07 失う
侍女に言われるがまま着替えを済ませると、ローランが息を切らせてやってきた。
「リーズ!早く来るんだ!」
ローランがわたしの手を引いて、部屋を後にする。まっすぐ歩けないでフラフラしていたら、ローランはわたしのことを縦に抱きかかえて王城廊下を走り出した。ローランに抱えられながら窓の外に目をやると、空が薄く明るくなってきている。けれどまだ早朝で、日が明けているわけではない。それなのに王城内は騒がしい。人の行き来も通常の昼間より多い。ローランに抱えられるわたしを皆がぎょっとした目で見ているが、だれも咎めることはなかった。
王城の医務室にたどり着く。そこのベッドには、血の気の引いたエグモントが横たわっていた。
「エグモント様・・・」
「リーズ。落ち着いて聞くんだ。エグモントがジェラルド殿下の部屋に忍び込もうとした暴漢とやりあって短剣で刺された。左の脇腹を深く刺されていて、どうやら肺がかなり傷ついているらしい。」
「肺・・・」
「おかげで呼吸がうまく出来なくなっている上に、出血も多い。万が一のことも考えなければならない。」
「万が一・・・」
わたしはフラフラとエグモントが横たわるベッドサイドに行き、跪いた。エグモントの呼吸は息苦しそうだ。顔は青褪めているが、脂汗が滲んでいる。
「万が一ってなんですか?」
「リーズ・・・」
「万が一ってなんなんですか?わたし、昨日はエグモント様とお出掛けして、また一緒にお出掛けしようって約束したところなんですが!」
「リーズ嬢、ベッドサイドなのでもう少しお静かにして、」
「エグモント様は寝ているだけでしょう?今きっと悪夢でも見ているのですわ。早く起こして差し上げないと!」
「リーズ。止めるんだ。」
「エグモント様!早く起きましょう?ねぇ!エグモント様!!」
「リーズ!」
医師やローランがわたしのことを止めているが、わたしは必死でエグモントの名を呼んで起こそうとした。けれど、エグモントの反応は無く、どんどん呼吸が荒くなっていく。表情も苦しそうだ。いくら声をかけても無反応で、途方に暮れそうになった。
そうこうしているうちに、今度は逆に呼吸の間隔があいていく・・・
「エグモント!」
医務室のドアが開き、キルシュネライト侯爵と夫人が飛び入ってきた。エグモントの側に駆け寄る。わたしはローランに引かれてベッドサイドから離された。
「エグモント!返事をして!目を覚まして!」
夫人が声を掛けている。それを見ていたら、エグモントが遠くに行ってしまうような気がして、涙が溢れてきた。侯爵と夫人が必死で声を掛けているが、エグモントは無反応で。
医師が側に行く。エグモントの手を取り、首のところを指で触れる。そして、エグモントの下瞼をそっと下げると、頭を垂れた。
「残念ですが・・・」
夫人がうわっと咽び泣き、侯爵がそれを抱きかかえた。わたしは、その場で腰が抜けるように座り込んでしまった。勝手に涙が溢れてくる。止まらない。
一体何が起こったのだというのだ。昨日、わたしとタルトを食べて微笑んでいたエグモントはどこに行ってしまったのだろう。
「お姉様!大丈夫ですか?」
ベアトリスの声がする。いつ来たのだろう。よく分からないけれど、エグモントがどうにかなってしまったの。ねぇ、ベアトリス。どうしてこんな事になってしまったのかしら。エグモントが何悪いことをしたの?それともわたし?もう、二度とエグモントに会えないのかしら・・・
葬儀は、王都神殿で恙無く行われた。キルシュネライト侯爵夫人は葬儀の最中ずっと号泣だった。侯爵もたった一日二日でげっそりと痩せているように見えた。
わたしは、回りに促されるまま葬儀に参列し、花を供えた。体中の水分が出尽くしたのではないかと思うくらい泣いてからは、何をしているのかもう分からなくなっていた。
ジェラルドを守ったエグモントには、勲章が与えられたそうだ。
あとから聞いたところによると、暴漢は4人。王都でも有名なチンピラで、先日ジェラルドが街にお忍びで出ていた時に、身なりの良いジェラルドに狙いをつけてやっかみ半分で絡んでこようとしたらしい。それを護衛についていたエグモントに止められ、街の警備隊に引き渡されてこっぴどくお叱りを受けた。その後、自分たちが絡んだ相手が実は王太子だったということを知り、無謀にも金銭目的と恥をかかされた逆恨みで城に忍び込んだのだそうだ。
