プロローグ ②
カァァ……ン
カァァァ……ン
カァァァァ……ン
あの日も、夕刻の鐘は鳴っていた。
子守歌のような間延びした音色が、暮れなずむ砂漠の街並みに「夜」を届けていく。
大砂漠に浮かぶ王政都市、マーハ。
テブリス河のほとりに栄えてきた古都であり、大陸各地からキャラバンが押しよせる交易の一大拠点だ。
ひさしを広げた市場が大通りをにぎわせ、客と露天商が駆け引きを繰り広げる。路頭に並ぶのは、ラクダの荷鞍に揺られてきた胡椒や丁香、茶葉、質のいい陶磁器やガラス製品、華麗なアラベスクを織りなす絨毯。
そして、円い盾のように展開した市街地の中心には、王族が暮らす大宮殿――――「金纏宮」がある。
城門をくぐると、迎えるのは各地から取り寄せられた花々の大庭園。長方形の庭池は清らかな水をたたえ、その水面に、どっしりと奥に横たわる中央正殿が映りこんでいる。
見事なシンメトリーになった真珠色の殿堂。その頂には、黄金の尖頭兜を思わせる大ドーム。
そう、あの夜。
大ドームの真下————つまり正殿の最上階では、華やかな夜宴が開かれていた。
「ザヒードの恩寵があらんことを!」
「あらんことを!」
角の形をした銀製のカップが、カララァァン!と盛大な音を立てた。
にぎやかな宴だった。広々とした迎賓広間に、弧を描くように絨毯が並べられ、その一枚一枚が客席になっている。
列席者の顔ぶれは錚々《そうそう》たるもので、大臣や将軍、有力な商人、属領を任された名門氏族の長たち。ゆったり羽織ったカフタンの袖口に、これ見よがしな金銀の腕輪を光らせている。
堅苦しい挨拶も終わり、次々と運ばれてくる宮廷料理に舌鼓を打っていた。
そして、迎賓広間の奥――――ひときわ豪奢な絨毯に、物静かな男性が一人。
マーハ当代国王、ドゥラーン=セム=ザヒード。
口髭を短く整えた、まだ若さのある凛々しい顔立ち。ある一点を除けば、周囲の誰から見ても非の打ちどころのない大国の主だ。
「それでは皆様、お目を頂戴ませ」
少し経って、宴の司会役が手を差しのべた。
迎賓広間の中央に、一段高く造られた円形の舞台。その壇上を隠すように垂れ幕がかかっている。
「今宵の演目は、『夕闇の蝶』でございます」
さっと幕が引かれ――――きらびやかな女性たちが衆目を浴びる。
緋色のシルクを纏い、金細工を散りばめつつ、その美貌が一切を霞ませる。
「お、おおおおおおお……! これは……!」
唸るような感嘆、生唾をのむ音。百もの燭台が照らす舞台で、競うように大輪の花々が咲き乱れる。
悩ましげな目配せをし、舞台が始まる。
品のいい琵琶の音色に合わせ、しなやかな細腕が波を打つ。
指輪に結ばれたヴェールを泳がせ、色気のある肉体が神秘のオーラを帯びていく。跳ねればアンクレットの鈴が鳴り、その音色が心地良い。
彼女たちは、踊り子。
宴を華やげることを職務とする、王宮お抱えの上級女官。その艶やかさは「砂漠の至宝」として大陸全土に知れ渡り、ひと目拝むだけでも故郷で自慢話に困らない。
ただ実際のところ、舞台芸として愛でる客は一握り。なまめかしい腰つき、あらわな褐色の肌ばかりが衆目の的だった。
「ほほぉ…………これは何とも」
「いやはや。しかし伝統の舞とはいえ、あの陛下には少々似つかわしからぬ趣ですなぁ?」
それでも舞台に注がれる視線は熱をおび、ついに「夕闇の蝶」は山場にさしかかる。
そんな熱狂をよそに、宴の主であるドゥラーン国王は一人、酒杯を揺らしていた。
うつむき、静かに。
満たされない何かを紛らすように琵琶の音色に耳を――――
「そこに直れ、女郎がッッ!」
ガシァァンッ! 何かが砕け散る異音。水を打ったように場が静まった。
絨毯席の一つで、赤ターバンの中年男が眉を逆立てていた。
「このアラマドを差し置いて、今、その若造に肉を分けたな……!? 氏の序列も知らんのか⁉ 下女の躾はどうなっているッ!」
赤ターバンが睨めつける先に、一人の若い政務官が座っていた。その皿には配膳されたばかりの羊肉のカバブが一切れ。足元に皿を投げつけられた下級女官は涙目で腰を抜かしている。
赤ターバンと若い政務官は、中央の国王をはさんで左と右へ、それぞれ三番目の席にある。つまり席順としては同格で、その下級女官はたまたま政務官の方から先にカバブを切り分けたに過ぎない。その行為が、すでに酒壺一つほど飲んでいた男の逆鱗に触れたのだ。
