食えるのか
まるで、背中を無数の小さな硬い虫が這いずっているかのようだった。
一方向に揃った虫の動きは腰から始まって背を通り、首を跨いで後頭部で終わっている。
その虫達はあまりにも硬いので、背中がやすりで削られているかのように、痛い。
人魚の有留備は、そんな感覚に苛まれて目覚めた。ぼやけた視界には、樹冠の隙間から陽の光を通す木々が、ゆっくりと頭の上に流れていく景色が見えた。
自分の体が移動しているということに気がつくまで、少しの時間が必要だった。
何かに引きずられている……?
眠さに眩んだ思考を必死に駆け巡らせ、眠る前の状況を思い出す。
うむ、たしか……。伊久里が浜の岩礁に上がって日光浴をしていたところ、春の陽射しのあまりの心地よさに、ついつい寝入ってしまったのだ。
そしていま、この浮遊感のないベットリとした重さは、紛れもなく地上世界のものだ。すなわち、今、私は地面を何者かに引きずられている……!
そんな自らの危機的状況を理解して、有留備の思考が一瞬鮮やかな朱色に染まり、同時に思考を覆っていた眠気が、跡形もなく吹き飛んだ。
「誰じゃ、私を引きずるのは誰じゃ!」
有留備は己の尾に向かってこわごわと声を発した。
「頼むからやめておくれ。私は水がなくては生きてゆけぬ。地上ではこうして声を発するのも辛い。それにこう乱暴に地面を引きずられては、背中が無くなってしまう」
有留備は必死で、尾を掴んでいる者に哀れっぽい声を投げかける。人魚が地上に上がっては、まともに身動きをとることすら出来ない。
「なあ、痛いよ、痛い。童なら、私の持っている中でいっとうきれいな鱗をやるから、どうかそれで許しておくれ」
すると童扱いに動じたのか、尾の方からようやく返答があった。
「だぁまれえ。あんなところで姿を晒し、眠り込んでいる方が悪い。……人魚とはなかなかお目にかかれぬ獲物、ひとつ、捕らえてもみたくなる」
有留備を掴んでいる手の先の方から、低く不機嫌そうな声が聞こえてくる。しかし、有留備のような人魚の目は水中でこそよく見えるものの、地上にきては霞のように視界がぼやけてしまう。
よってその者の姿を正確に目に結ぶには、有留備の手が届く程の距離にまで寄って見なければ叶わない。
ただ、声音から童でないことは確かであった。
「私を捕らえたとてなんになろうか。この通りただの人魚じゃ。面白くもなければ、芸ももっておらん。それよりも海の中に行こう。私の村には面白いことをする芸人もいるし、家に招いて妻の料理を振る舞おう。お願いだから、離しておくれ」
「ほうほう。しかしな、わしは水の中は嫌いじゃ。ぬめりとした藻を踏んで、転んだことがあってから」
「私が引っ張っていってやるから、そんな心配要らないよ」
「水の中では、息も長くは続かぬ」
「私とて、地上で息をするのは辛い。人魚は地上では一日と生きてゆけぬ。事情は同じじゃ、情けをかけておくれ」
すると急に有留備の尾から、手の平の感触が消えた。有留備は必死で身を捩り、無数のすりむけ傷を拵えた背に、恐る恐る手をやった。血が出ている。
ぼやりとした視界を尾の方に向けると、黒い、人形の影が見えた。有留備はその影に向かって、敬々しく頭を垂れ、深くお辞儀をした。
「ありがとう。逃してくれた御恩は、忘れはしないよ」
「なにを言っているのか。到着しただけよぉ」
「なぬ?」
有留備は辺りを見回した。有留備の目にはよく見えないが、開けた砂地に粗末な小屋が建ち、白く丸い岩が無造作に転がっている。そして有留備のすぐ後ろには、煮炊きの用意がしてあった。
「ここはわしの家じゃあ。さぁ人魚、水底の話を聞かせよ。それ次第では、海に戻してやってもよいぞ」
「そうかそうか。話すとも、話すとも。それよりお前の顔が見たい。私の目は魚の目じゃ。この地上ではよう見えん。すまぬが少し、近くによってくれんかの」
「こうか」
声の主の顔が、有留備と額を突き合わせんばかりに近づいてきた。それでようやく有留備にも、その声の主の正体が知れる。
