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抜けた歯の話。

作者: くー。

Pixivと同時掲載。

 通学路は商店街を通っていた。石灰の混ざった運動場のような空が、隙間を白く光らせている。子供はひとりでその下を歩いていた。

 もう数日前からぐらぐらと揺れる犬歯が気になって、舌先でつついている。本当は指で摘んで抜いてみたかったが、口を塞がれていたので出来なかった。

 ひゅうと風が吹いて、目の前を、椀の形に丸まった紙のような布のようなものが転がっていった。白いそれを目で追うと、「仕込み中」と書かれた札があった。開け放たれた引き戸に立てかけられていた。この辺ではただひとつの鮨屋だ。

 ほとんど明かりのついていない中は薄暗い。ただ、その薄闇の真ん中にぼんやりと、職人の白い服と鉢巻きが浮かんでいるのが見えた。禿げた頭の向こうから、怒声が聞こえてくる。

「おめえはまたでがっ。この、この」

 職人は、白くて太い棒を床に向かって何度も振り下ろしていた。下駄を履いた職人の足を挟むように、ぼろぼろになったズボンの裾と、底のすり減った便所サンダルがバタバタしていた。

 後ろから、二人の男が子供を追い越していった。二人はひょいと店の中を覗くと、すぐに首を引っ込める。

「法律か。つまらんつまらん」

「じじいもあの歳でよぐやる。盗人引き取るも楽でないの」

 男たちが居なくなったあとも、なんの気なしに見ていた子供はハッとした。暗闇に紛れて今の今まで見えなかったが、職人の隣にもうひとり人が立っていた。職人と共に店を切り盛りしている妻だった。

 薄黄色のエプロンをした妻は、ただじっとそこに立っていた。ただ、目は大きく見開かれ、黒目がきゅっと小さく見える。その目のまま、妻は床の方を見ていた。

 瞬きひとつしない妻が、子供は職人よりも怖かった。ひとつ先の街灯まで走る。

 ほんの五歩でたどり着いた、店の中に見えたサンダルと同じ色の街灯は、下に、小さな赤い水溜まりが出来ていた。その真ん中に、黄ばんだ奥歯が一本乗っている。子供はちょいちょいつま先で歯を道に上げると、けっ、けっ、と蹴りながら歩いた。

 誰の歯だろう。鮨屋のあのサンダルか。八百屋にいるバラバラ髪の女は違う気がした。裏の銭湯に最近来た、竹箒みたいなヤツのかもしれない。なんにせよ、別に珍しくもない。みんな流行病に狂ってしまって、歯の一本や二本、血の一つや二つ。

 けっ、けっ、とやってるうちに、いつの間にか商店街は終わった。診療所を目印に、その先は住宅街だった。子供の家もこの中にある。

「ぎんばやあぁ、ぎんばぁ」

 空き地の方から声が聞こえた。前を通ると、子供が五、六人わらわら集まっている。真ん中には縦にも横にも大きいのがいて、五分刈の頭を自分でざりざり撫でている。

 と、そいつがこっちを見た。顔の下半分が、黒地に白い星柄の布で覆われている。

「あ! 盗人の子! いけいけっ」

 でかいのが言うと、周りにいたちっちゃいのが二人寄ってきた。そして持っていた枝の先でわき腹を叩いたり、足を刺したりする。しかし、子供は無視して、でかいのの方に近づいた。周りにいた他の子供が、割れるように道を作った。

「なんだで。寄るな寄るな。盗人菌が伝染(うつ)るが!」

「それ、ホントに買えんの」

 子供は、でかいのの前に並んでいる銀歯を指さした。歯が落ちているのは珍しくないけれど、銀色なのは珍しい。よく集めたなぁ、と、子供は素直に関心していた。

 二人の子供に挟まれた銀歯は、じっと黙って鈍く光っている。

「だれがお前になんぞ売るか」

「いいもんあるよ」

「いいもん?」

 でかいのが眉間にしわを寄せて、気味悪そうに子供を見た。子供は、口を覆っていた白い布を顎の辺りまで引き下ろした。周りの子供は、皆ささっと数歩後ずさる。

 子供は口の中に親指と人差し指を突っ込んだ。そして、犬歯を摘むと、前後左右に揺すって、やがてひと思いに引き抜いた。鉄のような匂いが口から鼻に上がってくる。抜けたところを舌でつつくと、もう新しい歯の先が出てきているような感じがした。けれどそれはもしかしたら、舌が見た幻かもしれなかった。

