表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

食えるのか

作者: 愛餓え男

 まるで、背中を無数の小さな硬い虫が這いずっているかのようだった。


 一方向に揃った虫の動きは腰から始まって背を通り、首を跨いで後頭部で終わっている。

 その虫達はあまりにも硬いので、背中がやすりで削られているかのように、痛い。




 人魚の有留備あるびは、そんな感覚に苛まれて目覚めた。ぼやけた視界には、樹冠の隙間から陽の光を通す木々が、ゆっくりと頭の上に流れていく景色が見えた。

 自分の体が移動しているということに気がつくまで、少しの時間が必要だった。



 何かに引きずられている……?



 眠さに眩んだ思考を必死に駆け巡らせ、眠る前の状況を思い出す。

 うむ、たしか……。伊久里いくりが浜の岩礁に上がって日光浴をしていたところ、春の陽射しのあまりの心地よさに、ついつい寝入ってしまったのだ。

 そしていま、この浮遊感のないベットリとした重さは、紛れもなく地上世界のものだ。すなわち、今、私は地面を何者かに引きずられている……!


 そんな自らの危機的状況を理解して、有留備あるびの思考が一瞬鮮やかな朱色に染まり、同時に思考を覆っていた眠気が、跡形もなく吹き飛んだ。



「誰じゃ、私を引きずるのは誰じゃ!」


 有留備あるびは己の尾に向かってこわごわと声を発した。


「頼むからやめておくれ。私は水がなくては生きてゆけぬ。地上ではこうして声を発するのも辛い。それにこう乱暴に地面を引きずられては、背中が無くなってしまう」


 有留備あるびは必死で、尾を掴んでいる者に哀れっぽい声を投げかける。人魚が地上に上がっては、まともに身動きをとることすら出来ない。


「なあ、痛いよ、痛い。わらべなら、私の持っている中でいっとうきれいな鱗をやるから、どうかそれで許しておくれ」



 するとわらべ扱いに動じたのか、尾の方からようやく返答があった。



「だぁまれえ。あんなところで姿を晒し、眠り込んでいる方が悪い。……人魚とはなかなかお目にかかれぬ獲物、ひとつ、捕らえてもみたくなる」


 有留備あるびを掴んでいる手の先の方から、低く不機嫌そうな声が聞こえてくる。しかし、有留備あるびのような人魚の目は水中でこそよく見えるものの、地上にきては霞のように視界がぼやけてしまう。

 よってその者の姿を正確に目に結ぶには、有留備あるびの手が届く程の距離にまで寄って見なければ叶わない。

 ただ、声音からわらべでないことは確かであった。



「私を捕らえたとてなんになろうか。この通りただの人魚じゃ。面白くもなければ、芸ももっておらん。それよりも海の中に行こう。私の村には面白いことをする芸人もいるし、家に招いて妻の料理を振る舞おう。お願いだから、離しておくれ」


「ほうほう。しかしな、わしは水の中は嫌いじゃ。ぬめりとした藻を踏んで、転んだことがあってから」

「私が引っ張っていってやるから、そんな心配要らないよ」

「水の中では、息も長くは続かぬ」

「私とて、地上で息をするのは辛い。人魚は地上では一日と生きてゆけぬ。事情は同じじゃ、情けをかけておくれ」 


 すると急に有留備あるびの尾から、手の平の感触が消えた。有留備あるびは必死で身をよじり、無数のすりむけ傷を拵えたせなに、恐る恐る手をやった。血が出ている。

 ぼやりとした視界を尾の方に向けると、黒い、人形の影が見えた。有留備あるびはその影に向かって、敬々しく頭を垂れ、深くお辞儀をした。


「ありがとう。逃してくれた御恩は、忘れはしないよ」

「なにを言っているのか。到着しただけよぉ」

「なぬ?」


 有留備あるびは辺りを見回した。有留備あるびの目にはよく見えないが、開けた砂地に粗末な小屋が建ち、白く丸い岩が無造作に転がっている。そして有留備あるびのすぐ後ろには、煮炊きの用意がしてあった。