王城は月に1回だけ王城庭園の開放日を作っており、一般人でも庭の鑑賞に入れるようになっているのだが、その昼間から忍び込んで夜になるのを待っていたとのことだった。ジェラルドの部屋は奥まった場所ではあるものの中庭に隣接している2階なのだが、暗闇に乗じて庭を移動してジェラルドの部屋に侵入しようとした。物音が気になったエグモントが即座にバルコニーまで上がってきていた暴漢に気が付き、その場で乱闘となったのだと。暗闇の上に狭いバルコニーでの戦いは、エグモントにはかなり不利だった。そんな圧倒的に不利な状況下でも、その4人をしっかりと捕らえてジェラルドを守りきったエグモントは騎士の中の騎士だった。
それでも、わたしにとってエグモントを失ったという事実は変えられない。エグモントは自分の仕事をしただけだけれど。近衛としては最大級の働きをしただけだけれど。だって、ジェラルドには傷ひとつつけること無く戦ったのだから。立派だったのだけれど。
それでも失ったものの大きさはかけがえのないものだった。
「リーズ・・・」
葬儀が終わり、神殿を立ち去る際に声を掛けられた。ローランとベアトリスとお父様がわたしに寄り添ってくれていたが、その声を掛けてくれた相手を無視するという不敬をすることは出来なかった。
「シャル・・・」
「リーズ、俺のせいでエグモントがこんなことになって・・・」
「殿下。殿下のせいではございません。エグモントは仕事をしたまでです。」
ローランがリーズの前に立ち、話しかけてきたジェラルドを宥めるように言った。ジェラルドも、長い間エグモントを護衛に携えていたのだから近しい関係でいたはずだ。ショックを受けていないわけがない。憔悴しきった顔で頭を垂れていた。自分を守ってくれていた近しい騎士が亡くなるというのは、この平和な世の中であまり起こることではない。そんな衝撃的な出来事がまだ13歳のジェラルドに襲いかかったのだ。ジェラルドだって辛いに違いない。
「シャルが無事で良かったです。」
わたしは一言告げると、家族と共にその場をあとにした。
エグモントの婚約者であったわたしは、しばらく領地に戻って静養してもいいという許可を得た。何も考えられなくなって、何も手につかなくなってしまったから、見るに見かねてそういう指示が出されたようだった。
わたしは領地に戻され、しばらく何もしないでいた。失ってしまったエグモントはもう還ってこない。二度と会えない。そう思うだけで、出涸らしたと思っていた涙がまた頬を伝う。涙って枯れるものではないのね、などとその度に気が付かされる。エグモントとの約束だった、次のデートはどこが良かったかしら。植物園?草原でピクニック?それとも領地にいくのもありだったかしら。キルシュネライト侯爵領は少し遠いから、ちょっと旅行みたいになったかもしれないわね。綿花が有名だから、きっと素敵な織物なんか紹介してもらえたかもしれないわ。
エグモントがいたら、どんなことをしていただろうという想像ばかりして日々が過ぎ去っていった。
ふと、わたしの回りに知っている気配を感じた。辺りを見回しても、何もない。けれど、よく知っている優しい空気感。
もしかすると、これはエグモント?エグモントは現の死者となってわたしの元に今居るのかしら?
「エグモント様、もしかしてここにいらっしゃるの?」
声を出してみても、特に何か変化が起こるわけではなく、ただなんとなく感じるだけだけれど、明らかにそこにエグモントがいると確信できた。わたしのこと、心残りでいてくれたのかしら。そう思うと、すこし心が落ち着く気がした。
けれど、エグモントが現の死者である限り、エグモントは先に進めない。それはとても寂しいことなのだと、エグモントが教えてくれた。エグモントの心残り。それは一体何なのだろう。
わたしのことかな?少しだけ自惚れてもいいかしら。そうじゃなかったらここでエグモントを感じないのでは?
「エグモント様はどうしてここにこられたのかしら・・・」
ふわっとエグモントの爽やかなグリーンの香りがするような気がした。一瞬だけだけれど、気のせいかもしれないけれど。わたしのことを見守ってくださるのかしら。いつか、エグモントの憂いを解いて差し上げなければとは思うものの、今は現の死者でもいいから側にいて欲しかった。
そうして領地で過ごしている間に、わたしは初潮を迎えた。