表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
これから  作者: さとしあきら
1/1

1

 空は清々しいほどに快晴だった。

 暖かい日差しが差し込む教室の端で、黙々と文庫本のページを捲っていく。紙と指が擦れる音が僕の耳を撫でていく。その心地よさに身を委ねながら、僕はただひたすらに目の前の現実から目を背けようとしていた。

 時刻は午前十時四十分。二限目の英語の授業が終わり、教室の中にいた女子の数は見る見るうちに減っていき、数分もしないうちにクラスの中は男子だけになった。男子生徒の何人かが既に制服から体操服に着替えている。

 僕は読んでいた文庫本に栞を挟んで閉じてから、文庫本を持って目立たないようにそっと教室の後ろの扉から廊下に出た。

 廊下は休み時間に他のクラスメイトと会話をしようと廊下に出てきた生徒が数名いるだけで、他は特に変わりはない。僕はその人たちの脇をすり抜けて、早足で目的の場所へと向かった。

 教室から廊下に出て、校舎の北側にある階段を降り、そこから反対の南側に向かう。途中で体操服に着替えた数人の生徒とすれ違ったけど、特に声をかけられることもなかった。

 そしてようやく目的の場所へ到着する。

 僕は教室の扉の上の方にある札を見て少し安堵する。

 その札には図書室と書かれていた。

 図書室の扉は立て付けが悪く、取っ手を掴み横に引こうとしてもうまく動いてくれない。前後にがたがたと動かしてやったら、ようやく扉が動いた。

 図書室に入ると大きな窓が向かいの壁一面に貼られていて、そこからとても景観の良い山が見えた。

 図書室の中はそれといって目の引くものはないが、窓から見える景色だけはこの図書室の特徴と言って良いほど光っていた。

 誰もいない図書室はとても静かなものだ。もちろん図書室というものは普段から静かな場所としてあるものだけど、誰もいない、蛍光灯の電気も付けられずに薄暗い教室の中で、唯一の光源である大きな窓から照らされる太陽の光の暖かさが、何とも言えぬ心地よさを引き出していた。

 図書室の壁に掛けられている時計を見ると、いつの間にか三限目の授業開始の時刻に差し迫っていた。他の生徒たちは、今頃自分の教室の席について担当の先生が来るのを待っていることだろう。僕のクラスの授業は体育だから、きっと綺麗な青空の上で、やる気を満々に出しているお天道様の下で、体育教師の片桐先生に整列をさせられているに違いない。

 授業を黙って欠席したことへの罪悪感と、手に持っている文庫本の続きが気になる気持ちのどちらが強いかと聞かれたなら、迷わず「文庫本の続きが読みたい」と答えてしまうくらいの心境で、僕は文庫本を開いた。心の中の天秤は重量が片方に寄りすぎているみたいだ。

 図書室の明かりは点けない。少し薄暗いのが落ち着くのだ。電気を点けてしまうと、廊下を通った学校の教師に気付かれるかもしれないという考慮もあった。

 文庫本の文字に目を落とす。意識は本の中に吸い込まれ、周りからの情報は一切合切遮断される。ジャンルはミステリー。本を選ぶ時、ジャンルには拘らない。この前は高校野球部の青春ものを読んだ。

 部屋の中は本のページを捲る音と掛け時計の秒針を刻む音しか聞こえてこない。

 しばらく本を読んでいると、図書室の入り口から物音がした。

 僕は読んでいた本から視線を外し、図書室の入り口を振り返る。

 教室が薄暗い所為で顔はよく見えないが、そこには、おそらく女子生徒らしき人影が立っていた。その女子生徒は、手には何も持っておらず、周りをきょろきょろと見渡している。

 誰か人を探しているんだろうか。それにしても今は授業中だ。この時間に図書室に来るのはおかしい気がする。自分のことを度外視にしてそんなことを考えていると、女子生徒らしき人影は、こちらに向けて足を進め始めた。

