カモミールティーを飲んだ後
ドライフラワーの交響曲。
仔羊の信号に目を回す修道女。
ああ、私はこうして夢を壊していた!
脆そうな爪先の端を縫うようにして、この病的ともいえる感情の濁流で自らの空腹を満たしたあと、空になったコショウ瓶であの甲状軟骨を思い切り殴るのだ。それが止められない。
「あと3日待って!」そう可憐な少女は叫んで裂けた。いったい誰が止められたのだろうか?
これが扁桃体のせいだとしても、A-10神経よ、どうか私のままでいたい。痛い。そうなんだ。コミスジがクマゼミの死骸の体液を吸うように、それが赦される世の中であればきっとここは天国だったに違いない。
昔の偉い誰かが言っていたように、72人の処女に迎えられてどこかでうっかり死ぬような人生だとしたら?
私は今すぐプールに飛び込んで、120mlの塩素水で網膜を隅々まで染めた後、プールサイドで蟀谷こめかみに銃声を鳴らしていたに違いない。
「この糸が切れたら、これは私の足になるの」そう誘惑してきた少女もきっと、この呆気ない最後に拍手を送ってくれるはずだろう?
だがこれは只の我儘であることもわかっているさ。だからこうして最後の手紙を送るよ。
――親愛なる私より
これが彼の最後の手紙だった。
彼が私に求めていたのはきっと、こうした愛情表現の果ての結果だけであって、私の容姿、人格、その他諸々はまるで眼中に無かったことは明白であった。
この彼の置き土産は日々、私の精神を蝕んでいった。
「お気に入りのカモミールティーがあるんだ。飲むかい?」
交際して8日目の昼下がり、彼は私にそう聞いた。
彼は正義感が強く、それでいて他人のことを第一に思いやる人間だった。私は彼のそんなところに惹かれたのだけれど、今思えばこの時に気づくべきだったのだ。
「ちょうど今コーヒーを飲み終えたところなの。また今度お願いするわ」
そう告げた私は、ところどころ錆びたあの白いガレージの中へ消えていく彼を止めることが出来なかった。彼の犯行の特徴的な点は、その標的と作品への尋常ではない拘りである。標的というのは、前日に二食分のカモミールティーと新鮮なレタスサラダ、燻製にした鳥の胸肉を食べさせた14〜19歳の若く貧しい女性だということ。作品への拘りというのは、被害者は必ず溺死させ、彼女達が動かなくなったあと、左手の親指を右耳の三角窩さんかくきんへ、今度は右手の薬指を左大殿筋辺りに突き刺すようにしてテープで固定し、杉で出来た椅子に逆さまで座らせた後、決まって金曜日の朝、あちこちの公園の噴水近くで展示、いや、発見させるというものだ。この余りにも残虐な劇場型犯罪が彼を有名にし、「逆さ杉」と呼ばれるようになった彼は、3年もの間、社会で恐れられていた。
しかし彼はその尋常ではない拘りが仇となり、計17人の被害者を出した後遂に逮捕、死刑宣告を受けたのだった。彼は刑を受ける直前、
「脚をもがれた蝶にも、蜜を吸わせてあげてほしい」
そう言い残し、この世から去った。
私はこの言葉の真意を未だ汲み取れずにいた。真意などないのかもしれないが、彼が選んだ最後の言葉だ、きっとなにか意味があるに違いないと決め込んでいた。
しかし私には考える気力も時間も、もう残っていなかった。連日鳴り響くベルの音、半径20m以内に蔓延る無数の黒い視線に、私は耐えきれなくなっていた。
「今の心境はどうですか?」
「彼の普段の様子はどうでしたか?」
べったりと私の鼓膜にこびりついた台詞せりふが、
「何故、あなたは気づけなかったのですか?」
そう問われているようにしか思えなくなっていた。
すっかり衰弱しきってしまった私は彼が刑を受けた丁度1ヶ月後の早朝、右手の親指を左耳の三角窩へ、左手の薬指を右大殿筋へ添えながら、穏やかな海の底へとその身を投げた。
私は彼の最後の手紙に、こう返事をした。
生花の独奏曲。
雄牛の標本に頭を閃かせる犯罪者。
ええ、あなたはそうして多くの小さな悪に夢を抱かせてしまったの。
堅牢な心臓の壁を壊すようにして、この歪な理性の聖火で自らの飢餓を促進させたあと、泥水に満たされた銀バケツで、膝蓋しつがいを粉微塵にするまで殴りなさい。それくらいのことをあなたはしたわ。
「もう1ヶ月も耐えた」私はあることを告白して溶けるつもり。そうなる前にあなたは止めるべきだったのよ。
あれは扁桃体のせいでもなくて、ましてやA-10神経のせいでもない。誰だっていつかは変わってしまうの。老いた女王蜂が巣から追い出されるように、ここは新しい何かが生まれる度に古いものは淘汰されるようにできている、地獄なのよ。
今の世の中、貧しい人の声は届くことは無くて、そんな人は大勢の大人に煙たがられるの。そんな人生なら私は海の上で寝そべって、全身が微生物に分解されたあと、茶色くなった頭蓋骨だけがひっそり海岸に漂着するくらいの人生が丁度良いと思うの。
「このレンズをつけていても、僕は恋のせいで盲目なままなんだ」そう赤くなりながら話していたシャイボーイも、きっとあなたを嘲笑うでしょうね。でもね、私はそんなあなたでさえも愛してしまっていた!あなたの代わりに今度は私があなたの真意を伝えるわ。″脚をもがれた蝶は、蜜を吸えずに飢えて死ぬ。純粋なまま、世を逆さに見れば全てが変わる″。つまりはそういうことだったのね。
――大嫌いな世の中へ