第1章 ウエストランド 「漆黒の闇」
ジオ役イグリン・ムスクズは老齢ながら、未だその職を次代に譲ることなく現役で続けている。
かといって耄碌しているというわけではなく、実娘マイオの補佐はあれど矍鑠として滞りなくその任を全うしていた。周囲からの信頼は厚くほとんどの国民からは好意的な評価を受けていた。
大多数の「ほとんど」に含まれない、極わずかな勢力の一つが、フトシにあれこれと命令する政治家連中だ。
決して大きくない一派ではあるが、過失なく職務を続けるジオ役を、何故か明確に警戒している。
この国は領主を抱く封建的な国家であるが、世襲制ではなく、議会で行われる投票によって決められていた。領主には軍部を統率する役や、政治・司法における一定の決裁権があったが、任期のある領主は議会を軽んじることはなく、歴史上極端に独裁的な領主はいなかった。
議会について、参加している政治家は貴族のみで成り立っており、複数の村を所有するなど、ある程度の力を持った貴族が相応の対価を払って議会に参加していた。
当然、有力な貴族がそのまま議会でも発言力が強くなり、大きな派閥を作るのだが、しかしながら、そこでの投票で選ばれるはずの領主は、必ずしも最大派閥の者だけではなかった。
それこそが一部の政治家がムスクズを警戒する理由である。
基本的には貴族の中で有力な者、周囲からも妥当だと判断されるものが領主につくことが多いのだが、歴史を紐解けば確かに不可解な領主交代や、意外なものが当選することはあった。
「どうやらジオ役が領主を決めている」
数代前の政治家の間では、そんな噂が出回ったことがあった。出所は当時の最大派閥を束ねる有力貴族だろう。領主当選確実と目されていたその貴族が、やっかみで愚痴をこぼしたことが発端かもしれないが、ほどなくして徐々に話題に登ることはなくなった。その貴族もしばらくして目立った行動をすることがなくなり、ぷつりと議会から姿を消した。
その貴族の治めていた地域は現在、国の直轄領となり、貴族のことを覚えている者は誰もいない。政治家の勢力争いの結果や貴族の歴史など、一般庶民にとってはその日を生きるのに精一杯で、日々の忙しさにかまけてとても興味の及ぶ範囲ではないといったところだろうか。
ただ、そうやって国の直轄領となった地域では不思議と共通した言い伝えがあった。
それは「漆黒の闇」と呼ばれる存在。「大義・信念を忘れた者が成り果てる」とされている。貴族から庶民まで広く信じられていて、子育てにおける教育のための寓話として語られ「言うことを聞かない奴は漆黒の闇になるぞ」などと悪餓鬼への脅し文句として定着していた。
いわく「漆黒の闇は、皆に忘れ去られ、孤独のまま朽ちていく」というものだった。食料事情も厳しい時代において、社会からはみ出ることはすなわち死を意味するので、恐れられるのも当然であった。
しかし、過去に埋もれたはずの「ジオ役が領主を決めている」という噂であるが、噂の元となった貴族一派の傍系が今でもわずかに残り、仲間内に秘中の秘として伝わっており「ジオ役から国政を取り戻す」ことが目標に掲げられ、密かに活動していた。
当初は主流派から転落した妬みもあっただろうが、抑圧される内に自分らの中で正義へと変質していった。厳しい環境の中で結束し、正義を合言葉に盲目的に敵を定めて画策する内、下手に目立つほどでない規模と、実務における一定の権限を手に入れ、その能力をジオ役一族に対する密かな牽制に使うようになる。
そこで監視のために使役されたのがイグリンの相方となったフトシであり、牽制の手駒と目されて懐柔されたのがイグリンの父であった。
当時、ジオ役ムスクズの実娘マイオの婿として隣国より招かれた貴族こそがイグリンの父で、若さゆえに正義感を持つが、国内の事情に明るくない若者という「格好の獲物」を半ば強引に派閥に引き込んだのだ。
イグリンにとってはいつでも優しい父だった記憶しかない。
後継ではないイグリンだが、それでもジオ役一族の一員としての責任感からか、周辺諸国の歴史や重要人物などをまとめた「選手名鑑」と言われる書物をたびたび欲しがった。周囲の人間は笑ったが、父は何も言わず幼子の成長に目を細め、いそいそと用意してくれるような人物だった。そうして「選手名鑑」はイグリン少年の宝物になる。
その日は、国内の有力者がイグリンの実家に集まるとかで、朝から周囲がせわしなくしていた。そんな中、父は一人所在なげに玄関に佇んでいるのを見て、イグリンは違和感を覚えた。
無性に不安になって声をかけるも、父はぎこちなく微笑んで「少し、猪の様子を見てくる」と言い残して家を出た。
父が「漆黒の闇」になったのはその翌日のことだった。