 隠れるべきだろうか、それとも話しかけてみるか。いろんな選択肢が頭の中で浮かんでは沈んでいく。そもそも隠れるにしたって、うまく隠れられる場所なんて思いつかないし、話しかけるのは少し気後れしてしまう。僕は人と喋るのが苦手なんだ。

 結局僕は、目の前の現実から目を逸らし、本を読むことに集中した。僕から話しかける理由なんて無いし、彼女が僕に何か用があるのなら、向こうから話しかけてくるだろう。授業をサボったことに対する注意なら、向こうだって人のことは言えないはずだ。そう結論をつけ、文庫本を読み進める。

 やがて女子生徒の足音は僕の隣で聞こえなくなった。それでも僕は視線を本から外さない。すると隣から声が聞こえた。

「ねえ君、何読んでるの?」

 そこで僕はようやく視線を声の方へ向ける。そして聞こえてくる声の主を目の当たりにする。

 声の主は僕の知っている人だった。確か名前は。

「えっと……菊田さん?」

「おはよう、大林くん」

 菊田さんは僕と同じクラスだ。今までほとんど話したことがないので、どんな人物なのかはよく知らない。でも、なんとなく友達が多いという印象がある。とある休み時間、教室内の一部のスペースに、クラスの四分の一の生徒が集まり、その中にも彼女がいた。

 菊田さんは少し長い綺麗な黒髪を後ろに垂らして、無表情のまま口を開いた。

「何読んでるの?」

 菊田さんは僕が読んでいる本に興味があるようだ。という呑気な解釈が頭の中に真っ先に出てきたが、いやいや、それ以前にもっと気にするべき事があるだろうと頭を振る。どうして菊田さんが授業中に図書室に来ているのか、なんで僕に話しかけたのか、色々と気になる事がどんどんと湧いてくる。

 頭の中の整理がつかないまま、聞かれたことに答えようと口を動かす。

「これ、ミステリー小説だよ」

 そう言って、僕は文庫本に着けていたブックカバーを外して表紙を見せる。表紙に書いてあるタイトルは、最近ではネットや本屋でよく目にするものだ。最近映画化が決まったとかで、妙に話題性のある作品になっている。

「へー、そうなんだ」

 菊田さんは、それ以上口を開かずに、なんだかつまらなさそうな表情をしながら表紙を眺めている。結局菊田さんは何をしに図書室へ来たのか、その答えが出ないまま、僕もどう聞けばいいのか分からずに、沈黙の時間が続いている。電柱の電線に止まっている雀の囀りがやけに耳に付く。

 時が止まったかと思えるほど長く続いた沈黙の後に、突然菊田さんは視線を僕に向けて言った。

「ねえ、これ見てよ」

 菊田さんはスカートのポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。僕は突然差し出されたスマホに困惑しながらも目を向け、そしてそこに書いてある文字を読む。


――疾患少女――


 一行目に大きめのサイズで書かれていた。何かのタイトルだろうか。スマホを下にスワイプさせると、二行目からは何千何万あるか分からない文字がひたすら並んでいた。内容はどうやら小説のようだ。今から読むには少し根気がいると思わせるような文字量だった。

「――これって、小説?」

「そう。小説」

 そう言って菊田さんはスマホをポケットにしまった。僕は何を言えばいいのか分からずに、菊田さんの次の言葉を待つ。菊田さんは顎に手を添えて、ほんの少し考える仕草をした後に口を開いた。

「君に、これを読んで感想を聞かせてほしいの」

 感想ってことはつまり。

「菊田さんが今の小説を書いたってこと?」

「まだ完成はしてないんだけどね」

 菊田さんは肩をすくめて苦笑した。それにしても、菊田さんが本に興味があったなんて意外だった。昼休みの図書室で菊田さんの顔は見たことがないし、教室で本を読んでいるところも見たことがない。教室で小説を読んでいるのは基本的に僕だけだ。なんだか、辺境の地で周りは知らない人ばかりだったのに、突然目の前に顔見知りの友人が現れたような安心感が僕の中で芽生えた。

