栄光はもはや遠く
「僕は、どうしてもあの子を愛せそうにない」
「なるほど、それを私に話してどうしたと言うのです?」
ふん、と鼻を鳴らして傲岸不遜に答えたギルバード・ウィリアムに、ジョセフはもう腹も立ちはしなかった。
五十をいくらか過ぎた頃だというのにドワーフのように太い、傷だらけの腕には衰え一つ見えず、白い物がちらほらと混じった長い髭をしごきながら答える様は、自分が彼の主だというのを忘れてしまいそうになるほどの威を発している。
それはそうだろう、武門の中の武門、ドワイト家三代に仕えた宿将の彼の自負は強烈な物だ。
武名轟くギルバート・ウィリアムには、ジャン・ジョセフ・ドワイト辺境伯の名ではまだまだ軽過ぎた。
彼が下剋上をしようと本気で考えれば、ジョセフは対抗するまでもなく追い落とされる未来しか見えないほどだ。
「君にあの子の教育を任せたい」
「なるほど」
ギルバートはグラスを煽ると、一息でウィスキーを軽々と飲み干す。
顔色一つ変えず、ジョセフへと送る視線は、どう考えても友好的な物ではなかった。
「この私を、戦場から引き抜き、ご子息の教育係にしようと、お館様はそうおっしゃるわけですな」
「ああ」
半端なごろつきなど一発で震え上がらせるギルバートの眼光も、今のジョセフには何一つ響かない。
まるで世界が死んでしまったかのようだった。
「なあ、ギルバート。僕にはどうしても出来ないんだ」
「子供の教育など、どこの親でもしている事でしょう。それがどういう結果になるかは誰にもわかりませんがね」
「僕では、あの子を殺してしまう」
「ドワイトで、死にかけない兵などいません。貴方も、私ですらそうでした」
「死ぬかもしれない訓練と、確実に殺してしまうのは違うだろう」
「ふむ」
ドワイトの荒行と言えば、現役の国軍兵士ですら恐れる、らしい。
らしい、というのも、ジョセフの人生はドワイト家から出た事はなく、他の基準がよくわからない。
よく他所からドワイト家は(勿論、陰口だ。直接聞こえた日には決闘の一つや二つ申し込んでいる)狂っている、と言われる。
戦友と良き敵、そして愛するリリィがいれば、何も必要がないくらいにジョセフは満たされていた。
今こうして口に運ぶ最高級のウィスキーはどこか味気なく、ギルバートのために用意しておいた山海の美食は何だか妙に味を感じない。
戦場でたき火を囲んで煽る安酒と、帰って来た時にばぁばが作るシチューと、リリィの笑顔があれば、それだけでよかったのに。
一年の長対陣になった共和国は、しばらくは動けない程度には徹底的に叩いてしまった。
鬱憤を晴らせる戦場はなく、ばぁばのシチューを食べる気にもならず、リリィはどこにもいない。
リリィが妊娠したと聞いた時は、それこそ家中が喜んだものだ。
咲き誇る花々よりも美しく微笑む彼女の笑顔は、目をつぶればはっきりと浮かぶ。
嫋やかな指先が奏でる包丁の音は、何よりもジョセフの心を安らがせてくれた。
首の後ろで結われた赤い髪が楽し気に揺れ、帰ってきたジョセフに優しく微笑むのだ。
リリィは、ただの下働きの娘だった。
どこにでもいるような、客観的に見れば少しばかり美しいだけの少女だ。
しかし、どういうわけかジョセフは恋に落ちた。
彼女を愛している理由を並べろと言われれば、喜んで百でも二百でも千でも万でも並べてやれる。
だが、その全てがどこか的を外しているような気がして、結局の所ジョセフはリリィを愛している、としか言えないのであった。
そんなリリィに無理をさせるべきではなかった、とジョセフは思う。
彼女はまだたった十五でしかなかった。
これから二人で歩む道のりは、どれだけ輝かしい物になったのだろう。
彼女が微笑んでくれるのならば、十万の敵に突っ込む事だって怖くはなかった。
しかし、もはや全ては過去形でしか語れない未来だ。
「あの子は、ジャックは何一つ悪くないんだろう」
だけど、憎い。
「ジャン・ジャック・ドワイトがリリィを傷付けたわけじゃない」
もしも、ジャン・ジャック・ドワイトがいなければ。
意味のない空想はジョセフの頭の中でぐるぐると空転し、あったはずの未来を描き続ける。
そこの場所に、ジャン・ジャック・ドワイトはいた。
そして、今のジョセフの中にはジャン・ジャック・ドワイトを置いておけない。
「頼むよ、ギルバート。君以外に頼める相手はいない」
「ふん」
ギルバートは、いつものように傲岸不遜に鼻を鳴らした。
普段は憎たらしさすら感じる態度が、今はひどく安心出来た。
「当然ですな、私に頼まず誰に頼むというのです」
「いつだって君を頼りにしているとも」
ドワイトに人あれど、宿将五人を上げろと言われれば誰もが「まずギルバート・ウィリアム」と親指を折る"親指"ギルバートが請け負ってくれるのならば、間違いはないと安心出来た。
夜の闇の下、うっすらとした光を横顔に受けるギルバートの顔は、ひどく歪んでいる。
さきほど飲み干したウイスキーがよほど不味かったのか、と思い、自分でも飲んでみたジョセフだが、不思議とこれっぽっちも味を感じなかった。
ああ、そうか、とジョセフは気付く。
「大丈夫、僕の心配はいらないよ」
薄い橙色をした燐光が緩やかな風に乗って、夜の闇を柔らかに照らす。
リリィが好きだと言ってくれた魔法の光は、燃やす対象が薪であろうと何であろうと、代わりはしない。
ジョセフ達の周囲では、人の形をした松明が何本も何本も立っていた。
それらの正体は何の冗談か、ドワイト領に入り込んできた山賊達三百余。
「リリィがいなくても、どうやら僕は問題なく戦えるみたいだ」
自殺をすればリリィは悲しむだろうけれど、自分が今生きているとは到底思えない。
三百の山賊達を焼き殺しながら、ジョセフはそんな事を考えていた。