じわ……と居心地の悪い沈黙があった。
酒宴の客は酔いから醒め、舞台の踊り子たちも足を止めている。誰もが口を開くことを躊躇い、大ドームの下に静けさが満ちる。
「…………アラマド卿。父祖も照覧である。どうか寛き心を」
それを破ったのは、他ならぬドゥラーン国王だった。
「その下女が裸で詫びれば済むことだ! それと酒だ! いつまで客の杯を乾かすつもりだ⁉」
アラマドが喚き散らすと、とうとう王宮の重臣たちが辛抱を切らした。
「…………心得るのは貴様だ、アラマド=カカム! 貴様はなぁ……! 亡きディエラ王妃殿下の兄君であると、ただその一事のみで金纏宮の門を通されておるに過ぎんのだぞ!」
「そうとも、ディエラ様も常々《つねづね》嘆いておられたわ! くだらぬ見栄をはり、あれやこれやと散財しては金の無心を重ねるばかり……! 貴様のごとき愚物、下女一人とて詫びるに値せぬわ!」
しかし、アラマドは耳を貸さなかった。
最奥の絨毯にたたずむ国王ドゥラーンに、充血した目を向ける。
「ドゥラーンよ。我が妹ディエラへの恩義、よもや忘るまいな?」
にちゃり……と、アラマドが金歯をのぞかせた。
「元から『男』が足らんのか知らんが、その歳になるまで寵姫の一人も取らずじまい。ディエラの胎が男児をこさえておらねば、始祖から続く王統も終いであったろう?」
アラマドは、酒の勢いも借りて挑発的に笑った。
「だが良い。世継ぎなど一人おれば十二分だ。それとも何だ? 残っているのか? 後妻をめとり、産ませるだけの『男』が」
「……………ッ!」
ドゥラーン国王を敬愛してやまない臣下が、射殺すような視線を飛ばした。
王妃ディエラ=カカムの崩御から約三年。それまでの横暴のツケを払うように没落の一途をたどるカカム家。次期当主アラマド=カカムには、もはや王家の外戚という肩書きしか残されていない。その肩書きが今後とも唯一無二のままなのか否か、アラマドは確認せずにはいられなかった。粗暴な言いぶりは、答えを聞くことへの臆病の裏返しだ。
一方で、他の氏族長たちは静観を決めこんだ。ドゥラーンは後宮をもたない異例の国王。そんな彼が新たな王妃を迎えるかは最大の関心事であり、とりわけ、未婚の娘がいる者は耳をそばだてた。
「蜜であった」
「あぁ……⁉」
返答になっていない返答に、アラマドが思わず眉をひそめる。
「妻と…………ディエラと出会い、過ごした一時は、余にとって一匙の蜜であった。蜜をうすめることを厭うあまり、王家代々の後宮を空き家にしてまで妻一人を愛した。…………心得てはおった。王の行いではない、とな」
この砂漠世界でも、一途な愛というのは美徳に違いない…………が、大国マーハの主となれば話は変わる。従属させた氏族から娘を後宮に迎えるのは当然で、責務でもあった。
「おお、おお……! なんと大層な惚れぶりではないか。ならば」
「ゆえに同じ愚は犯さぬ」
胃の底が落ちるような声の重みに、場にいた誰もが身を縮めた。
「余はマーハの差配者である。この国に身命を捧ぐ者にこそ報い、尊び、寵愛する。そこにいる若き忠臣も然り。さもなくば、ディエラの子が玉座を継ぐより先に、この国は身中より腐り落ちるだろう」
引き合いに出された政務官は、干し魚のように身を縮めていた。彼は生まれこそ名門カカム家に遠く及ばないが、その頭脳と誠実さで外交参謀に引き立てられた人物。この席に座ることに全く不足のない傑物だ。
ぐい……っと。
角杯の底に残っていた酒をあおると、ドゥラーンは呟いた。
「…………深酒をした。寝覚めには忘れておろう」
それは、あまりにも寛大な一言だった。
糸が切れたように空気が緩んでいく。耳をそばだてた者は肩をすくめ、舞台の踊り子たちも顔を見合わせてホッと息をつく。節操のない客は、さっそく台座に置いた飲みかけの酒杯に手をのばした。
「…………………………まで…………」
ただ一人。
義弟の温情に救われたアラマドは、下を向いたまま肩を震わせ—―――
「…………どこまでコケにすれば気が済むのだッッ!」
突如、隠し持っていた獅尾刀を抜いた。
「いやあああああああああああああぁぁぁぁああぁぁッッ!」
女官の一人が喚いた。空気が再び一変し、酒宴は大混乱に陥っていく。