「菊田さんも小説とかよく読むの?」

 この学校で始めて見つけた同胞に喜びを覚えて、さっそく今までため込んでいた欲求を果たすかの如く、今まで誰にも聞けなかった質問を振ってみる。この時の僕は、目の前に餌をぶら下げられた家畜のように。目の前の餌にありつこうと必死だった。

「うん、読むよ。学校ではあまり読まないけどね。家族がみんな漫画とか小説とか好きだから、家にある小説とか読むの。本棚たくさんあるんだよ。本を置く場所に困って、書斎部屋まで作っちゃうくらい。ちょっとした本屋さんみたいになってる」

「書斎?」

 書斎という単語に心が躍る。どんなものなんだろうか、少し見たい気もするが、相手が菊田さんなので、見る機会はないだろう。残念だが書斎を見るのは心の中で諦めておいた。

「小説ってさっきの以外にも書いたことあるの?」

「ないよ。あれが初めてなの。だから感想をもらいたくて。このまま書き進めてもいいのか不安になってきちゃってさ」

「なるほど」

「ところで君ってさ、スマホ持ってる?」

「持ってないよそんなの。高校上がるまで買ってもらえない」

 ぶっきらぼうに答えた。最近は中学でもスマホを持つのが当たり前ってテレビで見たけど、僕の親は高校に上がるまで持たせない方針らしい。僕自身は不便とは思っていない。連絡する相手がいないから。

「持ってないのかぁ……じゃあ、また今度コピーして持ってくるよ。私の小説。まだ途中までしか書けてないんだけど、とりあえず最後まで読んでみて。そのあと感想聞かせてね」

「えっと、読むのはいいけど。なんで僕?」

「うーん、暇そうだし。小説好きそうだったから?」

「暇そうって……。まあ、暇なのは確かにそうなんだけど」

「じゃあ、別にいいよね。感想くれたら何か御礼するからさ」

「別にそういうのは要らないよ」

「君が要らないって言っても、私が気にしちゃうんだよね。何か御礼しないとっていう気分になっちゃうの。だから、読んで感想くれたらちゃんと御礼するよ」

「まあ、どっちでもいいけど……」

「じゃあ、決定。明日の放課後にコピー渡すから、さっさと帰らないでね。ホームルーム終わってもちゃんと待ってて」

「……わかった」

 色々と混乱はしたが、要は小説を読んで感想を言えばいいってだけの話だ。多少の疑問は残るが、同年代の女子が書いた話がどんなものか多少の興味があったし、どうせ僕は本を読むこと以外にやることがない。いい暇つぶしだと思って、菊田さんの提案を呑むことにした。

「じゃあ、またね」

 菊田さんは僕に背を向けて、少し早い足取りで図書室を後にした。図書室には、再び沈黙が訪れる。

 僕はもう一度、閉じていた文庫本を開いた。読み進めようと、文字に目を滑らせてみるが、視線はつるつると文字の上を滑るだけで、文の内容が一切頭に入ってこない。一度文庫本から目を離し、窓の外の電線にとまっている雀に目を向ける。雀は時折囀りながら、僕を横目で見ているような気がした。本の中身を雀の方に向けてみると、雀は一度正面を向き、そのあとすぐに電線から飛び立ってしまった。どうやら僕は今の雀と同じくらい、文を読む能力がないらしい。辟易しながらも、机の上に突っ伏する。さっきから頭の中は、菊田さんとの遣り取りの事で一杯になっていた。

 心臓が脈打っている。その振動が、体全体に伝わってくる。どくどくという音を立てて、体全体をほんの少しだけ揺らしている。どうやら僕は、菊田さんとの会話に緊張していたらしい。

 普段から一人でいる所為か、突然人から話しかけられるのにはあまり慣れていない。それに、今は授業中だ。ただでさえ誰かに見つかったら面倒だっていうのに、突然現れたのは同じクラスの人で、しかも本が好きな女子だった。いろんな意味でドキドキしてしまった。

 しばらく本を読むことに集中できそうになかった僕は、このまま図書室で少しだけ寝ることにした。暖かい日差しに、外からは雀の囀りが聞こえるこの場所は、寝るのに最適な空間だ。僕は目を瞑ってから、ゆっくりと意識を手放していった。


