第三楽章 夜のアリア その8
荒野東域の中央をでんと占拠し鎮座する、
都市国家が軽く十数は入りそうな超弩級、
致死の毒沼「大湿原」。
人の子の軍勢が荒野に至ってより百年余、
最も平原から近い位置にある地勢ながら
外縁部すら前人未踏を保っていた。
大湿原とはその名の通り広域な湿地帯だ。
外縁部には灌木に朽木、或いは毒草や蘚苔
の繁茂する泥炭地、小規模な湖沼等、一見の
限りでは人や異形が踏み込めそうな場所もある。
だがそんな場所へも極一部の例外を除き
異形ですら立ち入る事は叶わなかった。
理由は内奥より漏れだす悪臭にあった。
曰く、
花は萎れ鼻はひん曲がって
二度と元には戻らない。
また
大湿原で生きていけるのは、
臭覚が無いか同じ臭いか、
或いはそれより臭いかだ。
と荒野に関わる者の間では専らの噂だ。
ただその一方で植物相は極めて豊潤。
有益な草木も数多く、研究者には
垂涎ものの楽園でもあった。
とまれそうした大湿原だが、緩衝域に
面した東端域はまだ「まとも」だった。
灌木は奇怪に捩れ露骨に侵入を阻んでは
いるが悪臭は生命活動を脅かす程ではない。
また大湿原外縁部を塒とする唯一の種と
見做されている「羽牙」も、この辺りでは
ほぼほぼ目撃されていない。
汚染が浅いから居ないのか、居ないから
汚染が浅いのか、或いはもっと単純に
食むべき獲物が居ないからなのか。
理由は判然とせぬものの羽牙が巣食う
のは、大湿原でももっと奥地の外縁部だ。
また羽牙は縄張り意識が強い事で知られる。
よって緩衝域内で遭遇する事は稀だといえた。
逆説すれば、稀な筈の遭遇が起こるなら
そこには魔の意向が働いていると見ていい。
さらに翻って、此度は魔の意向なのだから
遭遇する可能性は否定できないとも言える。
二重に捻ったら元に戻ったげなそういう
理屈に基づいて、デレクは随分慎重に、
徐々に迫る大湿原の外縁部を見渡した。
愛馬にして名馬フレックが大柄なお陰で
随分上背が稼げては居るものの、それでも
繁茂する戯画の如き灌木の向こうは見通せず。
試しに数矢、手挟んだ火矢を駆けながらに
纏めて射込んでみたものの、何の反応も
返って来なかった。
ならばとデレクは人馬が悪臭に耐え得る
ギリギリな大路幅程度にまで近寄って
馬蹄も高らかに南へと疾駆。再度の
挑発を試みた。
すると轟轟と暴風の如き音を鳴らして
灌木の奥より多数の黒い影が舞い上がった。
縦の長さが大人の胴程、奥行きは仔馬程な
猛獣の頭部に、蝙蝠に似た翼手を付けた
悪意に満ちた戯画の如き造形の異形。
羽牙だ。不意打ち狙いだったらしい。
最外縁部の灌木の裏手に潜んで哨戒の視線と
火矢をやり過ごした羽牙らは、まずは手前の
灌木を乗り越えるべく舞い上がった。
バサバサと翼手を鳴らして中空から
獲物を見定める十数体の羽牙の群れ。
だが彼らは飛来する火線に次々と
翼を裂かれ頭部を焼かれ、羽音を絶叫で
上書きしつつ元居た暗がりへと堕ちていく。
飛来し灯る火線の出所、
馬蹄轟く南方の馬上ではデレクが
鼻唄混じりの逃げ撃ちに励んでいた。
荒野に巣食う異形のうち、現状唯一の
航空戦力として知られている「羽牙」。
大湿原外縁部を縄張りとし、
戦術行動を得意とする。
城砦兵士を1と見立てた戦力指数では2。
数ある荒野の異形の種でも個としては最弱。
だが常に3体1組な小隊行動を採り、
指揮戦術にも優れるため実質的に8。
戦力指数は名称通り指数なため
羽牙一個小隊は城砦兵士64名相当だ。