 おお、と周りがどよめいて、まずちっちゃいのが寄ってきた。みしてみして、と、周りを飛び跳ねる。でかいの意外が、子供の周りに寄ってくる。

「自分でぬくの、すげえなあ。おいはこわいがぁ」

「あたしこの前上のぬけたよお」

 口々に、皆が歯の話を始める。口を隠す布の向こうで、いー、と見えない歯を見せ合う。想像の中で、歯はぽっかり抜けていたり、先だけが顔をのぞかせていたりする。

「これ、ど」

 子供がでかいのに、抜いたばかりの犬歯を差し出す。でかいのの顔は青くなったり赤くなったりしていて、一歩二歩と後ずさる。

「いらんっ。いらんいらんっ」

 やがてそう言うと、なにもかも置いて一散に駆け出した。みんなただぽけーっと、その姿を見送った。

 と、商店街の方向から、誰かの母親たちの声が聞こえてきた。

「はよう、それしなぁ」

 ひとりの少女にそう言われて、子供はまた口を布で覆った。大人はこれをするしないにうるさかった。見つかったら面倒なことを、皆よく心得ていた。

 塀の影から、三人の母親が現れた。集まる子供たちを見てふっと目元を緩めたが、こちらと目が合うと途端に、布で隠れた頬がひきつる。母親は我が子を呼んで、呼ばれた子供は母親へと駆けて行った。二言三言なにか話したあと、ばいばい、と、揃って手を振る。

「ねーねー」

 母親と子供たちが見えなくなるまで、空き地の中組は手を振り返していた。それが終わると、ひとり残った少女が子供の肩を軽く叩く。

「いまって、おとーさんに会ってるのがやぁ?」

 そう言われて、子供は首を横に振った。

「会ってない。あんなんさいしょっから、父親じゃないって、法律も言っとる」

 そこまで言って、子供は少し考えてから、て、母さんも言っとる、と付け加えた。ふうん、と少女は分かったようなフリをした顔で頷いた。

 二人はしばらく空き地の真ん中でなにも言わずに立っていた。言わずに、というか、まただんだんと口に溜まっていく血と唾に、子供は口を開けなかったのだった。でも、不思議とつまらない時間でもなくて、子供はそれが少しおもしろかった。

 しかしやがて、そろそろ塾行くからばいばいね、と言って、少女も居なくなった。子供は少女に手を振って、自分も空き地を出た。

 道路に戻ると、蹴ってきた歯がなくなっているのに気付いた。きっと、今まで通った人々に蹴られて、側溝にでも落ちたのだろう。あれは、自分がそこに置いておいたのに、と、子供はがっかりした。

 一瞬、あの銀歯と抜けた犬歯を交換してこようかとも思ったけれど、結局やめた。今朝母親が、抜けそうな歯を見て楽しそうに笑ったのを思い出したからだった。ぺっ、と口の中に溜まっていた血混じりの唾を、ちょうど歯を置いておいた辺りに吐き出して、子供は真っ直ぐ家に帰った。

 ただいま、と、玄関の扉を開けると、ちょうど母親は居間から廊下に出てきたところだった。もともとどこへ行く予定だったのか、おかえり、とこちらに近づいてくる。そして、子供を見ると上半身をわざとらしく仰け反らせた。母親はたまに、こういう大げさな動きをして、子供を面白がらせた。

「アンタ、口の辺り血い付とるが。どしたん」

「歯ぁ抜けたぁ」

 子供が握りしめていた手を開いて犬歯を見せる。口元の布をはずして、いー、とやると、穴の開いた歯の列を見て、母親は、あっはっは、と、季節はずれのひまわりでも咲いたように笑った。見えた母親の歯は眩しく白かった。

「よかったねえ。下よね。下よね。じゃあ上に投げんといかんがね」

 そう言って、母親は子供の手を引いて庭に出る。子供の歯が抜けるたび、母親は子供の手を握った。

「アンタ、もう荷物出来とるんかいね」

「まだぁ」

 また、あっはっは、と笑い声。

「じいちゃんばあちゃん、もう明日迎えに来るからね。歯ぁ投げたら一緒にしようね」

「うん!」

 二人は交互に、犬歯を青い屋根に向かって投げた。落ちてきては拾い、落ちてきては拾いして、なかなか屋根に乗らないのが可笑しくて、二人はずっと笑っていた。

 母親は特に楽しげだった。ずっとあった厄介なものの世話から解放されて、今度は逆に自分らが、実家に世話になることに決まっているからだと、子供も分かっていた。誠に嬉しそうな母親を見て。子供も嬉しかった。

 もう十回ずつは投げた頃に、かつん、かつん、という音がして、歯は落ちてこなくなった。歯は無事に屋根に乗った。これから出てくる次の歯が健やかに伸びゆくようにという、親子の願いが屋根に乗った。

「さ、荷造りしようね」

「うん」

「病気様々。法律様々やがねえ」

「うん。そうやねぇ」

 二人はまた手を繋いだ。子供はまた、いー、っとやって、母親が歯を空に向けて笑うのを見ていた。



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