「…………ひい!!! そなた、その額……鬼か!」
「そうじゃ! 泣く子も黙る勾鬼・道神丸さまとは、わしのことよぉぉ」
道神丸は立ち上がってそう威勢よく名乗りを上げると、震え上がる有留備を上から見下ろした。
「そちに聞きたいことがる。人魚というのは……」
道神丸はしゃがみ、怯える有留備に再び額を突き合わせる。有留備は道神丸の恐ろしい顔を見て、顔を引きつらせた。
「食えるのか?」
「ひいい」
有留備は思わず、悲鳴を上げて後ずさった。しかしわずかも下がらぬ内に道神丸が尾を掴み、せっかくの獲物を逃すまいと左手で尾を釣り上げた。有留備は体勢を崩したが、なんとか砂地に両肘をついて、体を支える。
「まて! 我が問いに、答えぬままでは逃さぬぞ。人魚の肉は食えるのかと聞いておる。味は魚か? それとも人に近いのか? それとも、その中間か? そちも人魚なら、自分の味くらい知っておろう」
「し……知らぬ知らぬ! かような恐ろしいこと」
有留備が頭を左右に振って、懸命に否定する。
「ばかな。自らの味すら、美味いかまずいかすら知らんのか? おおかた食べられるのが惜しくて、嘘をついているのじゃろう。どうじゃ?」
有留備の歯がカタカタと音を立てる。目が地上に慣れてきたのか、少し周りが見えるようになっていた……。
すると砂地の煮炊きのあとに、幾つものされこうべが転がり、髄をすすられた骨のカスが、砂に混じって散らかっていることがわかった。白い石だとばかり思っていたものは、されこうべだったのだ。
「地獄じゃ」
「地獄とな?」
道神丸が不思議そうに問う。
「されこうべが並べてあるのは地獄の光景じゃ」
「わしの食いかすがか。そちは分からぬことを言うのう。食うて食われての命ではないか」
道神丸は有留備の尾から手を離し、丸めてあったむしろを広げて、その上に腰を下ろす。
「食べなくてはわしが死ぬしのう。食べられたものはわしになって生きておる。生きる体が、移っていくだけじゃ。食べられるというのは、不幸ではないのじゃ。むしろ誰にも食べられず死んでいくのが不幸じゃ。仲間はずれにされてるようなもんじゃからのう」
「しかししかし、私は死が恐ろしい。食べられれば死ぬであろ?」
有留備は震える声で疑問を発した。それを聞いた道神丸が、軽い笑い声を立てる。
「うむうむ、死の恐ろしいのはわしも同じじゃ」
「分かるのなら、私を故郷に帰しておくれ」
有留備は懇願したが道神丸は聞き入れず、ふん、と何事か考え込んだ。
「わしにはのォ、死よりも恐ろしいものがあるのじゃ。だからそちに、人魚の味を聞いておる」
「話がわからぬ。わかるように話しておくれ」
有留備が必死に頼み込むと、道神丸は少し考え、それからいかにも嬉しそうに口の端を持ち上げてにこおっ、と笑った。
「まてまて、どうじゃ、ひとつ問答をしようではないか。そちが答えられれば、わしはそちを海に返すと約束してやろう。しかし、分からなければ、そちには今しばらく地上にいてもらう。こういう問答じゃ。受けるか?」
有留備はしばし、考えた。この問答を受けねば、どちらにせよこのままこの男の前に置かれることになる。しかし問答を当てれば、すぐさま故郷に帰ることが出来る。もし外れても、すぐ食べられることはない。
つまり、問答は受けるべきだ。有留備はそう考えて、「やらせてもらおう」と答えた。
「良し。取引できぬほど馬鹿では無いようじゃ。……では答えてもらおう」
道神丸はまた軽い笑い声を立てて、問答を勿体つけた。有留備の額が、緊張感で赤くなる。
「では、問おう! ……わしが死よりも恐れているものとは、一体何じゃ? …………さ、当ててみよ」
「なんと!? ……そなたが死よりも恐れているもの……?」
有留備は懸命に考え込む。
死より恐ろしいものとは! 死よりも恐れるものなど、この世に存在するだろうか? 有留備は自分の事を振り返り、死よりも恐ろしいものを考えようとした――――――だが、わからぬ!!!