「ここはわしの家じゃあ。さぁ人魚、水底みなそこの話を聞かせよ。それ次第では、海に戻してやってもよいぞ」

「そうかそうか。話すとも、話すとも。それよりお前の顔が見たい。私の目は魚の目じゃ。この地上ではよう見えん。すまぬが少し、近くによってくれんかの」


「こうか」


 声の主の顔が、有留備あるびと額を突き合わせんばかりに近づいてきた。それでようやく有留備あるびにも、その声の主の正体が知れる。



「…………ひい!!! そなた、その額……鬼か!」


「そうじゃ! 泣く子も黙る勾鬼まがおに道神丸どうじんまるさまとは、わしのことよぉぉ」


 道神丸どうじんまるは立ち上がってそう威勢よく名乗りを上げると、震え上がる有留備あるびを上から見下ろした。


「そちに聞きたいことがる。人魚というのは……」


 道神丸どうじんまるはしゃがみ、怯える有留備あるびに再び額を突き合わせる。有留備あるび道神丸どうじんまるの恐ろしい顔を見て、顔を引きつらせた。





「食えるのか?」





「ひいい」


 有留備あるびは思わず、悲鳴を上げて後ずさった。しかしわずかも下がらぬ内に道神丸どうじんまるが尾を掴み、せっかくの獲物を逃すまいと左手で尾を釣り上げた。有留備あるびは体勢を崩したが、なんとか砂地に両肘をついて、体を支える。



挿絵(By みてみん)




「まて! 我が問いに、答えぬままでは逃さぬぞ。人魚の肉は食えるのかと聞いておる。味はうおか? それとも人に近いのか? それとも、その中間か? そちも人魚なら、自分の味くらい知っておろう」

「し……知らぬ知らぬ! かような恐ろしいこと」


 有留備あるびが頭を左右に振って、懸命に否定する。


「ばかな。自らの味すら、美味いかまずいかすら知らんのか? おおかた食べられるのが惜しくて、嘘をついているのじゃろう。どうじゃ?」


 有留備あるびの歯がカタカタと音を立てる。目が地上に慣れてきたのか、少し周りが見えるようになっていた……。

 すると砂地の煮炊きのあとに、幾つものされこうべが転がり、髄をすすられた骨のカスが、砂に混じって散らかっていることがわかった。白い石だとばかり思っていたものは、されこうべだったのだ。


「地獄じゃ」

「地獄とな?」

 道神丸どうじんまるが不思議そうに問う。


「されこうべが並べてあるのは地獄の光景じゃ」

「わしの食いかすがか。そちは分からぬことを言うのう。食うて食われての命ではないか」


 道神丸どうじんまる有留備あるびの尾から手を離し、丸めてあったむしろ・・・を広げて、その上に腰を下ろす。


「食べなくてはわしが死ぬしのう。食べられたものはわしになって生きておる。生きる体が、移っていくだけじゃ。食べられるというのは、不幸ではないのじゃ。むしろ誰にも食べられず死んでいくのが不幸じゃ。仲間はずれにされてるようなもんじゃからのう」


「しかししかし、私は死が恐ろしい。食べられれば死ぬであろ?」

 有留備あるびは震える声で疑問を発した。それを聞いた道神丸どうじんまるが、軽い笑い声を立てる。

「うむうむ、死の恐ろしいのはわしも同じじゃ」

「分かるのなら、私を故郷に帰しておくれ」

 有留備あるびは懇願したが道神丸どうじんまるは聞き入れず、ふん、と何事か考え込んだ。



「わしにはのォ、死よりも恐ろしいものがあるのじゃ。だからそちに、人魚の味を聞いておる」


「話がわからぬ。わかるように話しておくれ」


 有留備あるびが必死に頼み込むと、道神丸どうじんまるは少し考え、それからいかにも嬉しそうに口の端を持ち上げてにこおっ、と笑った。


「まてまて、どうじゃ、ひとつ問答をしようではないか。そちが答えられれば、わしはそちを海に返すと約束してやろう。しかし、分からなければ、そちには今しばらく地上にいてもらう。こういう問答じゃ。受けるか?」


 有留備あるびはしばし、考えた。この問答を受けねば、どちらにせよこのままこの男の前に置かれることになる。しかし問答を当てれば、すぐさま故郷に帰ることが出来る。もし外れても、すぐ食べられることはない。

 つまり、問答は受けるべきだ。有留備あるびはそう考えて、「やらせてもらおう」と答えた。


「良し。取引できぬほど馬鹿では無いようじゃ。……では答えてもらおう」


 道神丸どうじんまるはまた軽い笑い声を立てて、問答を勿体つけた。有留備あるびの額が、緊張感で赤くなる。




「では、問おう! ……わしが死よりも恐れているものとは、一体何じゃ? …………さ、当ててみよ」



「なんと!? ……そなたが死よりも恐れているもの……?」


 有留備あるびは懸命に考え込む。


 死より恐ろしいものとは! 死よりも恐れるものなど、この世に存在するだろうか? 有留備あるびは自分の事を振り返り、死よりも恐ろしいものを考えようとした――――――だが、わからぬ!!!