 遠くから何か物音が聞こえる。その音で目を覚ました僕は、閉じていた重い瞼をゆっくりと持ち上げ、顔を上げる。その瞬間、窓から差し込んでくる日差しが一気に僕の眼光を突き刺し、思わず手で遮る。

 物音はまだ鳴っていた。何か台車を転がすような音だ。音のする方へ眼を向けると、そこには皺くちゃのおばさんが居た。目をこすってもう一度よく見てみると、司書教諭の藤原先生が居た。時計の方を見ると、すでに体育の授業が終わって、休み時間になっている時間帯だった。

「あら、起きたのね。おはよう」

「……どうも」

 藤原先生は僕が起きたことに気付いたらしく、おはようの挨拶をしてくれた。寝起きでうまく脳が働いていないせいで、適当な返事をしてしまったが、藤原先生は笑顔が崩れなかった。藤原先生の見た目は五十代後半で、気前のいいおばさんみたいな人だ、相変わらずいい人そうな雰囲気がにじみ出ている。実際、藤原先生はとても優しい先生だ。今こうして授業をサボって寝ていたことに対しても、藤原先生は何も言ってこない。それどころか、おはようと笑顔を向けて挨拶をするような人だ。この人のおかげで、少しは学校生活に余裕が出ているといっても過言ではない。こういう先生がいるから、図書室はとても居心地がいいのだ。

 目覚めたまま、しばらく何もせずにただぼーっと窓の外を眺める。そろそろ教室へ戻らないと、次の授業が始まってしまう。次の授業科目は英語なので、宿題を提出しなければならない。先週出された宿題の内容は確か長文問題だった。マイケルとソフィアが買い物に行く話だったような気がする。マイケルはサッカーボールとバスケットボールを買いに行き、ソフィアは花屋でバラの花を買いに行ったらしい。マイケルは何でサッカーボールとバスケットボールの両方を買いに行ったんだろう。

 寝起きはどうにも変なことばかり考えてしまう。軽く伸びをしてから、席を立つ。図書室を出るときに、藤原先生が持ってきていた台車に乗っていた段ボールが空いていたので、中身をちらと見てみると、そこには入荷された新刊が詰まっていた。何があるのか気になったが、時間があまりないので今は見送ることにする。

「あーマジで体育疲れたわー!もう無理動けない」

「まだ今日の授業半分も終わってないんだから、もうちょっと頑張れよ」

 教室へ戻ると、ほとんどの生徒が体育の授業を終えて教室へと戻ってきていた。教室の中は、友人と談笑する人、次の授業に向けて予習する人、机に突っ伏して寝ている人、様々な人がいた。

 教室の後ろのロッカーの前で何人かの生徒が集まっている。そこへ目を向けると、そのグループの中の一人と目が合った。菊田さんだ。

 菊田さんは一瞬僕と目が合ったかと思うと、すぐに目を僕から逸らしてしまった。まるで何事もなかったかのように談笑を続けている。菊田さんの態度を見ていると、本当に図書室で僕と菊田さんが会話をしたのか、だんだん確証が持てなくなってきた。あの時見た菊田さんはただの夢で、実際は、菊田さんと僕は一切会話をしていなかったのではないか。そもそも菊田さんは図書室に来ていないかったんじゃないかとさえ思えてくる。全ては僕が図書室で寝ていた時に見た夢。そう思う方が自然な気がしてきた。

 僕も菊田さんから目を逸らし、自分の席へと向かう。途中で机に足を引っかけて転びそうになりながらも、自分の席へ着く。やがてチャイムが鳴り、英語教師の先生が教室へと入ってきて、号令を促す。

「エブリワン、スタンダップ」

 英語の授業が始まった。


 長い長い一日の授業をすべて終え、時間は放課後。生徒たちは各々の用事に向けて動き出していた。僕は部活に入っていないし委員会にも入っていないので、放課後は何もせずまっすぐ家に帰る。

