第一回ばぁばの魔法講座
まるで、一枚の絵だった。
どこまでも続く緑の丘陵を、柔らかな風がさっと撫でていく。
首の後ろでくくられた長い金髪は暖かな日差しに輝き、エルフ特有のはっとするような白い肌が美しく、茶色の毛並みが鮮やかな大きな馬と少女が戯れている姿はとても愛らしい。
「よーし、ジャックよ!あのむさ苦しい髭面とこもりっきりでは辛かっただろう!今度は可愛い私が魔法を教えてやるからな!……って大丈夫か、おぬし」
「ダメです」
一方の私は、と言えば初めて乗った馬でグロッキーである。
ばぁばに連れ出された最初はよかった。
私とばぁばの遥か上にある馬の目は、つぶらで可愛らしい。
しかし……しかしだ。
正確に高さはわからないが、小学校低学年ほどの身長しかない私が見上げるほどの高さにある馬に跨るのは、ばぁばに手伝ってもらっても厳しい。
サラブレッドの足の先から肩までの高さが一メートル六十センチほどだったか、そんな高さに乗るとなれば結構な高さになる。
しかも、鞍や鐙が無かった。
いや、時代的に鐙がないとかそういうわけではなく、
「え?鞍とか鐙とか座り心地悪いし、いらんじゃろ?」
単純にばぁばがそういう人だっただけだ。
足を置く鐙が無ければ、人は激しく上下する馬に乗るのか。
答えは簡単である。足で馬の胴体を挟むのだ。
馬のがっしりとした筋肉と高い体温は、なんだか生き物とは思えないほどに人間とは違っている気がした。
競馬のサラブレッドの最高速度が七十キロほどで、ある程度の距離になるともう少し速度が落ちる。
しかし、それでも四十キロやそこらは出る、と聞いた事があるが、日本のような舗装された道でもない。
でこぼことした丘陵を、風を感じながら時速四十キロでかっ飛ばすのはさぞ気持ちがいいだろう。私も大人になったらやってみたいものだ。
しかし、まだ筋肉もろくについていない幼児の身で、しがみつける所はばぁばの腰と自分の足だけで乗るのは拷問以外の何物でもない。
力を入れすぎた筋肉が力尽き、ふっと足が外れた時は本当に死ぬかと思った。
ぱから、と跳ね上がった馬の尻に跳ね上げられた私の軽い身体は、ばぁばの腰にしがみ付いていなければ普通に落馬していただろう。
更に股の間にある小さいジャックにも大ダメージだ。
「よ、よーし、ジャックよ。今度は可愛い私が魔法を教えてやるからな!」
これで誤魔化せたつもりなのだろうか、この永遠の合法ロリは。
「が、頑張ったら、サンドウィッチを作ってあるからな。楽しみにしておるんじゃぞ?」
「よーし、頑張るぞう!」
わたし、ばぁばのサンドウィッチだいすき!わたし、ばぁばのサンドウィッチだいすき!