「死よりも怖いもの、怖いもの……」
唸れど唸れど、答えは思い浮かばない。
その間にも、ちゃくちゃくと時は過ぎていく。
このまま沈黙を通して、それで良しとする鬼ではなかろう。有留備は時間稼ぎの一計を講じた。
「すまぬ、すまぬが、水をもらえまいか。乾いて乾いて、干からびる」
有留備はなるべく哀れに見えるように、頭を垂れて平に頼み込んだ。
「おお、そうか。真水でいいのか?」
道神丸は嫌な顔をするでもなく、むしろ気が付かなくてすまないとでも言いたげに、有留備の要求を呑んでくれる。
「できれば海の水がいい。真水は、体に悪いゆえ」
「かっかっか、人魚だのう。時間稼ぎの手段でもあるだろうが、たしかにそちは、先程から辛そうだ。どれ、海に行って汲んでくるから、待っているが良い。ただし逃げようとしたら……そうだな。これから見かけた人魚を手当たり次第に殺すことにする。それを、心しておけよ」
道神丸はそう言って、手桶を持って海の方へ歩いていった。
有留備は稼いだ時間を最大限活かそうと、考えに考え込んだ。
む、む、む……。
む。む。む……。
先程、道神丸の言うことに、有留備は少し引っかかりを感じた。僅かな光明が目に写ったような……、答えの切れ端が潜んでいたような……死よりもおそろしいもの……。死よりも恐ろしいもの…………。
ふむ、なるほど。
「そ、そうか……分かった、分かった……。死よりも恐ろしいものがなにか」
有留備は天を仰いだ。
――――――
道神丸が海から水を汲んで帰ってくると、有留備は尾をとぐろに巻いて、むしろの上に悠然と座っていた。
すんと澄んだ雰囲気を持つ有留備の長くさらさらとした銀髪が、涼しげに風に泳いでいる。怯えの取れたその姿からは、気品すら漂っていた。道神丸は、思わず息を飲んだ。
「約束の水じゃ。浅瀬から汲んできた」
動揺を隠すようにそう言うと、道神丸は思わず、有留備の品のある美しさから目を背けた。海水の入った桶を手渡すと、有留備は桶の水を全身に被り、ふう、と息をつく。その後、「ありがとう、道神丸」と、趣ある声で礼を述べた。
道神丸は自らの姿を省み、思わず恥じ入る。
ささくれた肌、がさつな声色、茨のように絡みついた、くせのある頭髪。有留備のような美しさを持たぬ、自分自身の醜さを省みて。
「扠、十分考えただろう。問答への答えは出たろうな」
「ああ」
有留備の声音は、先程までとは明らかに違う。しわひとつない肌に雫がきらめき、春の日を浴びて有留備の体が輝いていた。
「出た」
「では、答えを聞こう。……わしが死よりも恐ろしいと思っているものは何じゃ?」
「……私も最初はそれがなんだか分からなんだ。……しかし、そなたが水を汲んでくる時、私を脅した文句の中に、その答えの端切れがあったのじゃ」
「……ほほう」
有留備は澄んだ声で続ける。濡れた銀髪から、輝く水滴が垂れる。
「そなたはこう言った。『私が逃げたら、これから見かけた人魚を手当たり次第に殺す』と。私はこれが答えだと思う。私は自分の死よりも、家族や大切なものの死が辛い。私のせいで他の人魚が殺されるのが辛い。……そして、そなたもそう思っているに違いないのだ。だからこそ、あの様な脅し文句を私に対して使ったのだ。つまり、そなたが自分の死よりも恐ろしく思うのは、そなたの大切な人が死ぬことであろう?」
有留備が語り終えると、道神丸は黙り込んでしまった…………。そのまま、しばしの時が経つ。