「死よりも怖いもの、怖いもの……」


 唸れど唸れど、答えは思い浮かばない。

 その間にも、ちゃくちゃくと時は過ぎていく。

 このまま沈黙を通して、それで良しとする鬼ではなかろう。有留備あるびは時間稼ぎの一計を講じた。



「すまぬ、すまぬが、水をもらえまいか。乾いて乾いて、干からびる」


 有留備あるびはなるべく哀れに見えるように、頭を垂れてひらに頼み込んだ。



「おお、そうか。真水でいいのか?」


 道神丸どうじんまるは嫌な顔をするでもなく、むしろ気が付かなくてすまないとでも言いたげに、有留備あるびの要求を呑んでくれる。


「できれば海の水がいい。真水は、体に悪いゆえ」


「かっかっか、人魚だのう。時間稼ぎの手段でもあるだろうが、たしかにそちは、先程から辛そうだ。どれ、海に行って汲んでくるから、待っているが良い。ただし逃げようとしたら……そうだな。これから見かけた人魚を手当たり次第に殺すことにする。それを、心しておけよ」


 道神丸どうじんまるはそう言って、手桶を持って海の方へ歩いていった。



 有留備あるびは稼いだ時間を最大限活かそうと、考えに考え込んだ。


 む、む、む……。



 む。む。む……。



 先程、道神丸どうじんまるの言うことに、有留備あるびは少し引っかかりを感じた。僅かな光明が目に写ったような……、答えの切れ端が潜んでいたような……死よりもおそろしいもの……。死よりも恐ろしいもの…………。




 ふむ、なるほど。




「そ、そうか……分かった、分かった……。死よりも恐ろしいものがなにか」



 有留備あるびは天を仰いだ。




――――――





 道神丸どうじんまるが海から水を汲んで帰ってくると、有留備あるびは尾をとぐろ・・・に巻いて、むしろの上に悠然と座っていた。

 すんと澄んだ雰囲気を持つ有留備あるびの長くさらさらとした銀髪が、涼しげに風に泳いでいる。怯えの取れたその姿からは、気品すら漂っていた。道神丸どうじんまるは、思わず息を飲んだ。



「約束の水じゃ。浅瀬から汲んできた」


 動揺を隠すようにそう言うと、道神丸どうじんまるは思わず、有留備あるびの品のある美しさから目を背けた。海水の入った桶を手渡すと、有留備あるびは桶の水を全身に被り、ふう、と息をつく。その後、「ありがとう、道神丸どうじんまる」と、趣ある声で礼を述べた。


 道神丸どうじんまるは自らの姿を省み、思わず恥じ入る。

 ささくれた肌、がさつな声色、茨のように絡みついた、くせのある頭髪。有留備あるびのような美しさを持たぬ、自分自身の醜さを省みて。



さて、十分考えただろう。問答への答えは出たろうな」


「ああ」


 有留備あるびの声音は、先程までとは明らかに違う。しわひとつない肌に雫がきらめき、春の日を浴びて有留備あるびの体が輝いていた。



「出た」



「では、答えを聞こう。……わしが死よりも恐ろしいと思っているものは何じゃ?」


「……私も最初はそれがなんだか分からなんだ。……しかし、そなたが水を汲んでくる時、私を脅した文句の中に、その答えの端切れがあったのじゃ」


「……ほほう」

 有留備あるびは澄んだ声で続ける。濡れた銀髪から、輝く水滴が垂れる。


「そなたはこう言った。『私が逃げたら、これから見かけた人魚を手当たり次第に殺す』と。私はこれが答えだと思う。私は自分の死よりも、家族や大切なものの死が辛い。私のせいで他の人魚が殺されるのが辛い。……そして、そなたもそう思っているに違いないのだ。だからこそ、あの様な脅し文句を私に対して使ったのだ。つまり、そなたが自分の死よりも恐ろしく思うのは、そなたの大切な人が死ぬことであろう?」