 教室を出て階段の方へ足を運ぼうとしたところで、僕の前に人影が現れた。その人物は屈強な体格をしており、丸太のように太い腕がよく目についた。顔は口髭と顎髭が程よく伸びており、めっちゃサバイバルに強そうな見た目をしている。

「おう、大林。ちょっと待て」

 その人物、体育教師の片桐先生は、太い腕を組み仁王立ちで僕の目の前に立っていた。

「……はい、何ですか?」

 僕はなんだかとても嫌な予感を感じながらも、渋々、片桐先生に返事をする。窓の外の日はまだ沈んではいない。

「大林。お前体育の授業の時どこ行ってた?」

 いきなり本題に入ってきたか、と少したじろぐ。しかし、僕も馬鹿じゃない。こういう時の言い訳は普段から考えているのだ。常に万全を期している。

 もう一度片桐先生の顔を真正面からとらえてみる。目の前の教師はいかにも鬱憤をためていそうな表情で僕のことを見下ろしていた。少しだけ足が竦んでいるのは僕が臆病なわけではなく、片桐先生の顔が普通の人の五倍くらい強面だからしょうがない事だった。

 万全を期して、僕は授業を休んだことに対する理由付けを行う。

「きょ、今日はちょっと……体操着が雨で濡れてしまって、日光で乾かそうとしてたんですが中々乾かず……授業にも間に合いませんでした……」

 表情はできるだけ哀愁あふれた顔で、視線は斜め下を向きながらそう答えた。

「……昨日も今日も快晴だが?」

 窓の外は今でも日光がギラギラしていた。

 もう一度片桐先生の顔を見ると、今度はとても呆れた表情をしている。おかしい。万全を期していたはずなのに、片桐先生はなんだか不満そうだ。

「あのなぁ大林……そもそも昨日も今日も雨なんて降ってなかったし、仮に嘘をつくにしても、日光で乾かそうとして授業に間に合わなくなりましたとか言う馬鹿が何処にいるんだ……。せめてもう少しまともな嘘を言え」

 片桐先生は、顎髭のちくちくした感触を確かめるみたいに顎に手を添えながら、僕のことを見下ろしている。

 周りには何人かの生徒が僕と片桐先生のやり取りを覗き込むように見ていた。クスクスと女子の控えめに抑えた笑い声が耳に入ってくる。教室の奥では「またあいつ片桐に絡まれてるよ」「懲りないな」と、男子生徒二人が話していた。ああいう陰口は、言っている本人たちは気づかないかもしれないが、意外にも本人に届くものなのだ。振り返り、教室の後ろにいた二人を見ると、彼らはまずそうに僕から目を逸らした。いつものことだ。

「ほら、これ持って帰れ」

「なんですか、これ」

 片桐先生は手に持っていた原稿用紙四枚を僕の目の前に差し出した。なんとなく察しは付くが、とりあえず面倒なことを言われるんだろうなというのは確信していた。

「明日までに反省文を書いて俺のところに持ってこい。原稿用紙四枚分、ちゃんと埋めて書くんだぞ」

「……」

黙って原稿用紙を受け取り、ぱらぱらとめくってみる。しっかりと四枚あった。

「いいか、明日までだぞ。反省文を提出しなかったら、体育の成績はまた下がるぞ。出席しなかったことをこれでチャラにできるんだ。こんなチャンスをくれる教師はあまりいないんだからな。このチャンスを逃さないようにしろ」

そういって片桐先生はずんずんと廊下の奥へと歩いて行った。どうやら用は済んだらしい。僕もこの面倒な反省文とやらをさっさと終わらせるために早く帰ろうと、鞄を肩に掛けなおし、教室を出た。

 校門を出て空を見上げると、相変わらず雲一つない快晴がそこには広がっていて、なんだか見ていてとても清々しい気分になった。手元でがさがさと風に揺られている原稿用紙四枚が無ければ、最高の気分になれただろうに。

