教育係ギルバート・ウィリアム
教育役が決まった、と言っても私の日常にさほど変化は無かった。
それはそうだろう。スパルタ教育で有名だったスパルタでも成人の儀は十三歳からだったし、その前から戦い方を教えるにしても三歳児に短剣を持たせようとしても物理的に厳しい。
夕方からギルバートと机の前で過ごす時間となっただけだ。
「私が若の教育係になったギルバート・ウィリアムです」
「……ん」
如何にも傲慢でプライドの高そうな髭面は口をへの字に結んで、それだけを言う。
幼児が相手だからと言って容赦一つない眼光は睨まれているようにしか思えず、太い腕と腰はきっと脳みそのでマッチョ主義が詰まっているに違いない、と私は思った。
こういう手合いはひどく苦手だ。
何があっても精神論、何か困っても努力で何とかなる、と言い出すに違いない。
「私が貴方に教えるのは、まず数学です。よき兵士とは数学が出来ねばなりません」
だから、彼がそう言った時には面食らってしまった。
「……数学?」
軍隊という所はまず身体を動かしてから、というイメージがあった事も含め、この髭面のいけ好かないおっさんの口から数学という言葉が出てきたのも驚きだ。
とりあえず走って、何かあったら殴る。そんなイメージが私の持つ軍隊のイメージだった。
「はい、数学です。……若はどうやら私の話を多少は理解しているようですな。少し詳しい話をしましょう」
いいえ、ただの可愛らしい幼児です、と言った所で聞いてもらえそうにないので黙って聞いてみよう。
「貴方は将来的には……まぁおそらくドワイト家の当主になるでしょう」
そこは言い切って欲しかった。
「その時、貴方はドワイト家の兵を率いる事になります。そんな貴方が数学を知らなかった場合、どうなるかわかりますか?」
「……その、自分達より多い相手と戦ってしまう?」
「それ以前の問題ですな。まず自分達の数がわかりません。相手の数もわかりません」
そう言えばそうか。
中世の農民は次の収穫まで何日かわからず、さっさと食べ切って困る農民が多かった事から、その辺りの管理も村長の仕事だったと何かで読んだ気がする。
この世界がどういうレベルなのかはさっぱりわからないが、暦のない時代はどうやって生活していたのだろう。
「さて、貴方は数学の基礎を学び、自分が百人、相手が二百人率いているとわかったとしましょう。次はどうするべきでしょうか」
「……撤退する?」
「正解は私がいるかどうか確かめる、ですな」
何言ってんだ、こいつ。
「冗談です」
顔色一つ変えないで言っても、冗談かどうかわからないんですが。
「多人数をまとめる軍には、共通の認識としての数学が必要です。敵は百人である、百人で十日行軍するには何食が必要で、馬車は何台必要か、など数字が必要とされる場面は大量にあります。わからなければ軍令がスムーズに行き渡りません」
「……なるほど」
そう考えると数学は必要だ。
ただ義務教育だけではなく、大学まで出た私に教える物がこの世界にあるだろうか。
やれやれ、ちょっと時代が違う所……チート悪役転生としての一端、見せちゃおうかな?
あったよ!それも沢山!
