プロローグ ①
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「はぁ…………綺麗だったなぁ」
とろぉん、と。
甘ったるい麝香でも嗅がされたような陶酔の面持ちで、サフィは呟いた。
下穿きを泳がせる手が止まっている。ぬるまった水が指先をつたい、まだらな跡を残しては干乾びた砂に吸われていく。
昼下がりの勤務中、ちょっとした物思いにふける女官がいるのは珍しくない。
果てなき砂漠越えの果てに待つという青い海。
ひと頃に読み物として流行った、美しき魔人との婚姻譚。
あるいは、真偽も知れず流れてくる王宮貴人たちの浮き名。
飢えも渇きもない王宮の暮らしで、年頃の女官たちは刺激に飢え、うるおいを求める。恋のうわさ、それに妄想。これほど遊び勝手のいい娯楽もなかった。
庭園で葉をゆらすナツメヤシの木陰で、奥まった刺繍部屋で、昼餉のラヴァシュを焼き上げる粘土窯の前で。あれこれ尾ひれのついた風聞が日に一つは生まれ、語られ、消費されていく。
でも、サフィは少し違う。
十六歳になる彼女に不忠勤をさせているものは、遠い海でも夢物語でも――――――恋でもない。
物干し場から戻ってきた仲間の女官が、日陰に入るなり異変に気づく。
「あれ? サフィ、サフィってば」
「…………昨日から二度目かしら。世話の焼けるお嬢様ねぇ」
声をかけ、肩を叩き、袖のない亜麻の服をちょんちょんと引っぱる――――が、返事はない。
「どうするの、ネフリム?」
「マルシャ、ここに汲みたて冷え冷えの井戸水があるわね?」
じゃぷ……と、ひと抱えもある水甕が不穏な波を立てた。
サフィは一人、日陰になった石の段差に座っていた。
灼けるような青空の下、南にそびえる中央正殿の大ドームが、降りそそぐ太陽を滝壺の岩よろしく散らせている。
飛沫になった光が一粒、灰色の瞳に飛びこんだ。
「もう一度見たいなぁ…………王妃様」