アジ・ダハーカの吐息
金纏宮、右翼殿の三階。
その廊下では、ちょっとした騒動が起きていた。
「く、臭っさい……! 何のニオイなの……⁉」
漂ってくる異様な悪臭に、住人である女官たちが騒ぎ始める。
三階には、専門職である上級女官、とりわけ踊り子の居室が多い。そのうちの一室から、少女がひとり廊下に飛び出してきた。
「ああ、だめ……! サフィ、負けないでぇ……!」
踊り子隊「瑠璃組」の一人、マルシャ。
異臭の発生源は、マルシャが飛び出してきた瑠璃組の居室だった。続いて、同じ隊の仲間であるネフリムも部屋から現れる。
二人とも、まるで掃除中のように鼻と口に布を巻いていた。
「こ、このニオイは何なの⁉ あんたたち、その部屋で何して――――」
部屋をのぞきこもうと近づく女官。マルシャはその腕に必死で縋りついた。
「近づいちゃ駄目です! この中で倒れたら、誰も助けられません……っ!」
「ちょ…………何なの⁉ どきなさいって!」
涙ながらに訴えるマルシャ。無理に振りほどくわけにもいかず、その女官は足を止める。
「よく聞きなさい。じゃないと死ぬわ」
ネフリムが凄みを利かす。舞台さながらの女帝ぶりに、集まった面々は思わず一歩下がった。
「今日のお昼は、パン一個と玉ねぎのアーシュでしたよね………?」
突然、マルシャが幼い少女らしからぬ低い声で語り始めた。
「でも……そんなのじゃ、サフィには全然足りなかったんです。最近練習ばかりしてたから、きっと何も考えられないほど空腹で…………そんな時、厨房で、たくさんのヤムが蒸かしてあったんです」
「ヤム? ヤムって、あの芋のヤム?」
「そう言えばトルマリアさん、ヤムがごっそり消えたって言ってなかった?」
女官たちが口々に言う。その反応を見ながらマルシャは語り続ける。
「わたしたちが部屋に帰ると、サフィはもう、無我夢中でヤムをほおばってました。一個や二個じゃないのは明白でした。だって…………サフィのお腹はもう、蛙みたいにパンパンでしたから」
「な、なんで………?」
「食べ過ぎて胃袋が…………って最初は思ったんです。そうだったら、どれだけ良かったか……。ヤムを食べながら、サフィは言うんです…………『なんだか身体が軽くなってきた』って」
気づけば、廊下に集まった女官全員がマルシャの語りに聞き入っていた。
「ヤムをいっぱい食べると、ほら、その、溜まってきますから……………あれはもう手遅れでした。お腹は膨らんで、膨らみきって…………そして限界を迎えた瞬間、それは炸裂しました」
「さ、炸裂って、まさか……!」
「はい、それはもう途轍もない、まるで地獄の瘴気……! 伝説に聞こえた悪食竜の吐息……! その凄まじさは……ケホッ! このとおりです……っ!」
マルシャが咳こんでみせる。部屋から漂う悪臭は、なおも強まっているように感じた。
「そして悲劇は終わりません……! いつまた二発目がくるか予測不能……! 部屋をのぞこうとした瞬間、その一発が顔面に直撃、たちまち失神! そうなったら、もう誰にも……!」
ひっ……!と悲鳴をあげ、女官たちが部屋から遠ざかる。
「そういうコトだから、しばらく部屋に近づくのはお勧めしないわ。それと、わたしとマルシャの分の仕事を数日やってくれると助かるわ。このニオイ、食材とか洗濯物につくと嫌でしょ?」
「いっ………わ、わかったわよ……!」
集まっていた野次馬が蜘蛛の子を散らすように引いていく。しばらく、食事ではヤムを残す女官が続出しそうだった。
十秒もしないうちに、廊下には二人だけが残された。
「ネフリムぅ………本当にこれで良かったの?」
「落ち着いて考えれば分かるはずよ。ヤムを食べたくらいであり得ない、って」
マルシャを不安がらせないよう、ネフリムは努めて悠然としていた。
「あとでコレを見せて種明かししましょ。『ぜーんぶズル休みのための嘘でした』ってね」
ネフリムの後ろ手には、液体の入った二本の瓶が握られていた。
一本は火山地帯でとれる硫黄から、もう一本は動物の死骸から精製された代物。どちらも、いわゆる「錬金術」と呼ばれる研究の副産物だ。
「これをくださった『叡智の門』の術師様に教えてあげなきゃね。ちゃんと使い道がありましたって」
しばらく待っても、異臭のする部屋に近づく者は現れなかった。
マルシャの語る「虚構」だけでは足りなかった。嗅覚に訴える圧倒的な「現実」が決め手となって、サフィの存在証明がここに完成したのだ。
「…………ところでさ、ネフリム」
マルシャは、部屋の片隅に置かれたかごを見た。
「あのたくさんのヤム、盗んできちゃったけど、どうするの?」
「当分、おやつには困らないわね」
「うへぇぇぇぇ、ここで食べるのぉ……?」
部屋にはまだ、限りなく「本物」に近い香りが充満していた。