叡智の番人 ①
「うわあ…………こんなに大きいんだ」
午前九時。
王宮の城門の一つ「叡智の門」が見える街の一角。建物の陰に隠れるように、ローブ姿のサフィがいた。
城門とは言っても、「叡智の門」という名で認知されているのは門の扉ではない。その場所で実際に見えるのは、城壁をボコボコと膨らませたような巨大建造物だ。
その正体は、世界有数の蔵書を抱える図書館。
貴重な書物をめあてに各地から学者が集まり、彼らのための研究室も館内にある。蔵書や学者が増えるたびに増改築を繰り返し、石造りの建物でありながら、肥大化した樹木よろしく醜怪な姿をしている。
外から図書館に入るルートは、正面の小さな門一つだけ。そこには見るからに屈強な番兵が二人いて、宝である蔵書と学者を守っていた。
下手に近づけば咎められるのは必至。
サフィは、番兵の目が届かない距離から密かに隙を伺っていた。
「そこで何をしておるね?」
「ひょわあああぁ!?」
いきなり、真後ろからの声だった。
フードで顔を隠しながら、そろぉ~っと後ろを振り向く。
立っていたのは、ちんまりと小柄な老人だった。サフィと比べて頭一つほど小さい。ターバンを幾重にも巻いて膨らみすぎた頭部と、たっぷりした房状の白ひげ。いかにも老賢者といった風体をしている。
「い、いやあ、見てただけですよぉ? 叡智の門って外から見るとスゴイなぁ~って」
「んん? 外から見ると、じゃと?」
「…………! いえ、あの……」
サフィの喉が一瞬で干上がった。不用意な一言が命取りになる。サフィとしては今すぐ退散したいが、ここで逃走すれば確実に不審人物だ。
愛想笑いでお茶を濁しつつ、じっと老賢者に対峙する。
「嬢ちゃん、もしや留学希望者かね?」
「………………は、はいっ?」
「近頃のう、片田舎で学問しても飽き足らず、あそこを訪ねてくる若い者が多いんじゃ。娘っ子は少々珍しいがの」
厳しい質問責めがくると身構えていた矢先、想定外の言葉だった。
「わしも一応、あそこの学者の端くれでな。入りたいなら口利きせんでもないが」
「い、いいんですか……⁉」
偶然だが、まさしく渡りに船。そもそもサフィが叡智の門を観察していたのは、帰還ルートにできないか探るためだった。
外界から図書館に入るための出入口は「外門」と呼ばれ、あのとおり屈強な門番に守られている。
一方、図書館内部と王宮をつなぐ出入口は「内門」と呼ばれ、王宮暮らしの人間ならば自由な往来を許されていた。もちろん、許されているのは図書館まで。外門を通って街に出ようものなら、脱走として即座に捕まるわけだが。
この仕組みは、「外門さえ通れれば、あとは図書館の中を歩き、内門を素通りして王宮に帰れる」ということ。
これを実行するうえで一番の課題は、外門では正体を隠したまま部外者として通る必要があるという点。さもなくば「なぜか外にいた踊り子」、つまりは脱走者として捕まる未来しかない。
そんな矢先に、たまたま出会った老賢者が、外門を通るチャンスをくれようとしている。
「ただし、じゃ」
サフィの顔を覗きながら、老賢者は言う。
「そうだのう。留学生というなら、嬢ちゃんの専攻分野くらいは聞いておこうかの?」
「せん、こ…………こっ、古典文学、です!」
いきなりの質問で面食らったサフィだが、ここで尻込みはできない。とっさに出た「古典文学」という答えは、女官教育の一環として叩きこまれた教養科目のうち一番好きになれた分野だ。
「ほう、古典文学かね。わしも門外漢じゃが…………」
ふと、老獪な目つきでサフィを見上げる。
「ベルガモン叙事詩の第七章『盟友の死別』、このくらい暗唱できるじゃろ?」
「…………!」
予想外の抜き打ち試験。
チャンスが一転してピンチに変わる。
「翻訳版やら口伝の写本やらも多いでの、原典と多少違っても目をつむるわい。文学の道を志しておいて、よもや一度も『ベルガモン』に触れとらんとは言うまい?」
その口振りには圧があった。飄飄とした好好爺ではあるが、こと学問に関しては小娘だろうと妥協は許さない、という信念を感じる。
ここで留学希望者であると証明できなければ、最悪の場合、さっきの言動を訝しまれて取調べに発展しかねない。当然、今さら逃走を図っても結果は同じ。あそこにいる番兵は、市場の巡邏兵とは明らかに鍛え方が違う。
「ほれ、どうした。やってみせい」
「………………はい、大丈夫です。ご清聴ください」
サフィは腹を決め、老賢者と目を合わせた。
深呼吸し、心を整える。
記憶を反芻し、ゆっくり、ゆっくりと言葉を組み立てる。
サフィが試みるのは「暗唱」よりも「再現」に近い。
思い浮かべる手本は、踊り子でありながら女官随一の濫読家――――マルシャだ。
「お………『おお、友よ。終生の友ベルガモンよ。夢の告げだ。土塊に宿りし我が命、座におわす神は畢竟許さぬと思し召しだ。ああ、我が半身ベルガモンよ…………』」
長編英雄譚「ベルガモン叙事詩」の第七章。
星の数ほど古典文学がある中、それが選ばれたのは幸運としか言いようがない。
主人公である半神半人の英雄ベルガモン。神から死期を告げられた親友ケルキオの手をとり、永遠の友情を誓いながら最期を看取る――――というくだりは、マルシャの大のお気に入りだった。ある時期はマルシャ先生の独自解釈も交えた朗読会が開かれ、毎晩のように付き合わされた。
かつて、記憶だけを頼りに「月に乞う」を完成させたように。
マルシャの熱のこもった朗読を思い出し、再現してみせる。
およそ五分間に及ぶ「暗唱」を、サフィは最後までやり遂げた。
「…………ふぅむ。嬢ちゃんの故郷では、かなり独創的に書き換わった写本が広まっておるようだの?」
聞き終えた老賢者が、白ひげを揉みながら呟いた。
「え、えぇっと、そうかも……です。…………あの、試験の方は」
「なぁに、心配いらん。十分に及第点をやれるわい」
老賢者は、ふたたび笑って緊張を解かせた。
そもそもの話、原典と違っても許すと言った以上、これは正確さの試験ではない。いかに堂々と胸をはり、己が探求してきた学問と知識を語れるか。老賢者が見ていたのは内容よりも心の姿勢で、その点、舞台で鍛えられたサフィの肝っ玉は十二分だった。
「あ、ありがとうございますっ!」
ほっと胸を撫でおろす。
今はただ、マルシャ先生に感謝するしかない。
「しかし興味深いのう。原典には見られん過激で熱っぽい描写の数々。あれでは男の友情というより、まるで――――」
「そっ、その辺りはすみません! 後で勉強し直しますっ!」