……いや、あんまりひどい顔をしていると、ばぁばが心配するからね。
いくら殺されかけたとはいえ、ばぁばを泣かせるわけにはいかない。
「うむうむ、ジャックはいい子じゃのう。ではまず煩わしいじゃろうが、注意点からじゃ!」
あとはばぁば抜きにして考えても、やはり魔法というのは憧れがある。
剣と魔法のファンタジーなのに魔法が使えないだなんて、ただの中世ヨーロッパでしかない。
そんな生まれ育った階級で人生が決まるようなデスルーレットは、望んではないのだ。
剣を振り回す蛮族どもを、華麗に焼き尽くす魔法。そして、焼肉。男の子って感じがするよね。
「まずこの辺りは死角が多いから、丘の影に座ってはいかん」
おっと、魔法の話じゃないぞ。
「そろそろおぬしも外に出たい年頃じゃろうが、この辺りの地形を見てみよ」
そう言ってばぁばが指を指したのは、私の背後だ。
振り返ってみれば、遠くに大して木の生えていない岩山があり、その麓にはへばりつくようにして存在している城壁もないしょぼくれた街がある。
ちなみに山の中腹には異様にでかい屋敷があるが、あれが我が家だ。
「あれがドワイトの城下町じゃな」
もとい、趣のある街がある。
「あの辺りからうちの兵達が馬を走らせてくるのじゃが、丘の死角に座り込んでいるととても危険じゃ!馬蹄の音も聞こえず、何年かに一度事故が起きるからジャックはそのような事がないようにな」
日本でも初心者のスキーヤーやスノーボーダーが見通しの悪い場所に座り込み、後ろから来た人がぶつかる、という事故は毎年のように起きている。
私も昔、座り込んでいるボーダーに気付かず突っ込み、ギリギリで避けたが雑木林に突っ込んだ事があった。
何故か無傷で生還した私にかけられたのは「何してるんすか。気をつけましょうよ、マジで」という笑いを含んだ、座り込んだボーダーからの声だ。
文字に起こすなら絶対に(笑)が付いていた。
「ど、どうしたんじゃ、ジャック。なんだか怖い顔をしておるぞ……?」
「なんでもないですから、話を続けてください」
「そ、そうか……?まぁいい。この辺りは死角になる丘が多く、馬と兵の足腰を鍛えるにはちょうどいいんじゃが、そこだけは気をつけるように。いいな!」
「はーい」
お姉さんぶるばぁばの可愛さは、過去の怒りすら浄化してくれる。
「というわけで、お待ちかねの魔法のお時間じゃ!」
「はーい!」
「まずその辺りに円を描きます」
「は、はーい……?」
ばぁばが細い指を動かすと、さらりと空中に小さな赤い円が描かれていく。
赤いラインで描かれたそれは、子供の拳一個分もない大きさだった。
まずどうやって空中に線を引け、というのか。
ペンを持っていても、大気は応えてくれないと思う。
「そして、ちょちょいと線を引きます」
さらさらと描かれた線は、まるで定規で引かれたかのようにまっすぐだ。
そして一本、また一本と追加される線は、どんどん複雑さを増していき、円の中に七本の線が引かれ、七芒星と呼ばれる図形が完成する。
不思議な事に、私自身が何故そう思うのかはわからないが、直感的にばぁばの描く七芒星は完全だと思った。
例えば二つの三角形を組み合わせたユダヤの星とも呼ばれる六芒星だ。
全周である三百六十度を六で割れば一つの角が六十度になり、正確な六芒星が描ける。
しかし、三百六十を七では割り切れず、真に正確な七芒星という物は、存在しないはずなのである。
だが、直観的にではあるものの、私の中で不思議なまでに正確だと確信出来る七芒星が目の前に存在していた。
……どうやって私に描けというのだ、七芒星。
「で、撃ちます」
「えっ」
もうどうやって、と考える間もなく七芒星がぴかっと光ったと思えば、拳大の炎が――着弾した結果での観測――飛び出す。
それも一つや二つではなく、七つだ。
馬よりも風よりも、目にもとまらぬ速さで飛んだ炎弾が誰もいない地面に落ちれば、風に乗った炎が何の罪もない草花を餌として勢いよく燃え盛る。
地獄の釜が開いたような、そんな光景だった。
罪のない草木があまりの熱量に耐えきれず、あっという間に炭化していく。
自然保護団体が見たら卒倒するような勢いで、穏やかだった緑の丘を炎が舐め尽くしていった。
「どうじゃ、凄いじゃろう!」
「あの」
「なんじゃ、質問か?よいぞよいぞ、私もドワイトの女ぞ。何を聞かれても根気よく答えてやろう!」
「どうやって消すの、あれ」
「そういう時はこうじゃ」
さらさらと描かれた魔法陣から再び炎弾が飛び出し、燃え広がっていた炎へと着弾し、ドワイトの屋敷からも見えそうなくらいに派手な土煙を上げる。
土煙が収まれば、確かに炎は消えていた。
いや、確かに火事に爆弾を投げ込んで炎を吹き飛ばして消火する方法があったとは思うが、その結果が火事より広い範囲が焼け焦げているんですが、それは。
あと、
「おい、ババア!何してやがるんだ、貴様ァ!」
「げえっ!?」
馬に乗った爺が駆けこんできてるんですけど。
第二回ばぁばの魔法講座は、永遠に開かれる事はなかった。