第三楽章 夜のアリア その5
荒野の謎に迫るシラクサの考察は
門外漢な騎士らや無垢な童女にさえ
禁断の知識への扉を開くに至らしめる、
正に「畏るべき」ものだった。
そう、「畏れて然るべき」ものだった。
当地に在りて世を統べる大いなる荒神の
何たるかを暴き立てんとするシラクサの
この所業には。
徹底的に、決定的に。
神への畏れが欠けていたのだ。
初めて荒野へと至ったシラクサには
これまで幾度も目にし意味を理解しても
いたはずのとある文言が、その実どこまでも
真実不虚であるとの「実感」が足りなかった。
単なる詩的表現程度としてしか
念頭に置けてはいなかったのだ。
「荒野に在りて世を統べる」とは
「魔」の遍在性を述べたもの。
つまり魔は荒野において
一切所一切時を統べている。
どこにでも居るし、どこにも居ない。
元来は高次の界隈に座す「概念」なのだ。
即ち
無眼界にして乃至無意識界であり
無無明にして亦無無明尽、而して
乃至無老死、亦無老死尽。
黒の月、宴の折に顕現し光臨せぬ限りは
現世の法則に縛られぬ無辺の存在なのだった。
それゆえに。
結論のみを語るならば。
(ッ!? ……)
傍らを往く戦闘車両より
不意に悲鳴めいた念話が漏れ、
「どうかされましたか?」
と気遣うルメール。
これに対し、シラクサ曰く
(今、何かに…… 漠然と、ですが)
感情を殺し極力慎重に。
(圧倒的に、余りに莫大な『何か』に)
ミツルギやウカ、やや先を往く
デレクさえもが振り返る中、告げた。
……見据えられて、いるような……
そういう事になった。
不意に、一行の誰もが
空に何某かの違和感を感じた。
慌てて見上げてもそこに変化はない。
ただ誰もが「何かが変わった」と。
漠然と、慄然とそう感じていた。
初めて荒野に至ったシラクサやウカに
この症状、この状況を言語化する術はない。
だが当地で無数の死線を潜ってきた騎士らは
これを知っていた。
「敵が来る」
とルメール。
「ちらほら頭出してるなー」
と遠眼鏡で針路前方、
北方河川を見やるデレク。
徐々に近づく北方河川の川面には
星月を映す銀の煌めきを塗り込める
ようにして暗く黒い影が過り出していた。
「西手をさらってくる。
針路は維持で」
そう言い残すや西手へと駆け出すデレク。
いつの間にか手元には弓支度を整えていた。
「この辺りの水深ならば
まず考えられるのは魚人でしょう。
数を恃みとした戦を好んでいます。
鑷頭は突撃が少々厄介ですな。
距離を保って迎撃しますか」
「鑷頭はこちらで対処する。
適当に躱してくれて構わないので
魚人の数を減らしてくれ」
「承知しました」
未だ行軍状況を保ったまま、
世間話でもするように対処を
纏めていくミツルギとルメール。
ミツルギは懐手のままするすると北へ。
北方河川の岸壁へと一足先に歩を進めた。
あまりに自然に、至極てきぱきと
事が運ぶため口を挟む暇なく、ただ
呆然と展開を見守る風だったシラクサ。
だがそこは城砦軍師だ。
歴戦の騎士らの戦を邪魔する事なく
自身にできる支援を探し、無言かつ
速やかに実行しだした。
「うちはどうしたらえぇんやろ?」
とやや声を震わせて問うウカ。
状況を思えば異様な程、いっそ
見事と言える程落ち着き払っていた。
「そのままそこで照明を
維持して貰えると助かる。
勿論車両の空スペースに
避難してくれても構わない」
とルメール。
「引き受けましたぇ。
明かりはうちに任しとき」
「うむ、頼もしいな」
ルメールはウカへ朗らかに笑んで
「姫様、停車を。図らずも
此処で初陣となりそうですな」
と手を上げ戦闘車両を停車させた。
(何も問題はありません。
むしろ私の軽挙が問題でした。
皆様にはご迷惑を御掛けいたします)
とやや申し訳なさそうに、シラクサ。
そう、蓋し、勘付かれたのだ。
魔そのものに。荒野の、魔の謎を
探っている事を。
西方の格言に曰く
汝が深淵を覗くなら、
深淵も汝を覗くだろう。
シラクサが荒野の夜の謎に迫り
魔の正体を僅かでも垣間見んとするなら、
魔もシラクサの存在や所業に勘付くのだ。
正解を得たかどうかは問題ではない。
不遜にも人の子が荒神たる魔の面前で
その玉体を暴かんとした事そのものが罪。
正に神をも畏れぬ所業であり、覿面たる
天罰に値する不埒だと、そういう事だろう。
もっとも。
智謀に生きる城砦軍師が
叡智を求めるのは当然の事。
単に職務を遂行しただけの事だ。
魔に対し悪びれる気は毛頭ない。
この点に関して魔の立場から観れば
間違いなく神をも畏れぬ不埒者だった。
やや申し訳ないのは一行を巻き込んで
しまった事だが、まぁそれも今更だ。
気に病んだところで始まるまい。
懸念すべきは唯一つ。
(あと、姫様と呼ぶの
やめて貰っていいですか)
これだけだ。
「断固拒否します。姫様」
(……)
実に良い笑顔で宣言され、
こうしてシラクサは初陣に臨んだ。
真実不虚:嘘偽りのない真実
無眼界:可視できるものなく
乃至無意識界:意識に智得されるものもなく
無無明:無智、無明なく
亦無無明尽:無智、無明の尽きることなく
乃至無老死:老死することなく
亦無老死尽:老死が尽きることなく




