第三楽章 夜のアリア その4
東西に長い楕円をした
人の子の暮らす「平原」も
魔が統べ眷属の巣食う「荒野」も
畢竟、大地の一部であり地上の概念だ。
なれば両者の境界は大地に、地上に在って
しかるべき。それが古来人の子が抱き育み
享受し踏襲する集合知、つまりは常識だ。
平原と荒野の境は空に在る。
との宣言はこの常識への不遜極まる叛逆であり
正に驚天動地の発想であって、培った常識が
深い歳経た者ほど到底受容できぬ、或いは
嘲弄し唾棄すべき戯言であった。
だが。
聞き手は平和な平原の学会で知を誇る
その筋の権威でも、常識を尊び非常識を
排他するその他諸々のお歴々でもなかった。
人智を超越した存在が統べる摩訶不思議の
大地たるこの荒野で幾百の死線を勝ち抜けた
正真正銘の勇者らと、既存の常識に凝り固まる
前の、少なくとも実年齢と容姿は左様な童女だ。
凡そ在りえぬ出来事が至極当然に起きる、
その事実は実にすんなり受け入れられ、
「ほー」
「成程」
「左様ですか」
とまぁ、極有り触れた
世間話として流された。
本質的に、彼ら3騎士には、荒野の謎なぞ
どうでもよいのだ。迫り狂う敵を打ち払い
平原の人の世を護る。それのみに特化し
如何なる余念にも揺れ惑う事がない。
紛う事なき絶対強者であった。
一方ウカは3騎士のような、それ一つで
自身の全てを上書きするような、強固な
信念は未だ持っていなかった。
水の民の末裔としての精神の老成は
専ら特定の知技に纏わるもの。いわゆる
常識はこれから培っていくべき時期にあり、
好奇心や探求心は今がピークとさえ言えた。
よって信頼に足ると観たシラクサに
「平原と荒野の真の境界は空に在る」
と言われれば3騎士同様聊かの
抵抗もなく受け入れられたし、
而して月の変色には
「上空の気圧が密接に関わっている」
のだと言われば、成程そういうものか
と納得もできた。
だが、未知の用語が含まれるなら
そこには反応せずに居られない。
よって
「お月さんの色が変わる理由。
『気圧』言ぅのは何ですのん?」
と問い返すのは、ごく
自然な成り行きだった。
(気圧、この場合は大気圧ですが、
簡潔に、一言で言うなら
『空の重さ』です。
平原と荒野を隔てる境界。
その正体は『気圧の谷』。要は
東西で空の重さが違うのです。そして
その境は今、私たちの遥か上空に在ります)
「ふぅむ……
『気圧』が何かは判りましたぇ、多分」
とウカ。
「せやったら何で『気圧』が違ぅと
お月さんの色が変わりますのん?」
そう、結局そこが判らない。
ウカの直球ど真ん中な疑問には
3騎士としても頷けるところはあった。
とまれ今は旅程の只中だ。長々と
此処にこうして留まってはおれぬ。
そこで遠からぬ北往路への侵入をも踏まえ
針路を真西から北西へ変更し行軍を再開、
後の話は道すがらで良かろうとした。
(気圧の違いは重さの違い。そして
重さの違いとは比重、粗密の違いです。
まず、大前提として。
平原と荒野の双方で見上げる空と
そこにある星月は、同じものです。
そして平原と荒野双方を含むこの
緩衝域には有意な高低差がありません。
よって星月と平原や荒野との距離は
等しいものと見做しても良いでしょう。
つまりやや乱暴に言うならば、
遥か上空の星月、特に
『月と平原、月と荒野の間には
まったく同じ大きさの隙間がある』
と言い換えても良いでしょう。
……ここまでは、良いですか?)
喋りだしたら止まらない。
特に自身の専門分野は昼夜徹しで延々と
ほっとけばぶっ倒れるまで語り続ける。
それが軍師という生き物だ。
念話もタダでは有るまいに、と
3騎士がやや心配になる程の活きの良さで
嬉々として。水を得た魚の如くピチピチと
闊達に語るシラクサであった。
「軍師言ぅのはそなぃな風に
考えはるんやねぇ。面白ぃわぁ。
あぁ、もちろんばっちり判ってますぇ」
(結構です。では次に。
月と平原、月と荒野の間な両者の
『隙間をどちらも川の水で満たしてみた』
と考えてみてください)
「何でそなぃな事を……」
(そこ、茶々を入れない。
思考実験上必要な仮定です。
粛々と、言われたままに想定を)
「はひすみません」
もはや授業だ。訓練課程の座学でも
思い出したか、何だか3騎士も神妙に。
(見上げる自身と月との狭間。
それまで何も無かった場所が
今は川の水で満たされた。
すると月は、どのように見えますか?)
「ぅーん……
まぁ、ちょっと見え難く?
言ぅたら川の底を覗き込むような?」
言われるままに想像し、
想ったままをウカは語った。
(良い比喩ですね)
とシラクサ。ここで言う「良い」は
「計算通り」とでも言う程の意味だ。
教師にありがちな発言であった。
(では次に。
片方の隙間について、満たされている
水を半分ほど抜いて、油に替えます。
すると月は、どのように見えますか?)
「油ぁ?
そらもぅ何ちゅぅの?
ギランギランでぎっとりと。
それに油や、
テカって色はコロコロ
……変わ、り、ますなぁ……
川底なんか、場合によっては
……なーんも見えへん事も……」
仮定に過ぎぬ想像は徐々に一つの
確固たる事実への確信へと帰納していく。
ウカの糸目は驚愕に見開かれ、3騎士らも
また、はっと一驚を禁じえなかった。
(荒野の空とは蓋し、概ね。
そういう状態なのだと思います)
とシラクサ。そして
「なぁ姫さん、もしかして」
とウカ。
「その『油』にあたるんが
『魔』やと、そういう事なん?」
幼きゆえの豪胆さで直感した。
(現段階では、そこまでは。
予断は真理を遠ざけるもの。
敢えてその線は措く事としましょう)
齢14とは思えぬ老獪さでシラクサは
当初成された問い以外への言及を避けた。
この先は他の多くの城砦軍師らがそうして
いるように、軍務の合間を縫って独自に
探求していくべきなのだろう。
天の謎へと専心するのは
地に蔓延る敵を平らげた後で。
これは人魔の大戦に臨む城砦騎士団員に
とり当然の義務であり、矜持でもあった。