「のう、道神丸。黙っているところを見ると、当たっているようじゃのう。約束通り、私を海に返しておくれ。海が私の故郷なのだ。仲間も、家族もいる」
春風がそよぎ、樹々の葉を揺らし、森がざわざわと騒ぐ。「違う」。道神丸の発した声は、有留備の耳に届かなかった。
「のう、道神丸。私は、家族のために海藻を取りに行く途中だったのじゃ。早く帰らないと家族が心配する」
「違う違う、違うと言っている!!! 問答はわしの勝ちじゃ」
道神丸が悲痛な叫び声を上げ、有留備の顔を鬼神の如き形相で睨みつけた。眉は釣り上がり、眉間に幾条もの畝が走り、尖った歯列がむき出しになる。
「なんと……!! 私の答えが間違っていたというのかえ。いや、そんなはずはない。そなたは負けるのが悔しくて、強がりを言っておる」
有留備が苦言を呈すると、激昂した道神丸がおもむろに立ち上がり、痛烈に叫んだ。
「違ああぁぁぁう!! わしが死よりも畏れているものは、自分の死よりも畏れているのは……、他人の死などという、ひょろっちいものではない!!」
道神丸の上げた恐ろしい大音声に、辺りの森から動物たちの姿が失せ、小鳥が群れをなして飛び立った。有留備の眉が再び困惑の形に寄せられたが、海の水色の瞳は、道神丸を真っ直ぐに見つめていた。
「わしが恐ろしいのは、『不死』じゃ。自分が『不死』になることじゃ。他人の死などというものではない! 他人が死んだとて、構うものか。……そちは思い違いをしていたようじゃのう」
「なんと……」
有留備が驚いた顔になると、道神丸は勝ち誇ったかのように有留備を見下ろして続けた。
「きちんとわしの話を聞かぬからじゃ!! わしは人魚の肉の味が気になる、だが恐ろしくて食べられないと言ったではないか。わしは人魚の肉の味が気になる、だが、人魚の肉を食らうと不死になってしまうと聞いたので、それが怖くて食べられないのじゃ。だからそちに、人魚の肉の味を聞いたのじゃ!! どうじゃ、自らの過ちがわかったか!! うつけめ!!」
有留備の驚いた顔が、道神丸をなおも見つめる。道神丸は息を荒げて、懸命に有留備をにらみ続けた。
「……なぜ泣いているのじゃ?」
有留備にそう問われ、道神丸は目を丸くした。恐る恐る、眼尻に指を走らせる。
「……なみだ」
思わず、指についた液体の名を呼ぶ。道神丸は、恥ずかしさで咄嗟に顔を覆った。
「なぜ、なぜ泣いておるのだ!! なぜわしが泣かなくてはならないのだ!!」
「そなたは、……かわいそうな鬼だな。……」
有留備は尾に力を入れて立ち上がると、道神丸の手を取った。
「そなたには、家族や、友人がいないのか。自分よりも死んでほしくない者が、自らの不死身よりも恐ろしい死の形が……」
「うるさい……うつけめ……もういいから、海に帰ってしまえ」
道神丸は泣き顔を見られまいと、懸命に顔を多い、眼球を力いっぱい圧した。しかし目から溢れ出る涙はとどまることがなく、ただただ、道神丸の着物の袖と袂を濡らしていく。
「道神丸。こういうのはどうか? 私がそなたの友人になろう。私の家族には、私以外にも家族がいる。しかしそなたには誰もいないのだろう? ……私はそなたが嫌いではない。お主は約束を守り、水を汲んできてくれた」
有留備が優しい声を掛ける。しかし、道神丸は泣きながら首を振った。
「わしは、わしは一人じゃ。鬼は親の腹を割いて生まれるのじゃ。鬼は生まれてすぐ、親のはらわたを食べて成長するのじゃ。鬼は肉を食うのじゃ。犬も、猿も、鳥も、人間も……生きているものは、一緒にいると食ろうてしまうのじゃ……わしは一人でいいのじゃ、どちらにせよ、すぐに一人になってしまうのじゃ……」