専門分野に行かない社会人の数学の忘れ具合なんて、本当にひどいものだ。
サインコサインタンジェント……一体なんの事だろう。
基本的な四則演算こそ簡単に終わったが、そこから先はひど過ぎる。
まず幾何学なのだが、何だか教科書で見たような気がする問題が大量に出てきた。
時代の差から何か間違っているのかもしれないが、それを証明するには私の頭脳が足りない。
それらしい説明をすれば、そうなんだと納得する以外出来そうになかった。
詰め込んでしまえば何とかなる、入試で鍛えた頭脳を見せる時……!と思ったのだが、ギルバートはそれでは不満だったらしい。
彼は常に暗記ではなく、理解を求めていた。
「まず私は貴方に何一つ期待していません」
彼の初めての授業、そして何度も何度も続く授業の中で毎回、必ずこう言う。
「貴方の出来がどんなに悪かろうと、私は失望しません。わからない事があれば必ず聞いてください。何を聞かれようと、私は貴方に怒りを覚える事はないでしょう」
最初はなんだこいつ、と思ったものだが、彼の言葉に嘘はなかった。
同じ事を三度聞こうと一つとして端折る事なく説明し、怒鳴りつけ、殴るような真似は一度とせず、淡々と私に忍耐強く接してくれ、私が理解に躓いている部分を理解をしようとしてくれる。
一片でも理解が及んでいないと彼が判断すれば、また初めからやり直しなのだが。
何故、そこまでするのかと聞いてみれば、
「暴力で躾ければ、貴方は私に質問をしなくなるでしょう。貴方に『わかった』と言わせるには手っ取り早いですが、本当に理解させるには暴力は害悪ですらあります」
ギルバート・ウィリアムは優れた教師だった。
天文学や測量、建築学などを含む数学だけではなく、長年の戦場暮らしで培ったあちこちの風土を語り、語学に自然科学と、とにかく多岐に渡る知識を私に叩きこんだ。
「爺」
「なんでしょう」
ギルバートが私の教育係になって三年目の、六歳になったある日だった。
その頃には最初の内にあった……その、色々な物に対しての疎外感やら嫉妬やらは収まりが付き、素直に彼を認める事が――いや、自分がまだ若いと思っている彼を爺呼びしてやろう、という若干の嫌がらせはあるのだが――出来ていた。
「一つ疑問なのだが……本当に一兵士としても、将軍としてここまでの勉強が必要なのだろうか」
四次方程式を解いた所で、軍隊の動かし方の役に立つのだろうか。
やれと言われればやるんだが、純粋に疑問だ。
「必要があると言えば必要ですが、必要がないと言えばありません」
「どういう事なんだ」
「若が次に学ぶのは、魔法となります」
「魔法」
忘れていたが、この世界は剣と魔法のファンタジーか。
剣こそ見る事があるが、魔法よりも数学ばかり目にしていたせいで忘れていた。
「私が考える魔法とは、数学です」
そう言うと爺は片手を胸の高さまで上げ、指先でくるりと円を描く。
するとどうだろうか、冷たげな青色の線で描かれた円が中空に現れたではないか。
「おお……」
「そういえば魔法は見せた事がなかったですな。と、ここに一本、線を足してみましょう」
正確に円の中心を通った線が引かれると、どういうわけか肌寒さを感じ始めた。
水が凍り付くような冷たさではないが、確かに冷気があると感じるような冷たさだ。
「冷たさを感じましたな?これが最も簡単な起動術式であり、正確に意味のある線を増やせば増やすほど大きな魔法が使えるようになり、精度の高い図を起こせる者ほど強力な魔法が扱えます」
「なるほど、数学の知識が必要なのはこのためか」
「そうですな。そして、数学の知識が無くても使えます」
どういう事なの。
「ひどく不条理な話ですが、使える奴は使えるし、使えない奴は使えない、という話ですな。感覚的にそういう物だと理解出来ている者なら、"そういう物"として扱えます」
「……それならとりあえず試してみて、出来なかったら数学勉強する方向でよかったんじゃ」
今なら数学を勉強して無駄だとは思わないが、何だか勿体ない事をした気分だ。
「いえ、感覚的に魔法を使える者でも数学が出来るようになれば……基本的には威力が向上します、基本的には」
「何故、二回言ったのか」
「……それは我がドワイト最高の魔法使いが、これっぽっちも数学を理解せず、そのくせ何となく凄まじい魔法を扱えるからですな」
「何となく」
「私に彼女の魔法は何一つ理解出来ません。教える者としても不適格です。……しかし、優秀です」
「不安になる話しか出てきてないんだが」
「貴方が出来る事は、彼女のふわっとした教えを自力で理屈付けする力です。そのために数学が必要なのです」
「なら爺が教えてくれればいいんじゃ」
爺の教育方法はわかりやすいし、何より慣れている。
彼に教えてもらえるのなら、一つの不安もないのだが。
「……それは、まぁそのダメでした」
「あ、うん」
いついかなる時も冷静で忍耐強い爺に、苦虫を噛み潰したような表情をさせるのは私の知っている限り一人しかいない。
「よーし、ジャックよ!あのむさ苦しい髭面とこもりっきりでは辛かっただろう!今度は可愛い私が魔法を教えてやるからな!」
あのむさ苦しい髭面、なんだかんだ言ってばぁばに弱いからな。