 有留備あるびが語り終えると、道神丸どうじんまるは黙り込んでしまった…………。そのまま、しばしの時が経つ。



「のう、道神丸どうじんまる。黙っているところを見ると、当たっているようじゃのう。約束通り、私を海に返しておくれ。海が私の故郷なのだ。仲間も、家族もいる」



 春風がそよぎ、樹々の葉を揺らし、森がざわざわと騒ぐ。「違う」。道神丸どうじんまるの発した声は、有留備あるびの耳に届かなかった。


「のう、道神丸どうじんまる。私は、家族のために海藻を取りに行く途中だったのじゃ。早く帰らないと家族が心配する」



「違う違う、違うと言っている!!! 問答はわしの勝ちじゃ」




 道神丸どうじんまるが悲痛な叫び声を上げ、有留備あるびの顔を鬼神の如き形相で睨みつけた。眉は釣り上がり、眉間に幾条もの畝が走り、尖った歯列がむき出しになる。


「なんと……!! 私の答えが間違っていたというのかえ。いや、そんなはずはない。そなたは負けるのが悔しくて、強がりを言っておる」




 有留備あるびが苦言を呈すると、激昂した道神丸どうじんまるがおもむろに立ち上がり、痛烈に叫んだ。




「違ああぁぁぁう!! わしが死よりも畏れているものは、自分の死よりも畏れているのは……、他人の死などという、ひょろっちいものではない!!」




 道神丸どうじんまるの上げた恐ろしい大音声に、辺りの森から動物たちの姿が失せ、小鳥が群れをなして飛び立った。有留備あるびの眉が再び困惑の形に寄せられたが、海の水色の瞳は、道神丸どうじんまるを真っ直ぐに見つめていた。



「わしが恐ろしいのは、『不死』じゃ。自分が『不死』になることじゃ。他人の死などというものではない! 他人が死んだとて、構うものか。……そちは思い違いをしていたようじゃのう」


「なんと……」


 有留備あるびが驚いた顔になると、道神丸どうじんまるは勝ち誇ったかのように有留備あるびを見下ろして続けた。



「きちんとわしの話を聞かぬからじゃ!! わしは人魚の肉の味が気になる、だが恐ろしくて食べられないと言ったではないか。わしは人魚の肉の味が気になる、だが、人魚の肉を食らうと不死になってしまうと聞いたので、それが怖くて食べられないのじゃ。だからそちに、人魚の肉の味を聞いたのじゃ!! どうじゃ、自らの過ちがわかったか!! うつけめ!!」



 有留備あるびの驚いた顔が、道神丸どうじんまるをなおも見つめる。道神丸どうじんまるは息を荒げて、懸命に有留備あるびをにらみ続けた。



「……なぜ泣いているのじゃ?」



 有留備あるびにそう問われ、道神丸どうじんまるは目を丸くした。恐る恐る、眼尻まなじりに指を走らせる。


「……なみだ」


 思わず、指についた液体の名を呼ぶ。道神丸どうじんまるは、恥ずかしさで咄嗟に顔を覆った。



「なぜ、なぜ泣いておるのだ!! なぜわしが泣かなくてはならないのだ!!」



「そなたは、……かわいそうな鬼だな。……」

 有留備あるびは尾に力を入れて立ち上がると、道神丸どうじんまるの手を取った。


「そなたには、家族や、友人がいないのか。自分よりも死んでほしくない者が、自らの不死身よりも恐ろしい死の形が……」

「うるさい……うつけめ……もういいから、海に帰ってしまえ」


 道神丸どうじんまるは泣き顔を見られまいと、懸命に顔を多い、眼球を力いっぱいした。しかし目から溢れ出る涙はとどまることがなく、ただただ、道神丸どうじんまるの着物の袖と袂を濡らしていく。



道神丸どうじんまる。こういうのはどうか? 私がそなたの友人になろう。私の家族には、私以外にも家族がいる。しかしそなたには誰もいないのだろう? ……私はそなたが嫌いではない。お主は約束を守り、水を汲んできてくれた」


 有留備あるびが優しい声を掛ける。しかし、道神丸どうじんまるは泣きながら首を振った。



「わしは、わしは一人じゃ。鬼は親の腹を割いて生まれるのじゃ。鬼は生まれてすぐ、親のはらわたを食べて成長するのじゃ。鬼は肉を食うのじゃ。犬も、猿も、鳥も、人間も……生きているものは、一緒にいると食ろうてしまうのじゃ……わしは一人でいいのじゃ、どちらにせよ、すぐに一人になってしまうのじゃ……」


