第1章 ウエストランド 「イグリンという男」
イグリン・ハイロアケは臆病であった。
小国が乱立し凌ぎを削り、魔物が跋扈するこの時代、少しの不運や不注意で命を落とすことも珍しくない過酷な環境において、それは必要な素養だったかもしれないが、西部中央平野で武によって成り立つハイロアケの生国トゥヤンマではいささか珍しい気質であろう。
しかし、ハイロアケの幼少期、物心がついて周囲の状況が見えるようになってからのことを考えると、そういった性分になったのは致し方ないように思われた。
イグリン家は代々、トゥヤンマの騎士階級の長を務める家柄であり、ある"特殊な理由"により完全なる世襲制になっている。
トゥヤンマの騎士は「西の猪」として勇猛果敢で知られ、中でも上位階級の騎士は「ボアマン」の称号を持つ特級戦力である。普通、騎士は領主に忠誠を誓うものだが、ボアマンは少し事情が異なる。ボアマンの力は、トゥヤンマで古くから受け継がれる特殊な儀式によって授かるとされ、非常に神聖視されている。その力の源である「猪の力」は強大で、個人で完全に掌握することは難しく、精神的に未熟な若年層ではしばしば暴走することがあった。その中で、イグリン家の祖先は「猪の力」に対する感応力を発揮し、ボアマンに精神的な安定を与えると共に、それら騎士階級から自然と忠誠心を集めるに至った。
その力はイグリン家に代々受け継がれ、トゥヤンマにおいて武力の中枢を担うようになったが、それ以上に権力への野望を見せることはなく、粛々とボアマンの統率をもって国に仕えて信頼を得た。結果、ボアマンを率いる「ジオ役」なる役目を世襲することになった。
現在はハイロアケの祖父ムスクズがジオ役を務め、補佐として実娘であるイグリンの母マイオが実務を行なっている。次男であるハイロアケには、実家を継ぐ未来は薄かったが、これ幸いと「成人の儀」が終わり次第、家を出る決意を固めていた。
成人の儀とは、前述の「トゥヤンマで古くから受け継がれる特殊な儀式」の通称で、正式な名称は今となっては誰も知らない。とにかく、成人の儀さえ終わればハイロアケがトゥヤンマを出立するに十分な準備が整うはずだった。
成人の儀では、古代の成人の年齢にあたる15才で祈祷師が執り行う儀式を受けることで、土地にやどる祖霊より祝福を授かる。もたらされた祝福の内容は祈祷師にしか判別できず、曖昧で抽象的な表現であることが多いが、時代を経て統計化され、医者や教師、商売人、官僚など様々な職業への適正が当てはめられていった。トゥヤンマでは、祝福から判断された適正によって将来の職業が決まるということが一般化している。中でも、数多ある祝福のうち「猪の力」を得た者はボアマンとなるべく騎士に選ばれるのだ。
ハイロアケは坂を登りきったところで人を待っていた。眼下には田畑が広がり、その先に領主館が見える。ようやく、待ち人があぜ道をのろのろと歩く姿が見える。待ち合わせの時間からは多少過ぎているが、特に苛立つ様子もなく相手を見据える。
坂の下についたところで、わざとらしくもようやく小走りになったその男は、大して悪びれる様子もなく、
「ごめんなー。遅くなってしまった。」
とつぶやくように言った。
「フトシ、しっかりしてくれ。」
呆れたようなハイロアケは、しかし真に怒っているわけではないようだ。フトシと呼ばれた男は上背はないががっしりとした体格で、顔には緊張感がなくヘラヘラと笑みが浮かんでいる。
「まぁまぁ、ここはお前の家だ。大して待ってもいないだろう?」
「それはそうだが、成人の儀の日でも遅刻するってどういうことだよ。」
「いよいよだなぁ。祝福はどうなることやら。緊張するなぁ?」
フトシは常と変わらず、本心かどうか分からない抑揚の無い平坦な調子で呟く。
「外で使えれば何でもいいさ。それよりとっとと行くぞ。」
ハイロアケは大したことでは無いとばかりにフトシを急かすが、フトシは焦った様子もなく
「へー、さすがは次期ジオ役は余裕ですなぁ。」
と茶化すように笑みを深める。しかし、それを言う終わるより早くハイロアケの表情が歪む。
「おい、今僕は“外で”って言ったよな?こんな家、継ぐつもりは無いって、何度言わせれば気がすむんだ。」
先ほどまでの余裕のある様子ではなく、苛立った感情が覗く。
「へへ、そっちこそ、もうすぐ“犬の檻”の前だぞぉ。そんなこと言ってると大人に怒られる。」
「…まだ聞こえないだろ。それにもうすぐ成人の儀も終わって名実共に大人だ。行くぞ。」
「はいはい。しかしお前の家いつ来ても広いな。坂登って門から屋敷の手前にある“犬の檻”までまだ歩くもんな。」
「国中の人間が集まるからな、そんなもんだろ。」
「考えてみたら、そんな大事な行事を自宅でやるって凄いな。やっぱお前の家は…おっとぉ。」
フトシの止まらない軽口にハイロアケの目が鋭くなる。いよいよ険悪になる前に口を閉じる程度には空気を読めるようだ。
「それにしてもさぁ、なんで成人の儀をやるのが“犬の檻”なんだろうな。皆、“猪の力”が欲しいんだろ?それを祈る場所が“犬”ってのはなんだか締まらないよなぁ。」
と、国の中ではありふれた話題をふるフトシ。
「ふん…由来は…まぁ知らないが、別に“猪の力”を得るためだけの儀式でもあるまいし、“他の商売”の適正が当たるやつの方が多いんだ。猪に関係の無い名前だからって構わないだろう。」
そう嘯くハイロアケに、フトシは少し困ったように
「おいぃ…誇りあるボアマンを他の商売の適正と一緒にするなよ。誰が聞いてるか知らんぞ。」
と、愛想笑いをしながらも咎めるように言う。
「おぉ、珍しいな。こういう話題だと、お前でも動揺するのか。だがな、本当の話だ。“猪の力”がなんだ。“ボアマン”がなんだ!ただの適正の一つに過ぎない!」
感情的になってまくし立てるハイロアケに、フトシは心の中で舌打ちをしながらも
「分かった分かった、俺が悪かったよぉ。だからそこらへんでやめてくれぇ。」
と、弱った様子で機嫌を取るための言葉を並べる。そこで少し冷静になったハイロアケは周りを見て、咄嗟に取り繕うように咳払いをし、先を急ぐ。当主の一族たる自分には関係者の注目を集めやすいことを思い出したようだ。
後ろに立つフトシの顔からはさっきまで張り付いていた笑みは消え、虚ろな目で権力者の息子の後ろ姿を追っていた。