 がさがさと風に靡いてうるさい紙を鞄にしまい、電線にとまっている雀を眺めながらとことこと歩き出す。あの雀は今朝の奴だろうか、それとも雀違いだろうか。

 校舎からは、吹奏楽部の演奏の音が、窓の隙間から風に乗って僕の耳に届いてくる。

 グラウンドでは、サッカー部と野球部の掛け声がこだましている。

 学校から遠ざかるにつれて、生徒の声や楽器の音はだんだんと小さくなっていく。やがて、五分も歩けば何の音もしなくなった。せいぜい雀の囀りが聞こえてくるだけ。そんな物静かな空間の中で、僕はただひたすらに左右の足を交互に動かし続ける。

 そして僕は家の前にたどり着く。周りは民家に囲まれている。向かいにはとりあえず置いておきましたよといわんばかりの小さな公園がぽつんとそこにあるだけ。なんとも殺風景だ。

 家の鍵を制服のポケットから取り出し、鍵穴に鍵を差し込む。そのまま回すとガチャリと音を立ててドアの鍵は開く。玄関に入ると、玄関の明かりは消えていて、物音は一つもしなかった。

 小声で「ただいま」と挨拶をし、そのまま自分の部屋へと向かう。自分の体は今朝家を出た時よりも重く感じた。 

 目の前を長い廊下が横たわっている。廊下の電気は点けずに廊下を渡る。一歩一歩、足を動かすたびにフローリングの床が軋む。真っ暗な廊下を進む中で、長い廊下の中の途中にある扉を開けると、そこはリビングだった。相変わらず部屋は真っ暗で、部屋の真ん中にある四角い大きなテーブルの上には、文庫本が数冊重ねられていた。タイトルはどれも僕の知っているものばかり。というか僕の本だった。おそらく姉が勝手に僕の部屋から持ち出して、ここで読んでいたんだろう。相変わらず自由な人だ。

 姉は今リビングにはいない。ということは、自分の部屋にいるんだろう。僕の本を勝手に持ち出したことを叱ってやりたいが、あいにく今僕の手元には原稿用紙四枚がある。こいつらを先に片付けないと、安心して眠れない。

 机の上の本を回収して、自分の部屋へ向かおうと、リビングの扉を開けようとした時、上の階から物音がした。恐らく姉が部屋から出てきたのだろう。うぁーという呻き声も聞こえてくる。

「あら、おはよう裕太」

 階段の上から寝間着姿の姉がひょっこりと顔を出してきた。

「また俺の部屋から勝手に本持ってっただろ」

「あら、そうだった?」

「ほらこれ」

 そう言って僕は手に持っていた本を姉に見せる。全部ミステリー小説だ。

「勝手に持ち出すのは良いけど、ちゃんと元の場所に戻しといてくれよ……」

「ごめんごめん。次からは気をつけまーす」

「全然説得力無いよ……」

「だいじょーぶだいじょーぶ。私が今まで嘘をついたことなんてあったかい?」

 そりゃあもう何回も。

「あー……まぁいいや。悪いけど、洗濯物干しといて。今日はやらなきゃいけない事があるから」

「えーめんどくさい」

「姉ちゃんの晩御飯だけ作らないでおこうかな」

「うそうそ! 冗談だって! やりますやります」

「じゃあよろしく」

 姉は大急ぎで洗面所へと向かって行った。ご飯で釣れる姉に呆れながらも、僕もやるべきことをやろうと、早足で部屋へと向かった。


「……なので、これからは気を引き締めた学校生活を送っていきたいと思います。っと」

 鉛筆を置き、今出来上がった反省文を手に持って眺める。我ながら綺麗な字でしっかり書けている。

 時計の針はいつの間にか午後六時を回っていた。そろそろ晩御飯を作らないと、腹を空かせた姉ちゃんが部屋に乗り込んできそうだ。素早く原稿用紙と筆記用具を片付けて、リビングへと向かう。

