砂の都のサフィ ②
街の大通りは、まだ朝の静けさに満ちていた。
夜明けの鐘が鳴ってから間もない。日除けの石膏で塗りかためた真っ白な街並みに、少しずつ、芽吹くように活気が湧き出していく。
ひさしを上げる服屋の店主、ノミを片手に出かけていく家具職人、街はずれの草地に羊の群れを連れていく少年。
――――――フードが捲れないよう、ゆっくりと歩を進めていく。
大麦のフブスが焼ける香り。どこかの家で寝坊助を叩き起こす大声。河で捕れたばかりのコイやナマズが、荷車に山積みされて運ばれていく。
――――――歩幅が、少しずつ大きくなっていく。
次々と露天商人が敷物を広げ、どっと大通りに人が溢れだす。
何でもない街の通りが、みるみるうちに市場へと変貌していく。
足はもう、地を蹴っていた。
(すごい………すごい! すっごい!)
目深なフードの下で、灰色の瞳が水鏡のように輝いた。
街路を行き交う色とりどりの民族服。敷き物に並べられた陶磁器や染め物、見慣れない香辛料や乾物、ひさしの下に垂らされた羊肉の腸詰め、壺いっぱいの蜂蜜。匂いにつられて横を見れば、鶏の串焼きを売っている屋台がある。
荷鞍つきのロバを引いていく行商人、果物かごを頭に乗せた女性、街角に座りこんで琵琶をかき鳴らす旅人。
サフィが――――王宮暮らしの少女が憧れてやまない「壁の外」が、そこに広がっていた。
(…………違う違う違うっ! 本当に脱走したんじゃないんだからっ!)
サフィは、置かれた状況を冷静に思い出す。
シドルクやジュニがいない昼間のうちにすべき任務は、大きく二つ。
一つ目、王宮への帰還手段を見つけること。
たとえば城門の警備が緩くなるタイミング。よじ登れそうな城壁の箇所。何でもいい。とにかく手当たり次第に可能性を試さないといけない。
二つ目、「世話焼き婆さんの孫娘」として最低限の仕事をこなすこと。
シドルクが言ったとおり、さしあたり夕食の用意。今ちょうど市場にいるので、ここで奴隷三十人分の食料を調達していける。
(たしか、麦粉があるって言ったよね)
生活の手慣らしも兼ねて、まずは二つ目の任務をやることにした。ただ正直に言えば、初めて目にする市場への好奇心も大きい。
(およ? あそこに置いてあるのって…………赤砂糖?)
ひさしを掛けた露店の棚に、こんもり山型になった赤茶色の塊が置いてある。そのとなりは果物屋らしく、ザクロやイチジクの熟れた果実が色とりどりに並び、食べ物でありながら宝石と同じ欲をそそった。
(じゃあ、麦粉でフブスを焼いて…………赤砂糖があるなら果物を煮込んで…………なら、フブスも甘いのがいいかな)
さっそく献立を考える。赤砂糖と果物くらいなら一人でも運べるだろうし、甘酸っぱいものは肉体労働で疲れた身体にも優しい、という考えだ。
サフィが王宮で手伝っていた仕事には、炊事場での料理も含まれている。とはいえ、王族が口にするような宮廷料理は専門の料理人が作る。サフィたちが作るのは、働き手である女官や衛兵の腹を満たす食事、要するに「まかない」だ。
それゆえ、栄養価と腹持ちに特化した食事作りは、むしろサフィの得意分野だった。
「ご、ごきげんよう……? あの、あ、赤砂糖をいただけるかしら?」
ぎこちなく店先の男性に話しかける。恰幅のいい店主は「はいよ」と機嫌よく答えると、そっと手を差し出した。
「うちは先払いね、豆金貨で六枚」
「まめ…………金貨?」
ぱちくり。長い睫毛が一往復した。
豆金貨とは、マーハの経済圏で流通している計数金貨のうち最小の――—―という知識以前に、そもそも金貨を手に持った経験がない。
王宮では御用達の商人があらゆる生活物資を納めるが、支払いは全て財務官の仕事。女官には国王からの下賜として望むままの物が与えられる代わり、金貨での俸給はない。
もっとも、男性の下級官は俸給をもらって街で使いはするし、一部の女官は独自のやり方で金貨を集めていたりもするが。
(お金…………お金⁉ あれか! ネフリムが集めてたやつ! そっか、外だとお金が要るんだ……!)
固まったまま冷汗を垂らす若い娘に、店主は首をかしげた。
しかし、サフィは何かを思いつくと、もぞもぞとローブの中を探り出す。
「あの、これじゃダメですか?」
差し出したのは、ラピスラズリを使った装飾品。玉石の大きさは親指の先くらい。金の縁取りに嵌めこまれ、かすかな動き一つでキラキラと細やかに光り輝く。
たった今、踊り子衣装の腰飾りから取り外した物だ。
(多分だけど、赤砂糖くらいなら交換できるよね……?)
しかし、装飾品を見るやいなや店主は血相を変えた。
「ななな、なんだそりゃ⁉ 嬢ちゃん、どこの御令嬢だい⁉」
「へ……?」
買い物の経験がなければ、当然ながら物の相場を知ることもない。そして、価値観の坩堝であるマーハの市場で、統一貨幣を介さない物々交換が非常識だということも。
「そんなどえらい宝石、店のもん全部でも釣り合わんよ!」
「ご、ごめんなさい! えっと、全部じゃなくて赤砂糖だけ欲しいんですけど……」
中年店主と世間知らず娘の会話は嚙み合わず、しばらく押し問答が続いた。
そして。
そんな不審な声を聞きつけ、店先に近づく者がいた。
「そこの女、一体何の騒ぎだ?」
「は、はい…………?」