叡智の番人 ②
試験は終わりとばかりに、老賢者は歩き始めた。
サフィも恐る恐る後ろに付いていく。やがて老賢者とサフィは、二人の番兵が守っている「外門」の前に立った。
「ご苦労じゃな。通しておくれ」
「御意ッッ!」
ガタイの良い番兵二人が、やたら力強い返事をして横に逸れた。あまりに呆気ない対応だ。老賢者にも、後ろに随伴するサフィにも、何一つ検問をしていない。
(…………もしかして、すごく偉い人?)
老賢者は外門で立ち止まったまま、サフィを奥へと促した。
「わしはここで少し人を待たねばならんでの。ひとまず三階まで登って待っといてくれ」
「は、はいっ!」
サフィは館内に一歩踏み入った。
ずうっと奥まで薄暗い通路が伸びているが、無理な建て増しをしたせいか、先の方は曲がっていて見通せない。それでも、王宮との連絡口である内門の場所はだいたい覚えているので、たどり着けなくはないだろう。
そして、内門にいる方の衛兵は、サフィが踊り子だと分かれば無条件に通してくれるはずだ。
(帰、れる……? これで……帰れる……っ!)
サフィの足取りが軽くなる。
怪しまれないよう、ゆっくり、廊下の薄闇へと歩きだす。
砂粒まじりのシルマル
満足に汲めない井戸水
にぶい痛みを見舞ってくる土間の寝床
まぶたに吹きつける砂塵 肌をあぶる太陽
目に砂が入っても洗う水はなかった
湯浴みだって一度もできてない
巡邏兵の目に脅えながら、一人で買い回った麦粉の重さ
足が棒になるほどの徒歩の連続――――――
たった数日ではあるが、体験したことのない環境負荷の連続。
サフィの心は、自分で思っている以上に摩耗していた。
もう二度と
もう二度と、外の世界なんて――――――
足が止まった。
「ああ、嬢ちゃんよぉ!」
「ふぁいっ⁉」
サフィの肩が跳ねた。
振り向けば、老賢者はゆっくりと館内に歩いてきている。
「言い忘れたがのう、蔵書庫や研究室は構わんが、王宮の方には近寄らん方がいいぞ」
「………………⁉」
サフィは一瞬だけ動揺したが、とっさに隠した。
「王宮では今、ちょいと面倒な会議をしておってな。誰も彼も殺気立っておるわ。呼ばれた学者以外、誰も入れちゃくれんのよ」
白ひげの房を撫でながら、老賢者は言った。
「王宮暮らしの連中にも帰還命令が出ておるくらいでの。蔵書庫で隠れて本を読んでおった女官の嬢ちゃんなんか、髪を引かれて連れ戻されたらしい。不憫なもんじゃ」
確かに、違和感があった。
踊り子を含む女官たちは蔵書庫への出入りを許され、貴重な写本をいつでも読むことができる。特にマルシャは常連客だ。
蔵書庫は、今いる場所の真上にあるはず。いつもなら大勢の女官で賑わっているが、今は静かで、そんな気配は全く感じられない。
「そ、そうなんですかぁ…………」
無関心を装ったつもりが、隠しきれてはいなかった。
老賢者の言うことが事実なら、たとえ内門に行っても「帰還命令が出たのに、なぜまだ館内にいたのか」と尋問が待っている。そこに「この娘は外門から入ってきた」という情報が加わると、「脱走」という解が導かれてしまう。
「まあ、嬢ちゃんには関係ないかの。ほれ、わしの部屋は――――」
「あの、先生…………ごめんなさい」
サフィは顔を伏せたまま、しかし、明確に言った。
「わたし、忘れ物しちゃいました」
通ってきた入口の向こう。日の光が差しこむ方へ歩みながら、老賢者に一礼する。
「忘れ物かね、ゆっくり探してくるといいぞ」
「すみません……っ」
サフィの足は、たどたどしくも駆け出していた。
番兵たちの間をすり抜け、灼熱と砂塵の街へと駆けていく。番兵は見咎めもせず、やがて少女の姿は市場の雑踏に消えていった。
薄暗い廊下にたたずみ、老賢者はそれをただ見送った。
「これはこれは、長い散歩でございましたね?」
廊下の奥から現れたのは、すらりと背の高い妙齢の美女だ。
「仕方あるまい。あの部屋で雁首揃えておっても時間の無駄じゃ。連中、それが分からんのだからな」
「ふふふ、舌鋒もほどほどに。それで、収穫はあったのですか?」
「無論じゃい」
老賢者は、懐から小さな袋を取り出した。片手で掴める大きさの、何か硬質なものが入っている。それを美女に手渡すと、老賢者はわざとらしく肩を回した。
「しかし、あれだけの占星術師が揃っとるんじゃ。わしごとき門外漢の仮説なぞ、論ずるに値せんとは思わんかね?」
豊かな白ひげを撫でながら、自虐気味に笑う。
それを見下ろし、美女は呆れながら溜息をついた。
「それは『百学の権威』ならではの諧謔でしょうか、キンディ名誉館長様?」
キンディ――――「叡智の門」名誉館長にして史上最高の大賢者、キンディ=セム=ハイヤーンは、にやりと歯を覗かせた。
「それにしても…………」
「なんです? さっきの女の子のことですか?」
すでに去っていった影を思い浮かべ、ぽつりと呟く。
「いや、なに…………ジジイになると勘がうるさくてのう」
――――――――――――
同日、同時刻。マーハ郊外の農地。
照りつける炎天の下、奴隷たちが今日も「塩掻き」に勤しんでいた。
作業は二人一組。片方が木製シャベルで表土を掘り、片方が麻袋にそれを受ける。脳が煮えるような暑さに耐えながら、奴隷たちは延々と作業を繰り返していた。
「…………、…………」
奴隷の一人が、大きなシャベルを畑に刺したまま棒立ちしていた。
両の手で、器か何かを持った形をつくり、その中身を飲む真似をする。身振りだけなので、器もなければ中身もない。その動作を二度三度と繰り返した。
「ぎゃははははははは! どうした、日の悪魔でも憑いちまったかぁ⁉」
相方の奴隷が笑ってからかった。太陽を悪魔に喩える砂漠世界では、暑さで頭が朦朧とするのを「悪魔憑き」と呼んでいる。
「もうすぐ昼だぜ? そしたら孫娘ちゃんのメシが食えるんだ。ちったぁ気張れやい」
「……………………アーシュ…………」
奴隷は、ぽつりと呟いた。
彼が両手の器に見ていたのは、今日ふるまわれた朝食。その孫娘が食べさせた「ひよこ豆と香草の煮込み」。
「あれが……あれが食事だ…………ヒトの…………そうだ、俺は…………俺はヒトだ、人なんだ」
「ああ? 何言ってん――――」
ゴッッ――…… 鈍い音がして、干乾びた畑に倒れる。
頸の骨は、シャベルの横薙ぎでへし折られていた。
「俺は…………俺は人間だッ! 大商人の息子だったんだ! お前らとは違う……ッッ! 俺は、俺はああああぁぁあぁああああああぁぁぁああッッッ!」