 部屋のドアを開けようと、ドアノブを掴んだ瞬間、立ち眩みがして思わずドアに手をついてしまう。

 ふらついた瞬間、学ランの上着のポケットから金属がこすれるような音がした。

 ポケットに手を入れて確かめてみると、家の鍵が入っていた。家に帰った時に、玄関に置くのを忘れていたらしい。

 鍵のほかにもう一つ、何か固い感触のものがポケットに入っていることに気付いた。

 何かと思い、ポケットから取り出して電気の下に照らす。

 ポケットに入っていた固い感触の正体は、鍵だった。


 ポケットの中に入っていた家の鍵とは別のどこかの鍵。その鍵を手でつまみ、見つめながら考える。

 この鍵はいったいどこの鍵なのか、どうして僕の学ランの上着のポケットに入っていたのか。

 よく見ると、鍵に黄色いタグが付いており、そこには丸い字で何かが書かれていた。随分古いのか、文字が掠れていてうまく読めない。

 いったん上着のポケットに入れ、制服から部屋着に着替えてリビングへと向かう。今は反省文を書いた直後で頭が疲弊してるんだ。鍵の事なんか気にしてられない。それに晩御飯も作らなくては。

 急いで階段を降りて、リビングの扉を開ける。

 一歩目を踏み出した時、足に何かが当たる感触がした。視線を下に向けると、コットンの毛布にくるまれた姉が、スースーと寝息を立てていた。

 いいサンドバックになりそうだったので、足を思いっきり振りかぶってみる。すると、なんと驚愕。毛布にくるまれた姉、もとい妖怪コットン星人(成人)は、何かを察したように、突然横に転がり始めた。そのまま勢いよく向かいの壁にぶつかってしまう。

 そのまま妖怪コットン星人は動かなくなってしまった。

「な、なんなんだ一体……」

 恐る恐る、壁にぶつかって動かなくなったままの姉に近づいてみる。半径五十センチくらいまで近づいたところで、声をかけてみる。

「おーい……妖怪コットン星人さーん……」

 すると、もぞもぞと目の前の奇妙な物体がうねり始めた。その動きの気持ち悪さに驚いて、思わず三歩後ずさってしまう。

「宇宙人なのか妖怪なのか、どっちなのよそれ……」

 そう言って、毛布の中から姉がひょっこりと顔を出した。まだ完全に瞼は開き切ってはいないようで、虚ろな表情をしている。

「取り敢えず人間ではなかったよ。そんなことより、何でこんなとこで寝てたんだよ。ちゃんと洗濯物取り込んだの?」

「あんたの分はそこに畳んで置いといたわよ……全部終わって体力を使い果たしたから寝てたの。もう私にかかわらないで。腕が持ち上がらなくて死にそうなの。こうやって話してるだけでも億劫」

 そう言って姉はまた毛布に包まってしまった。

 姉は体力を使い果たすと今みたいに無気力な人間になってしまう。まあ今は人間というよりかは妖怪のようだけど。もぞっと毛布が動いた。気味が悪い。

 今の状態の姉はてこでも動かないので、僕は姉のことを放置して夕飯を作ることにする。

 今日の晩御飯は何にしようか。冷蔵庫の中を確認すると、卵と鶏肉と玉ねぎとなんかいろいろ入ってたので、今日はオムライスを作ることにする。簡単な料理だ。

 いつもこの時間は母が家にいないので基本的には僕が晩御飯を作るのが暗黙の了解になっている。姉はいつもあんな感じなので、僕が料理を作るしかない。

 30分くらいでオムライスは完成した。

 半熟に溶けた卵が光に反射して輝いている。いい焼き加減だ。

 一つのさらにはラップをかけて、あとの二つはそのままリビングの机へと持っていく。

 僕は一人で机に座りもぐもぐとオムライスを食べ始める。

 オムライスを食べながら、今日見つけたどこかの鍵のことを思い出す。あれはいったいどこの鍵なのか、オムライスを作っている間に少し思い出したことがあった。あの鍵の形だ。僕はあの鍵の形をどこかで見たような気がしたのだ。でもどこで見たのかがどうしても思い出せない。思い出そうとしても、脳中に霧がかかったみたいにもやもやと覆われて何も思い出せなくなってしまう。

 学ランのポケットに入っていたんだから、もしかしたら学校のどこかの教室の鍵なのかもしれない。

 そう結論付けた僕は、もう鍵のことについてはこれ以上考えずに、ただ黙々とオムライスを頬張った。少しとろけた卵は、口の中で柔らかく砕けていき、そのまま食道へと吸い込まれていく。胃にまでその感触が伝わっていく。

