!?」
その手は、男に比べて小さく、弱く―――—しかし全霊を込めて、振りほどこうとする男の腕力に抗っていた。
「………………サフィ姉さん……?」
土集めをしていたジュニが、激昂するサフィの顔を見た。
まっすぐに相手を睨んでいた。灰色の瞳が陽炎のように揺らいでいる。鼻の先が色づき、フゥー…フゥー…と熱い息を漏らす。
「わ、悪かったよ、嬢ちゃんのなんだな? ほら、返してやっから――――」
髪の束が差し出されるが、サフィはその手を叩き落とした。地面に落ち、ぱらぱらと風に散っていく。
「こ、このガキ、何しやが――――」
逆上しかける男だったが、目の前にいる少女の怒りの方が格段に強いと察したのか、捨て台詞を吐いて野次馬の方に帰っていく。
サフィは、その場でへたり込んでしまった。
「ああ…………孫娘さん」
頭上から声をかけられる。声の主はシドルクだった。
ぷっつりと糸が切れ、力なく項垂れたサフィに、彼は告げた。
「今夜の飯は四人分少なくていい。たぶん明日には替えの奴隷が――――」
「…………ッッ!」
ほとんど無意識だった。
振り向かないまま、サフィの右手の甲は、彼の左ももを叩いていた。
その一発は、大の男にとって児戯にも等しい――――はずだったが、シドルクの巨躯はよろめき、わずかだが苦悶の声が漏れた。
「ぐ………っ」
「…………⁉」
サフィは驚いて見上げた。裏拳が当たった部分には、木片で切り裂かれたような痛々しい擦過傷。それだけでない。まぶたの上から流血し、二の腕と左肩にも同じような傷がある。
さっきの死体運びの時には後ろ姿しか見えず、こんな状態とは気づかなかった。
「うそ……っ! ご、ごめんっ! てっ、手当て――――」
狼狽えるサフィを見下ろしつつ、シドルクはあくまで穏やかに言った。
「…………どいてくれないか。そいつらを荷車に積みたい」
――――――やがて、夕刻の鐘が鳴った。
奴隷小屋に敷かれた一枚布に、夕食のマナイシュが置いてある。
様々な具材をのせて焼く、円盤型の大きな発酵パン。ただ、定番の具材であるはずの羊肉が欠けている。通常は大人数で切り分けて食べるものだ。
今日、それを食べる人数は減った。
それでも昨日と何も変わらず、奴隷たちは口々にありがたがって晩餐を愉しんだ。
その食卓に、晩餐を用意した人物の姿はなかった。
奴隷小屋の近くにある地下物置。
がらんとした薄暗い空間に、ひざを抱えて座りこむ少女がいた。
夕食を終えて帰ってきたジュニが室内に降りてくる。夕陽が射しこみ、ジュニの影が室内に伸びた。
「………………傷、もういいの?」
背を向けたまま、サフィは話しかけた。
「ん? 全然平気っすよ、ちゃんと水で洗ったし!」
ジュニの右上腕には浅くない切り傷があった。昼間の事件の時、あの奴隷のすぐ近くで作業をしていたらしい。へし折れた木製シャベルは切れ味の粗い凶器となり、ジュニの右腕を斬りつけた。それでも軽傷で済んだのは、駆けつけたシドルクが盾になったからだ。
「…………にしても姉さん、昼間のアレはまずいっすよ」
土間に座ると、ジュニが切り出した。
「ほら、あの髪剥ぎのオッサン。そりゃネコババは駄目っすけど、姉さんが怒るとこじゃなかったでしょ? 危ないし、あんまり目立ったら兵士だって来るし」
「……………………ごめん」
謝りはしても、奥底ではサフィ自身にも分からない感情が燻っていた。
これが怒りに近いのは理解できる。でも、ジュニは怒るべき対象ではない。それなのに、ジュニの言葉に苛立っている自分がいる。
と、ここで気づく。
地下物置のもう一人の住人が、一向に入ってこない。
「………………シドルクは?」
「ああ、兄貴なら一緒にメシ食ってましたけど、出てったすよ」
「出てった? どこに?」
「えーっと…………今日みたいに奴隷が死んだら、埋めにいく場所があるんすよ。夕方までに荷車で運んだんすけど」
サフィはハッとした。昼間の一件の後、すぐに調査の兵士が来てしまうからとサフィは帰され、その後のことを見ていなかった。
「ただ、さすがに一緒の穴には埋められない死体が一個あって。みんなは『犬にでも食わせとけ』とか言ってたっすけど」
「その一人って…………」
「ああ、まあ、そういう事っす。兄貴、あれで結構アマいっすから」
サフィは、今やるべきことを理解した。
まぶたを閉じ、開く。
塞ぎこんだ姿勢を解いて、夕陽の射す方を向いた。
「…………ジュニ。その場所、教えてくれる?」




