第八章
家に着くや否や、小鬼はバームクーヘンを食べようと言い出した。晶は夜更かしが苦手だから、
「明日にしようよ、もう寝よう」と言って、階段を上がって行ってしまった。
小鬼は一人玄関の上がり間でうつむいた。
「寝たらすぐに朝になるから。バームクーヘンは、コーヒーや紅茶と一緒に食べると美味しいよ」
玄関から上がってきた華子は小鬼の背中に手を当てて言う。
小鬼は華子の部屋で出窓の窓辺に寝そべると、早く朝が来ないかなと思った。
朝、コーヒーの香りがして、階下ではもう人が起き出しているようだった。晶は、小鬼がいないのに気づいてベランダや庭を覗いてみたが、見当たらない。
ダイニングへ行ってみると、食卓の隅に昨晩コンビニで買ったバームクーヘンが置いてある。
理太郎とウメはもう朝食を済ませて、庭で何かしているようだ。晶は一人食卓の椅子に座って、腰掛けたまま横着して腕を伸ばしてカーテンレースを開き、庭の家庭菜園で雑草を抜く父と肥料を撒く祖母とを眺めた。
しばらくして、華子が下りてきて、ボサボサの髪を耳に掛けながら、
「わ、おばあちゃん、暑くないのかな」
と、目を開いて言った。そして、網戸を開けると目を細めて、
「おばあちゃん、暑くない?大丈夫?」と聞く。
「すぐ戻るよ」と、声がして華子は網戸を閉めた。
食卓には、理太郎がこしらえてくれた野菜スティックと目玉焼きソーセージが置いてある。サラダよりも簡単だと気に入って、理太郎は何かにつけ野菜スティックを用意した。必ず味噌が添えてある。
華子と晶はその野菜スティックをかじりながら、小鬼の話をした。
「小鬼がいないんだけど、どこに行ったのかな?」
「鬼子なら、私の部屋で寝てるよ」
「鬼子?!女の子なの?」
「なんか、イビキなのかよく分からないけど、火の粉がはぜるような音がして起きちゃったんだよね」
「あぁ、たまに聞くね、あれ。へぇ、お姉ちゃんの所に行ってたの、ふぅん、そう」
平静を装いながら、これ以上華子に自分がリードしてるなんて思わせまいと、晶は必死に調子を合わせた。青い頃の愛着は、晶に始まってもいない競走をよく錯覚させた。
「もう十時だけど、まだ寝てるのかな」
二人は、水やりの滴に光る庭の緑を眺めた。浄化された空気が流れてくるよう。
華子は一世一代の大仕事のように立ち上がると、コーヒーをマグカップに注いでカフェオレを作った。一緒に運ばれる自分のマグカップを、
「お姉ちゃんの作るカフェオレは逸品ですね」と、調子の良い事を言って晶は受け取った。
二人がまた庭の平和を眺めるていると、大きな揚羽蝶が花を探しにやって来た。雫を湛えたバジルの上をひらひら回るとまたどこかへ向いて、それからふと夏椿の花の中へ飛び込んだ。ゆっくりと羽を閉じたり開いたりして何かを吟味しているみたいだった。落ち着いたみたいだった。麗しい生き物が可憐な花の中で過ごす午前、陽はまだ白色がかっている。二人は、美しくて静かな緑の劇場にいるような気がした。
「お二人さん、おはようー」
晶はその声に、嬉しくなって後ろを振り返った。半目であくびをしながら小鬼がふわふわ飛んでいる。
「おはよう」
晶が明るく返事をすると、華子はもっと大きな声で、
「おはよー!」と言った。