「ん~美味しい!」

 いつの間にか姉も起きて、オムライスにがっついていた。

「あんた、オムライス専門店でも開いたほうがいいんじゃない? このオムライス結構いけるわよ」

「適当なこと言ってないで黙って食え」

「素直に喜べばいいのに」

 スプーンとお皿が擦れ合う音がリビングに微かに響いている。

 時計の秒針の進む音は段々主張を増していき、ずっと脳内で木霊している。

「そういえば、あんたちゃんと授業受けてるの?」

「なんだよいきなり」

「今日学校から電話かかってきててね。確か担任の……えっと、誰だったかな」

「西浦先生」

「そう、西浦先生がさっき電話をかけてきてね。あんた、体育の授業またサボったんだって?」

「姉ちゃんには関係ないだろ……」

「んーまあねー」

 そう言って姉はこれ以上話を掘り下げようとしなかった。これじゃあ、何のために学校の話をされたのか分からない。

 なんだか釈然としなかった。まあ、学校のことについて聞かれるのは僕もあまり快くは思えないので、何も聞かれないに越したことはないのだが……。

 そしてまた沈黙が訪れた。意味のない会話を唯々適当に作った笑い顔を浮かべて聞き流すクラスメイトの連中に嫌悪感を抱いている僕は、意味のない会話を嫌っている。だから僕は普段あまり口を開こうとしない。そのことは姉も分かっている。

「食器、食べ終わったらちゃんと洗っといてね」

「りょうかいりょうかい~」

「……ごちそうさまでした」

 晩御飯を食べ終えた僕は、自分の食器を台所へと持っていく。口の中に残ったオムライスの香りを、少し名残惜しく感じながらも、気持ちを切り替えて食器を洗う。洗い終えたら、まっすぐ自分の部屋へと戻た。


 部屋に戻った僕は、机の上に置いてある四百字詰め原稿用紙四枚分の自分が描いた反省文を見返した。内容はいたって真面目に書かれており、何処にも誤字脱字のない、まるでロボットが書いたかのような、どこかのお手本のような反省文だった。それ故に、これっぽっちも自分で書いた気がしない、上辺だけの文字、言葉の羅列でしかなかった。

「――小説か」

 文字ばかり眺めていたら、今朝菊田さんが言っていたことを思い出した。

 クラスの中では特別目立つ方でもないが、それでもいろんな人との友好関係を築いている菊田さんが、クラスで一人の友人もおらず、ずっと一人で過ごしている僕に話しかける理由なんて全く思いつかない。ましてや書いた小説を読んでほしいなんて……。小説を読める人なんて僕以外にも居るはずだし、親しい仲の人に読ませるならまだしも、今までまともに会話をしたことがない人に、自分が書いた小説を読ませるなんて、僕には到底できそうにない。

 考えれば考えるほど、僕でなければいけない理由が思いつかない。ただの気まぐれとしか思えない。

「まぁ、何でもいいか」

 とにかく今日やるべきことはすべてやった。特にやることがないので、小説を読むことにする。今朝学校で読んでいたミステリー小説の続きを読もう。

 そう思い立ち、鞄の中から小説を取り出す。姉のパソコンで買った、ドイツ製の壁紙で出来たブックカバーの、ざらついていながらも、しっとりとした感触を確かめながら。

 僕は夜十一時まで本を読んだ。外はすっかりと暗くなっており、電車の揺れる無機質な音が風に乗って窓の外から聞こえてくる。風が窓の隙間からびゅうびゅうと音を立てて部屋の中に入ってくる。しかし、いつまでたっても家のドアが開く音は聞こえなかった。毎日こうだ。いつもいつも、何時間待ったって親が家に帰ってくることはない。知っている。知っているし、それが当たり前なのだ。いまさら何も思うことはない。

 僕は今日も、心にさざ波立った思いを自覚もしないで抱え込みながら、布団へ潜った。






 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