「いや、大丈夫、大丈夫だ。私はそなたと一緒にいてやりたいのじゃ」
「嘘じゃ、嘘じゃ。そんなことは出来はしない。さっき自分で言ったことを思い出せ、うつけ者め。……知っているぞ、人魚は地上では一日しか生きておれないのじゃ。鬼は百年生きるぞ、そなたはたとえ海に戻ったとて、わしの半分も生きていけないではないか」
「大丈夫、大丈夫だ……。方法はある。全て上手くいく方法が……。さあ、道神丸。問答じゃ!! 私がお前と友人になって、ずっと一緒にいられる方法とは一体何じゃ!? わかるか……? 答えてみよ」
「なに……? そんな方法があるのか……!! ちょっとまて、考える、考えるぞ……! ちょっと待てよ……!! そうだ、喉が渇いた、水を汲んでこい! この桶にいっぱいじゃ。まってろ、そのうちに、そのうちに、考えるから…………!!」
「ははは、時間稼ぎはよせ! とんだ浅知恵もあったものよ!」
「そちに言われたくはない! 馬鹿にしおって……」
道神丸がむくれ、その後、笑顔になる。有留備も笑い、二人の間に心地よい空気が産まれた。
そして――――
――――
――――百年後の、春。
「覚えているぞ、なつかしや、なつかしや……。結局あの時は、わからなかったのう。道神丸」
有留備の膝に頭を預け、年老いた道神丸が横たわっている。肌は乾いて固くなり、ところどころひび割れている。艶のない髪の毛、は完膚なきまでに白い。
「ああ……。なつかしいな有留備……」
声を出すのもやっとの道神丸が、白く曇った眼から、一筋の涙を流した。
「道神丸は良く泣くのう」
一方の有留備は、百年前と変わらぬ美しさで、そこに在った。
白く長いまつげに、深き山中に流れる清流のような銀髪。白くハリのある若々しい肌。澄んだ海色の目、気品のある声音。全てが時を忘れたかのように、あの春の日のままであった。
百年前と違うのは、尾が二本の美しい脚になっていることと、左腕がなくなっていることだ。
「有留備……。そなたは相変わらず美しい……」
「ふふふ。なんたって、不死身じゃからな……。人魚の肉とは、恐ろしいものじゃ。体を作り変える力すら持っているとは。私自身もしらなんだ……お陰で海の暮らしには戻れなくなってしまったがのう」
百年前のあの春の日。
有留備の問答に、道神丸は遂に答えることができなかった。
しかし、果たして誰が考えつくだろうか? 有留備が自らの左腕を食べて永遠の命を得、道神丸の友人になろうとしていたとは……。
「有留備……すまない……先に、行く。そなたには、辛い思いをさせる……。人魚たちが滅んだときも……故郷に戻れなくなった時も、わしは手助け一つできなかった……」
「かまわんかまわん。私は生来のんびり屋だ。辛くもない」
軽い調子で有留備が笑う。この百年、道神丸は幾度もこの笑顔に救われてきた。しかし、最後の瞬間になっても、この笑顔に報いることが出来ない。そのことが、なんとも言えず悲しかった。
「済まない……わしは死ぬ……。しかし、あの世でいつまでも待つつもりだ。だから……いつか必ず来てくれ」
「はっはっは、それはわからんのう。何しろ不死身じゃ。不死身が死んだ試しはない。…………道神丸、最後に、教えてやろうか? 百年前にお前が知りたがっていたことを……人魚の肉の味がいかなるものか」
「ふ……では冥土の土産に…………」
うららかな陽光が射し、爽やかな春風が吹き抜ける中、有留備と道神丸の唇が、ゆっくりと重ねられていった。