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フェリシアの黒い息の影響を懸念し、供の者は後続の馬車にフェリシアを乗せるよう勧めたが、エミリオは逆に供の者に後続車に乗るよう命じ、自らの責任の下、フェリシアと二人だけで先行する馬車に乗った。
車内でフェリシアの口から黒い息が吐き出されることはなく、少し傾きを深くした背もたれに身体を埋め、柔らかな毛布に包まれ、何もなかったかのように寝息を立てていた。
ようやく、あの時の恩に報いることができた。
エミリオは安心して、フェリシアの額に唇を落とした。
幼いままだと思っていたフェリシアは、面影はそのままに、女性として美しく成長していた。
ようやく取り返した。ようやく…
エミリオはフェリシアの頬をゆっくりと撫でて、軽く唇を重ね、そのまま眠るフェリシアに、むやみに黒い霧など湧かない、フェリシアは悪魔なんかじゃない、と改めて確信した。
と同時に、心臓が鼓動を大きくした。
助けると心に誓い、七年。ほんの数日しか会ったことのない目の前の恩人に、自分は今何をしたのか。恩人をさらわれた地から故郷に戻すことができた、それだけだ。自分のものになった訳ではない。想い合っている者でもないのに…
喜びと罪悪感が入り交じる今まで味わったことのない感情に戸惑い、エミリオはフェリシアをじっと見つめながら、自らを戒め、その思いを心の奥に隠した。
ボスコブルに戻ったフェリシアは、西都フロードゥルナにあるランツェッタ大公家で体調の回復を待つことになった。
屋敷に着くとフェリシアの母ロザリアが待っていて、久々の再会を喜び合い、しばらくの間、屋敷の一角で親子水入らずで過ごした。
フェリシアは国に戻っても聖堂で働かされると思っていたが、その義務はなく、自由にしていいと言われた。
母と共に街中で暮らすことを選んでも反対するものはおらず、希望した通りにその手はずが整えられた。
聖堂で修業しながら学んだことを生かし、母と共にフロードゥルナの商家で働き、時々聖堂での奉仕活動にも参加し、ごく普通の街の娘として日々を過ごした。
フロードゥルナの聖堂は、王都の大聖堂に比肩するほど荘厳で、多くの信者が集まっていた。
聖堂では月に一、二回、司祭の説教の後、女神を賛美する歌が響いた。隣国で流行っている方式で、修道士や修道女のほか、街の娘達も参加して声をそろえるその歌は評判となり、女神への信心を問わず、多くの者が聞き入っていた。
エミリオとはその後も時々会っていた。偶然を装うことがあっても、意図的に訪ねて来ているのは丸わかりだった。
エミリオはフェリシアの幸せを願うが故に、近寄る男への選別の目は親兄弟以上に厳しく、自分自身を含め、そのお眼鏡にかなう者はなかなか現れなかった。周りの者は被害者が出る前にとっとと二人がうまくいくことを願っていた。
エミリオは周りが驚くような決断力を発揮することもあったが、フェリシアに関することになると誠実ではあるが臆病で、あまりのじれったさに周囲はやきもきしていた。祖父のレオルや父アルバーノでさえ、恩人への思いを餌にいろいろけしかけたとは言え、少し育て方を誤ったかと心配したほどだ。
しかし、その想いがフェリシアに伝わらないはずがなかった。
七年もかけて自分を助けに来てくれ、国に戻ってからも普通に暮らせるようになるまで時間をかけて支えてもらい、こうして今も会いに来てくれる。
救出から四年の時間をかけ、ようやく二人は互いの想いを打ち明けることができた。
大公家の子息と庶民の結婚が成り立つのか、心配する者もいたが、西都中が祝福する二人の結婚に、異議を唱える者はいなかった。
エミリオは、ヒューメグランデから手ぶらで戻った後、大聖堂の腐敗を一掃したいというマリーノの意向を受け、不正の証を掴める優秀な諜報員を融通し、互いに情報をやりとりしていた。
また、自国と他国の聖堂に様々な形での寄進を続け、小さな要望であれば簡単に通るくらいのコネを作った。「国外追放」の沙汰を願えば、それが叶うくらいのコネを。
本人に知らされていないだけで、フェリシアの身分は「聖女」のままだ。例え破門された者が「悪魔」と呼ぼうと、痛くもかゆくもない。奇蹟を起こし、祝福を授ける者は「聖女」だ。国外追放となろうとも、その身分は剥奪されていない。「聖女」が大公子息と結婚することに、問題があろうはずがない。
ただ誰もがその身分でフェリシアを呼ばないだけだ。フェリシアが希望する通り、普通の娘として暮らさせるために。呼ばない理由が大公の命令だと言うことは、フロードゥルナに住む人間であれば知らぬ者はなかった。
かつて、わずかな金欲しさに自分の主人の客人の秘密を暴露した使用人が、その後どんな目に遭ったか…。それを知る者達は、大公を裏切ることはなかった。
ボスコブルでは、近々西部が独立し、大公国となる予定だ。
王家を継ぐはずの第一王子が他国の娘と駆け落ちし、継ぐ者のいなくなった王家。次の王を巡って貴族達は牽制し合い、内政は穏やかではない。
東部に領を持つ者には、大公が王となり、ボスコブル全体を治めてくれることを望む者が多いが、大公は王家を乗っ取る気はない、と明言し、政権争いを傍観しており、先行きはまだわからない。
裏切りという毒を食らった者の心の黒い霧は、まだ晴れてはいなかった。
その後、故国で心穏やかに過ごすフェリシアから、黒い霧が発せられることはなかった。
時間をかけて心の傷を癒やし、悪意を持たず、愛に満ちた口づけを受ければ、黒い霧どころか、より慈愛に満ちた吐息の力をもたらした。
ただし、フェリシアの心を傷つければ、いつ何時あの黒い息が現れるか…。
エミリオは生涯その覚悟を持ち続け、フェリシアをいたわり、その心の安寧を何よりも優先させた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この6話目は8割、完成後に追記しました。
(当初は5話完結予定)
そして二人は幸せに…
待て。実質数日しか会ってない者が、即めでたしとなるわけがない。
はずみとのりでくっつく奴らは、いつか我に返って痛い目を見る。
もうちょっとじっくりとロマンスを芽生えさせねばならん。
と、思って妄想してたら、悪徳大公家設定の方が盛り上がってました。
↑これに伴い、戻り先を王都から西都フロードゥルナに変更しました。
自分とこの領地にして、大公国の首都になる予定。
より安全に。そして政治が動く予感を込めて。
多分、また書き足したり、引いたり、誤字ラ倒したりしてます。