あわを食って逃げ出す客人や女官たち。必死に出口を探そうとするが、下へ降りられる階段は運悪くアラマドの方にある。行き場を失った者が逃げ惑い、燭台が次々と蹴り倒される。
明かりを失い、迎賓広間が夜の闇へと呑まれていく。
「う、うそうそうそ……ッ⁉」
「何してるのっ⁉ はやく舞台裏にっ!」
踊り子たちが青ざめ、我先にと舞台から逃げ去った。
アラマドが料理の皿を蹴散らし、抜刀したまま突き進む。同席していたカカム家の縁者たちは、アラマドを制止するどころか自らも刀剣を手にし、抵抗する者に切っ先を向けた。
「ひ、控えんか貴様ら! 宮中であるぞ!」
「やかましいッ! 今日までカカムの名を軽んじた報いと思え!」
武官たちが応戦を試みるが、帯刀していた人数はアラマド側と大差ない。さらに悪いことに、混乱の最中、燭台や食器を手にして迫りくる列席者がいた。その思惑は様々で、アラマドを倒して褒美にあずかろうとする者、アラマドに加勢する者、どさくさで因縁の相手を亡き者にせんとする者。
金物を擦り合わせる音が、暗闇の中、逃げ惑う者たちの恐怖に拍車をかける。
阿鼻叫喚の中、ドゥラーンは腰帯に忍ばせた牙剣に手をのばす。
自らの手で牙剣を振るい、反逆者アラマドを誅殺する。刃渡りは獅尾刀の半分にも満たないが、ドゥラーンほどの剣の腕なら問題ではない。しかし、人間しての心が、迷いが、柄をとる指を鈍らせた。
差配者としての役割。
今しがた、それを語ったばかりだと言うのに。
「………………許せ、ディエラ」
それでも、英君は決断した。
牙剣の鞘をはらい、亡き妻の肉親に向かって構えをとる。
目を血走らせたアラマドが迫り、ついに間合いの内側に踏み入った。
「なにが始祖の血! 驕りを知るがいい、ドゥラーンッッ!」
湾曲した刃をつたう閃光。
高々と振りかざした獅尾刀が、ドゥラーンの鎖骨めがけ猛然と――――
――――――――しゃん
何かが鳴った。
涼やかで、限りなく透明な、澄みきった音色。
ふと、ドゥラーンは見た。
臣下も、逃げ惑う群衆も、怒り狂うアラマドまでもが目を向けた。
――――――――しゃしゃん、と続けて鳴った。
ドームの眼窓から注ぎこむ月明かり。
照らされるは天頂の下——————円形の大舞台。
とうに演者が失せたはずの場所に、人影があった。
純白のシルクを纏う、一人の踊り子。
さっきまで舞台にいた踊り子の誰でもない。
肢体のシルエットは細く、華奢で、それでいて凛々しく。
対の手を翼にして——————廻り出す。
虚空をなぞる十の爪が、なめらかな軌跡を残していく。
あるはずのないヴェールの幻影が湧き、湖面の霧のように漂う。舞台をたゆたう残像が、そこを月下の雲海へと変えていく。
「……………なんだ…………あれは」
つま先を澹かに滑らせ、シュプールは月の輪を描く。
音もなく摩擦もなく、大地の呪縛すら解かれた足運び。止まったと思えばフイと消え、とらえどころなく流々と舞い遊ぶ。
どこまでも優美で、儚く、そして晴れやかで。
べん――――――と音が鳴った。
琵琶弾きの女官が、知らず知らずに弦をつまびき、「その曲」を奏でていた。
不可視の何かに導かれるように、縦笛が、壺太鼓が、次々と演奏に加わっていく。
「……………………マハ・ラーナ」
誰からともなく、その言葉を呟いた。
演目名「月に乞う」
古い儀典に名を残す、月の女神に奉納された神前舞踊。
夜空へ浮かぶような天衣無縫のステップ。それは天賦の才をもつ踊り子が、十年の研鑽の果てに至りうるという終の境地。
継承すら絶えかけた孤高の踊り。
観る者をすべからく幻惑し、感嘆以外の心を失わせる。
「ああ…………、あぁ…………!」
気づけば、そこには観客しかいなかった。
逃げる者はない。凶刃を握る者もない。迎賓広間にひしめく数百人が、たった一人の踊り子に心を奪われた。
怒り、欲、魂すらも抜かれたように恍惚と立ち尽くす。
踊り子は、いつまでも雲海のなかで舞い続けた。
ヴェールの向こうに、吸いこむような瑠璃色をのぞかせて。
「………………きれい………!」
あの瞳に誘われている。そう思った。
舞台奥に垂れさがるカーテンの間から、小さな手を伸ばす。
そう、あの夜。
たった一度の踊りが、わたしを、取り返しのつかないほど狂わせてくれた。