「いや、大丈夫、大丈夫だ。私はそなたと一緒にいてやりたいのじゃ」


「嘘じゃ、嘘じゃ。そんなことは出来はしない。さっき自分で言ったことを思い出せ、うつけ者め。……知っているぞ、人魚は地上では一日しか生きておれないのじゃ。鬼は百年生きるぞ、そなたはたとえ海に戻ったとて、わしの半分も生きていけないではないか」


「大丈夫、大丈夫だ……。方法はある。全て上手くいく方法が……。さあ、道神丸どうじんまる。問答じゃ!! 私がお前と友人になって、ずっと一緒にいられる方法とは一体何じゃ!? わかるか……? 答えてみよ」


「なに……? そんな方法があるのか……!! ちょっとまて、考える、考えるぞ……! ちょっと待てよ……!! そうだ、喉が渇いた、水を汲んでこい! この桶にいっぱいじゃ。まってろ、そのうちに、そのうちに、考えるから…………!!」


「ははは、時間稼ぎはよせ! とんだ浅知恵もあったものよ!」


「そちに言われたくはない! 馬鹿にしおって……」

 

 道神丸どうじんまるがむくれ、その後、笑顔になる。有留備あるびも笑い、二人の間に心地よい空気が産まれた。




 そして――――







――――






 ――――百年後の、春。






「覚えているぞ、なつかしや、なつかしや……。結局あの時は、わからなかったのう。道神丸どうじんまる



 有留備あるびの膝に頭を預け、年老いた道神丸どうじんまるが横たわっている。肌は乾いて固くなり、ところどころひび割れている。艶のない髪の毛、は完膚なきまでに白い。


「ああ……。なつかしいな有留備あるび……」


 声を出すのもやっとの道神丸どうじんまるが、白く曇った眼から、一筋の涙を流した。



道神丸どうじんまるは良く泣くのう」



 一方の有留備あるびは、百年前と変わらぬ美しさで、そこに在った。


 白く長いまつげに、深き山中に流れる清流のような銀髪。白くハリのある若々しい肌。澄んだ海色の目、気品のある声音。全てが時を忘れたかのように、あの春の日のままであった。

 百年前と違うのは、尾が二本の美しい脚になっていることと、左腕がなくなっていることだ。



有留備あるび……。そなたは相変わらず美しい……」


「ふふふ。なんたって、不死身じゃからな……。人魚の肉とは、恐ろしいものじゃ。体を作り変える力すら持っているとは。私自身もしらなんだ……お陰で海の暮らしには戻れなくなってしまったがのう」



 百年前のあの春の日。

 有留備あるびの問答に、道神丸どうじんまるは遂に答えることができなかった。



 しかし、果たして誰が考えつくだろうか? 有留備あるびが自らの左腕を食べて永遠の命を得、道神丸どうじんまるの友人になろうとしていたとは……。




有留備あるび……すまない……先に、行く。そなたには、辛い思いをさせる……。人魚たちが滅んだときも……故郷に戻れなくなった時も、わしは手助け一つできなかった……」

「かまわんかまわん。私は生来のんびり屋だ。辛くもない」


 軽い調子で有留備あるびが笑う。この百年、道神丸どうじんまるは幾度もこの笑顔に救われてきた。しかし、最後の瞬間になっても、この笑顔に報いることが出来ない。そのことが、なんとも言えず悲しかった。


「済まない……わしは死ぬ……。しかし、あの世でいつまでも待つつもりだ。だから……いつか必ず来てくれ」



「はっはっは、それはわからんのう。何しろ不死身じゃ。不死身が死んだ試しはない。…………道神丸どうじんまる、最後に、教えてやろうか? 百年前にお前が知りたがっていたことを……人魚の肉の味がいかなるものか」

「ふ……では冥土の土産に…………」





 うららかな陽光が射し、爽やかな春風が吹き抜ける中、有留備あるび道神丸どうじんまるの唇が、ゆっくりと重ねられていった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 挿絵のタイトルと世界観がそのまま小説になったようでした。 冒頭の引きずられている描写や、種族を越えた友情、もっと読みたいと思う読了後のスッキリしたエンディング。 エコ魔導師みたいに登場人物…
[良い点] 古典的な雰囲気で、最後まで先の見えない展開にドキドキしました!(///∇//) 絵の雰囲気にもすっごく合っていて、まるで文章が先にあったようでした!面白かったです! [気になる点] 展開が…
2017/05/26 23:05 退会済み
管理
[良い点] とても面白かったです!! まさか、こういう展開になるとは!! いい意味で、予想をはるかに超えて裏切られました! しっかりとした描写力が、物語の世界観やキャラクターを生き生きと描き出している…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