Napaからの手紙
ヒロ、元気でやっていますか?
あれから、もう、一年か……
いや、もっと経ったかな……
私は今、アメリカの西海岸、サンフランシスコから車で一時間くらい。カリフォルニア州のNapaという街に住んでいます。
ここで、ホストファミリーにお世話になりながら、カレッジに通っています。
夢だったアメリカ留学を、一応叶えた形かな。
Napaはワイン造りで有名な街で、郊外に出ると一面にぶどう畑が広がっています。
地平線の果てまで緑と青空の景色、なんて光景もあって、朝露にぶどうの葉っぱがキラキラと陽の光を受けて輝く様子は、とっても感動します。
Napaのワインはほんとに美味しいよ。
私は翻訳家志望のクセに上手く表現できないけど、カリフォルニアの太陽の恵みとフルーツがギュッとつまった香ばしい匂いと甘酸っぱい味がする。
まるで恋の味……
そんなわけ、ないか。
ヒロはお酒が大好きだったから、きっと気に入ると思う。もしこっちに来たら、カリフォルニアピッツアをつまみながら毎晩ワインを飲んでるかもね。
私もこっちの生活にも慣れてきて、楽しく過ごしているよ。
でも、最初はほんと大変だった。
英語、もっと勉強しておけばよかったな。
ホストファミリーとの会話も細かいニュアンスが伝わらなくて、生活習慣の違いとかもあって、来た当初はストレスで体に湿疹ができちゃった。
三つ年下の女の子エミリーとも言い争いばかりしていた。
私は思ったことが英語にできなくて、泣き寝入り。
でもね、そんな気の強いエミリーは、ある日Napaの朝焼けが見えるとっておきの場所に私を案内してくれた。
朝早く、彼女に叩き起こされて、眠い目をこすりながら、木々の香りがする高台に二人で登った。
盆地に位置するNapaの夜明けは空気がぴんと張り詰めていて、頰が冷たかった。
やがて地平線の向こうから薄暗闇がオレンジ色になってきて。空が徐々に霞を帯びてくる。そして金色の朝焼けの中に緑色のぶどう畑がどこまでも広がっていく。
「That’s a great view for you! 」
(この景色をあなたに見せたかった)
そう言って、エミリーが白い八重歯を見せて笑ってくれた。
彼女のブロンドの髪も、朝日を浴びて妖精のように輝いていて、私は思わず見とれてしまった。
その時から私達は、本当の姉妹みたいに仲良くなったの。
こっちの大学の授業はもちろん全部英語だから、ついていくのがやっと。
いや、正直、ついていけてなかった。
だから必死で勉強したよ。
大学受験が終わったあとは、もう勉強なんてサヨナラ。
そう思っていたのに、自分の夢のためにさらに勉強するハメになるなんてね。
ホストファミリーとも絆が結ばれて、こっちの大学で友達も出来た。
授業も、課題がいっぱい出るけど、今は楽しいよ。
ヒロは今、なにしてるかな?
日本とこっちとの時差は、十六時間。
今は日曜日のお昼の三時過ぎだから、土曜日の夜の十時か。
一人で部屋でテレビでも見てる?
それとも、新しい彼女と、デート?
ヒロは女の子に優しいから、すぐに新しい彼女が出来たかもね。
もう、婚約とかしちゃった?
早く、結婚したいって言ってたもんね。
ねえ、覚えてる?
ヒロが大学の後輩の女の子の就職活動の相談に乗ってて。毎晩のようにその子とメールしたり、ちょくちょく会ったりしてたことがあったよね。
私、「もういい加減にして!」ってスネて、ヒロと喧嘩しちゃって。
あの子、絶対ヒロのこと好きだったよ。
優しいからってあんまり、女の子を泣かせちゃダメだよ。
でも、ヒロのそういう良い所はちっとも変わってないんだろうな。
結局私は日本の大学を卒業したあと、翻訳家になりたいって夢をどうしても諦められなくて、あなたよりも、留学を選んだ。
ヒロは私より年上で社会人だから、そろそろ将来のことも真剣に考えてるみたいだったもんね。
「私、どうしても留学したい。最低三年は、待っててくれる?」
私がそう言った時の、あなたの表情、今でも覚えている。
まるで数学の奇問でも出されたように、すごく難しい顔をしていたよね。
私は、ヒロが
「うん、わかった。ユリ、俺待ってるよ」
って言ってくれると思ってたんだけど。
「ちょっとだけ、考えさせて……」
あなたはかすれた声で、そうつぶやいた。
二、三日後だったかな……
「ユリ、ごめん。やっぱり俺、遠距離とか耐えられる自信がないよ。そろそろ、結婚もしたいし。このままズルズル付き合っていくのはユリのためにもならないと思う……」
本当に申し訳無さそうな顔のあなたに、そう言われた。
悲しかったよ。私なりに、ヒロとは真剣だったもん。
「恋人関係の発展的解消、卒業みたいなもんだよ」
あなたにそう諭されて、なんとか納得した……そんな気になってた。
サンフランシスコ行きの飛行機の中でも泣いてたんだから、本当は。
つらい時、苦しい時は、お父さんやお母さんよりも、やっぱりヒロのことを思い出してしまいます。
思い出すだけなら、迷惑じゃないよね?
そして、二人でよく聴いたあのバンドのCDをかけます。
日本から持ってきた荷物にちゃんと入れておいたんだ。
最初はどこがいいのか全然わからなかったけど、あなたの影響でだんだんハマっていって。
夏フェス、一緒に行ったよね。
「来年も、再来年も、ずっと一緒に来ようね!」
そう、約束したはずだったのにね。
こうして慣れない手紙なんて書いてるけど、何が書きたいのかわかんなくなっちゃった。なんか、ごめんね。
そうそう、私ちゃんと、翻訳の勉強もしてるよ。
二人きりの時によく言ったけど、世界には心踊るような素晴らしい物語がいっぱいあるの。
それをもっと沢山の人に紹介して、読んで欲しい、そして感動して欲しい。
私のその気持ちは、今でも変わってないよ。
ヒロも本が大好きだったから、きっとわかってくれるよね。
もし、私の名前が書かれた本が出版されるようなことがあったら。
ちゃんと、あなただけに伝えていたペンネームで発表するから。
あなたが、本屋さんで気付いて手に取ってくれますように。
その夢が叶ったら、この心に抱えているモヤモヤとした気持ちも、Napaの澄み切った秋の青空みたいにすっと晴れていくのかな?
「Yuri! Where’re you? Why don’t we go shopping?」
(ユリ、どこにいるの? 早く買い物に行こうよ!)
階下から、私を呼ぶエミリーのハスキーな声が響いてくる。
「I'm here. OK! Let’s go!」
(こっちよ、わかったわ。早く行こう!)
私は自分の書いた手紙にちらりと目をやりながら、自室のドアの方に向かって叫んだ。
こんな手紙、出せるわけないよね。
私は、書きかけの便箋を、クシャクシャに丸めて、ダストボックスに放り込んだ。
コンと小気味よい音がして、紙で作った即席のボールは見事に中に収まった。
さて、行かなくちゃ。もう夕方の頃合いだけど、二階の窓に映る九月のカリフォルニアの太陽はまだ高い位置にある。
エミリーと眺めたNapaの素晴らしい景色をきちんと文字にして伝えられように、私ももっと頑張ろう!
いつか、今のこの気持ちも……
いい思い出に、できるかな……




