パープルプラン
短過ぎる呼び鈴の音が家の中に響くのが、扉の外にいても伝わる。
家の中に人の気配はあるが、玄関へ出てくる様子はない。もう一度、呼び鈴を押す。
やはり切れ切れの音が鳴り渡る。しばらくの間があり、足音が近付いてくる。
サンダルに足を差し入れる音、ドアのチェーンを掛ける音の後、扉が細く開く。
中からは如何にも中年の小母さんといった感じの女性が、目だけきょときょとして外の様子を窺っている。やがてその視線が下へ落ち、漸く呼び鈴を押した主を発見する。小学校に入ったばかりの年頃と見られる少女である。誰か親戚のお古か、年齢の割りには年季の入ったランドセルを背負っている。
「嫁、要りませんか」
ナナは言った。鏡を見て練習した成果を発揮すべく、精一杯の無邪気な笑顔を作り、愛らしく聞こえるよう高めの声を出した。小母さんは警戒心を解き、ふっと和やかな顔付きに変化した。だが、チェーンを外すまでには至らない。
「おやまあ、最近の子はちゃっかりしておいでだね。自分で自分の将来を決めるのはいいことだよ。でも残念だねえ、うちのお坊ちゃまにはもう、奥様がお選びになられたお嫁さんがおられるからね。他の家を当たっておくれ」
同情の印か、笑みを見せながらも小母さんは扉を閉めた。足音が遠ざかっていく。ナナはさっと踵を返し、台所口を後にした。その家屋から充分に離れる頃には、少し息が上がっていた。周囲に誰もいないことを確認してから、ちっ、と小さく舌打ちをする。
「これで通学路沿いは全滅か」
どんなに時代が下っても、嫁姑問題は消滅しない。それどころか、少子化及び長寿化が進み、二者の対立は劇化していた。大体、家々なんてそれぞれ異なるのが当たり前である。同じ血を交わらせることによって子孫に遺伝子異常が出るのを避けるために、わざわざ異なる家から嫁を迎えているのに、その嫁が自分の家と違うから常識がないと言い出すのは、どう考えてもおかしいのではなかろうか。
また嫁も嫁で、長年の女性の歴史を鑑みて、自分の家とは違うことぐらい重々承知の上、自分で好き好んで嫁いだ癖に、いざ生活を始めて自分のやり方と違う点が出てくると、話が違うとか騒ぎ出すのもみっともない。
母親の方が妻より長く夫と付き合っているのだから、夫のことに詳しいのは当然である。
少しは年長者を敬う気になれないのだろうか。大昔には嫁はひたすら姑に耐えていたのが、そのうち姑の方が耐える世の中になってしまった。それでも嫁も我慢しているつもりなので、しわ寄せは子どもに行く。
我慢している嫁に育てられた息子は、やはり母親につく。資本主義の拡大再生産みたいなものである。子どもの数自体は減少の一途を辿っているから、濃縮再生産となり、嫁姑問題はますます濃密にこじれていくのであった。
そんなに他で育った嫁が気に入らないのなら、あるいは、そんなに姑のやり方が自分と違うのに我慢できないのなら、最初から一緒にしちまえ、という制度がパープルプランである。
源氏物語において、主人公の光源氏が紫の上を理想の妻とすべく自分の手で育てたことにちなんでいる。ただし光源氏の猿真似では、夫になるのは年寄りの男性ばかりで子孫を減らしかねないので、実際には光源氏の親が紫の上を育てる形に法を整備した。
充分に血縁関係が薄い女子を、嫁候補として育てる場合に限り、養子の手続きを取らずにいても法律的保護を嫁候補にも姑家族にも保障するという法律である。
幼児嗜好癖のある人間が、勝手に好みの女子を攫って監禁したり、貰ってきた女子をただ働きの道具に利用するのを防ぐために立法化した。
嫁候補として育てられた女子が、その家の嫁となることを拒否して家を出た場合についてもきちんと定めてある。しかし例によって手続きが面倒なので、正規の嫁候補を抱えるのは財政に余裕のある家ばかりと定まりつつあった。