荒野最弱といえど言うまでもなく
人より遥かに強大な異形であった。
もっとも歴戦を経た猛者であれば
付け入る隙、戦い様は十分にある。
それは今、正にデレクが証明していた。
羽牙の胴体な頭部は聊か重く、また
構造上翼手も高高度の飛翔には適さない。
精々外縁部の灌木の倍程度が限界高度だった。
よって羽牙は出現し数秒で高さの頂点に達し、
そこから改めて目標目掛け降下・殺到する。
得意戦法は上方背後からの奇襲・強襲だ。
お陰で羽牙に襲われた屍は大抵首がない。
無論、首しか食わぬ訳ではない。
残りは囮として晒してあるのだ。
つまり首無しの屍を発見した場合、
大抵近くには羽牙が潜んでいて、
新手の首を狙っているわけだ。
常に三体セットで行動する事や
一体でも欠ければ即撤退する事。
さらに上空を占める有利と潜伏能力。
こうした要素から個としての戦力は
荒野でも最弱だが並みの陸生眷属より
危険視されている、それがこの羽牙だ。
そしてそうした羽牙の特性を
デレクは重々心得ていた。
つまり羽牙は戦術重視かつ奇襲特化。
逆に奇襲には滅法弱い。何故なら
戦術が活かせず地力にも乏しいからだ。
特に舞い上がった直後は能力的、戦術的
事由で必ず一端静止する。手練れには
鴨撃ちにする好機なのだった。
「案外素直な連中だ」
悠然と、鼻唄混じりで振り返り、
文字通り矢継ぎ早に火矢を連射する
若手筆頭城砦騎士「器用人」デレク。
無造作に、狙いも定めず射るかに見えて
その実一矢たりとも外してはいない。
不整地を疾駆する名馬の背にあって
手綱も持たず泰然自若。これぞ
まさに名人芸と言えた。
凡そ芸事は「道」である以上、
十分な時と労力を費やしたなら
誰もが果てへと辿り着けるものだ。
だが果てに至るに十分な時と労力は
往々にして一生涯を以てしても足りぬ。
しかるにその道で名の語られる
いわゆる名人の域へ至るのは、
才ある者でもまず壮年。
場合によっては老境に差し掛かる。
だがその頃には身体が動かぬ。
とまれ一つの道を究めるには
人の一生は余りにも短い。何故なら
一時に稼げる経験値には随分限りが
あるからだ。
だが、常住坐臥生死の境を往く
荒野で戦う者たちは、人智を超えた
未曾有の恐怖や強敵に対峙し勝つ事で
一生涯を数十倍する莫大な経験を積める。
齢26にして古今東西のあらゆる武器を
名人の域で用いるデレクなどは、それを
物語る良い証左であった。
追撃したくなる絶妙な馬速を保たせて
鋭意逃げ撃ちに勤しむデレクであったが
そうこうするうち遭遇地点を随分離れ
緩衝域の南端近くにまで至った。
そこでデレクはどうやら追っ手もない
ようなので、馬首を巡らせ一休みした。
星月のお陰で十分明るい夜の荒野だが
流石にこれだけ距離が空いてしまうと
遠眼鏡でも残敵の把握は困難だ。
よってデレクは戦闘の成果を
箙の中身で確認する事とした。
名馬フレックの鞍の後方には
左右に一つずつ箙が吊ってある。
箙の中身は左右とも鏃の背後に粘度の高い
可燃物を具えた火矢だ。どちらの箙にも
20本ずつ収め、まずは右から使っていた。
戦闘前の威嚇には3矢用いた。
その後適宜逃げ撃ちを繰り返し消費。
残数は4。つまり13体射た事になる。
炎上墜落し戦闘不能となった羽牙は
その段階ではまだ息がある。が大抵の場合
回復の余地なく共食いされるため撃破と同義。
よって仕留めた数が13体だと
言い換えて何ら差支えないだろう。
蓋し百発百中かつ一撃必殺だから
こそ成立する皮算用の類ではあった。