一部とはいえ定着しつつあるというのは、パープルプランが好結果を生み出した事例が次々と出てきたからである。最初から嫁になる家族と一緒に暮していれば、家族が意識している習慣のみならず、無意識に共有している習慣までも、それこそ無意識に常識として身につけることができる。
後に姑となる人に対しても、実際育てられた訳だから、自然親愛の情がわき、敬おうという気にもなる。夫婦同士も、小さい頃から一緒にいて、良きも悪きも知り尽くしているから、結婚した途端に豹変した、騙された、という絶望感に支配されることもない。
育ててもらった家を出て他の家へ嫁に行く例も初期にはよく出たものの、そのほとんどが嫁ぎ先で身も細るほどに苦労して離縁される結末を迎えることがあまねく知られるようになってからは、嫁候補が家を裏切ることも極稀になった。
しかし、大多数の裕福でない家庭においても、嫁姑問題がない訳ではない。財政に余裕がない分、気持ちにも余裕がなく、問題もこじれやすい。音に聞こえたパープルプランを試してみたいという気持ちは同じである。
そこで違法ではあるが、闇でパープルプランを実施している家庭もあった。
いろいろな方法の中、貧しい家庭が金のある家庭に子どもを売り飛ばすのがよくあるパターンである。金持ち側にはややこしい手続きなしに、即欲しい子どもが手に入り、貧乏側には養い口を減らし、金まで入るという結構な取引である。
「ただいま」
ナナの挨拶に応える声はない。一間しかない家の中はごみで溢れ、ごみの上にぶくぶくと太った肉の塊がふた山盛り上がっている。一つの肉塊が動いた。ごみの臭いと入り混じり、動物的な臭いが入り口まで漂った。
「なんだい、まだ売れ残ったのかい。早く決めないと、金がなくなっちまうよ」
もう一つの肉塊は動かなかったが、どこからか声を出した。
「おめえに似て不細工だから、売れねえんじゃねえか」
「なんだって。あんたに似て脳不足だから売れないんだよ」
肉塊同士がぶつかりあった。ごみの山が崩れ、ナナの方へごみの破片が飛んできた。ナナは後退りして、入ったばかりの扉から外へ出た、途端に走り出した。
どこへ行くとも考えず、無我夢中で道を走り抜けた。
気が付くと、見覚えのない風景の中に立っていた。大きくもない家が、まばらに建っている。家々の間は畑や田圃で埋まっている。風が吹くと、周囲の草がさわさわとそよぎ、足元を撫でた。右手に石段のついた小山があり、てっぺんに小さな祠が奉られているのが見えた。ナナは石段を上り詰めた。
「何を祈っているんだい」
びっくりして石段を転げ落ちそうになった。祠の脇に、痩せた女性が立っていた。裕福な感じではない。服装がどことなく煤けているように見えるせいかもしれなかった。
「早く嫁ぎ先が決まりますようにって」
それでも、ナナは質問には素直に答えた。女はふうん、と目を細めてナナを上から下まで観察した。ナナは試験でも受けているように緊張し直立不動の姿勢をとった。
「学校の成績はどの位? 勉強以外に褒められるような特技はあるの?」
ナナが首を振ると、女は両手を上げて首をすくめた。ナナは悲しくなって俯いた。学校の成績は、いつも最低だった。かけっこも遅いし、音痴で、平仮名もきれいに書けなかった。料理も裁縫もしたことがない。力もない。
「嫁にならなくても生きていけるんだよ。こういう世界じゃ、大変だけど」
驚きに目をみはったナナに、女は嫁以外の選択肢を次々と例を挙げて説明した。
そのほとんどは、ナナにとってちんぷんかんぷんであったけれども、世の中には嫁にならない女性がたくさん存在するということだけは理解できた。
ナナは女に礼を言い、もう一度、祠に向かって祈りを捧げた。目を開けると、女の姿は消えていた。ナナはゆっくりと石段を下り、当てずっぽうに歩き始めた。家へ戻るつもりはなかった。