暗い暗い穴の底で
暗闇の中、私は穴を掘っていた。
ざっく、ざっく、ざっく。
音の間隔はひたすらに一定、着込んだスーツには乱れ一つない。
力は籠めない。それは無駄だ。
ざくっ、ざく、ざっっく。
近くから、遠くから聞こえてくる穴を掘る音は不規則だ。
どうして彼らは私のように綺麗に穴を掘れないのか、とても不思議だった。
当たり前のようにルーチンをこなして行けば、当たり前のように終わるのだ。
それは当たり前に出来る事なのではないだろうか?
そんな事を考えながら、私は穴を掘り続ける。
ざっく、ざっく、ざっく。
穴を掘る意味は考えない。穴を掘れと言われたから掘っているだけだ。
『スピリチュアルなんですよ、結局は。スピリチュアルっていうのは要するに、森羅万象の色々な物にある波動っていうんですか?そういう物を感じる力っていうか、流れですね。その波動を感じやすくなるんですよ、このサプリは。勿論、不自然な科学的な物は一切混じっていない完全自然由来の成分でして』
ざっく、ざっく、ざっく。
穴を掘る意味を考えてはいけない。
まともに脳みそがあるのなら、馬鹿馬鹿しくてやっていられなくなる。
掘った穴を埋める事はしない。
私はやれと言われたからやっているだけだ。
何の意味があるのかなんて、私が考える事じゃない。
穴はどんどん深くなって、聞こえていた周りの音も聞こえなくなっていく。
ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、ざっく、ざっく。
誰もいない。
私に穴を掘れと命じた誰かも遠く、私を詐欺師と呼んだ人達の声も聞こえない。
何も聞かず、何も見ず、誰もいない。
寒い寒い穴の底は、思っていたよりも居心地がよかった。
煩わしい事は何もなく、虫のように穴を掘り続ければいい。
善悪は誰かに預け、決断もなく、幸福すらも面倒だ。
静かな不幸は、悪くはなかった。
気が狂いそうになる静寂の、他人から見ればちっとも静かではない罵声飛び交う私の生活は、唐突に終わってしまった。
恋をしたんだ。
がたんごとん、がたんごとんと電車は進む。
同じ所をぐるぐると回る電車は、私によく似ていた。
いや、他人の役に立っている電車と私を比べるのは失礼かもしれないが、一方的な共感を今も抱いている。
私はそこで沢山の本を読んだ。
光射し込む電車の中で、反吐の臭い漂う電車の中で、疲れ切った人々が黙り込む電車の中で。
高尚な言葉で肥溜めを描いた本を読んだ。
くだらない、見るべき所なんて一つもない、そのくせ書き手の楽しさだけが伝わってくる本を読んだ。
生き生きと描かれる地獄、不幸のどん底にあるキャラクター達、救いはどこにもない、そんな本を読んだ。
女体を描く事以外、何一つ考えていない漫画を読み、世界とは何かを延々と考え続ける哲学を読み、イカれているとしか思えない料理本を読み、人は素晴らしいのだと詠う本を読み、何一つ理解出来ない技術書を読む。
丁寧に、執拗に、一文字一文字を追うように。
それでも、私は穴の底から抜けられない。
這い上がろうとしても、とっくの昔に手遅れだ。
穴の縁に手をかけるには遠すぎて、誰かに引き上げてもらわけなければ届かない。
胸のど真ん中にぽっかりと開いた胸は、ひゅーひゅーと音を立てて耳障りで、いつだってそれがあると意識させられる。
きっと私は悲しいのだろう。
ただ、その悲しみが実感として理解出来ない。
ひゅーひゅーと聞こえ続ける胸の穴だけが、どこまでも耳障りだった。
本を読んだ所で、このぽっかりと開いた穴は埋まらないのは理解している。
行き場のない汚泥がぐるぐると回り続け、吐き出せない熱量が私を腐らせていく。
それならばいっそ、私は天蓋を砕く魔王になりたかった。
光ある世界を妬み恨むバケモノでありたかった。
ただ強く、ただ強さしかない誰かでありたかった。
吹き荒れる嵐でありたかった。
穴を掘り続ける事も出来ず、何物にもなれない私は、ただただぐるぐると回る電車に乗り続ける。
異世界へ転生する話なんて、いくらでも読んだ。
物語としての価値なんてこれっぽっちもない物から、涙を流すほどに感動する物まで色々だ。
その玉石交合ぶりは、ある意味では救いになっていた。
なにせ期待せず価値のない話を読めば「そういうものだった」で終わるし、名作なら期待度をマイナスにした分だけ高く飛び上がる。
だからといって、自分自身が転生したいだなんて、これっぽっちも思っていなかった。
いくら腐っていても人を殺したいだなんて思っていないし、殺されるのも嫌だ。
自分を殺す事すら、私には出来なかったのに。
異世界は遠すぎて、どこかに君がいるのだと考える事すら出来やしない。
爺やばぁばを助けるなんて、結局は君の代わりにしようとしているだけなんだ。
色鮮やかな未来は何一つ浮かばない。
ハーレムなんてちっとも興味がない。
世界すべての金貨を集めた所で、何の意味もない。
私は吹き荒れる嵐になりたい。
最初からそういう物なのならば、燻る熱量すら一滴残さず使い果たせるだろう。
理想に燃え、天蓋を砕く魔王にでもなれればよかった。
それならば綺麗な夢に燃え尽きられた。
世を妬み恨むバケモノであればよかった。
それならば自分は悪くないのだと思い込めた。
ただ強くありたかった。
それならば、独りでいられた。
約束された無惨な死は、いっそ救いだったのに、私はどうして生きているんだろう。
みんなを救えば、私は死ねない。
私にだけ救いはない。
たった独りで無意味に穴を掘り続けていれば、それだけでよかった。
そうすればこんなに苦しむ事も、
「暗過ぎるわ!?」
「うおっ!?」
唐突に投げ込まれた言葉と共に、視界は雪山に戻っていた。
「あんたほんま暗いわ!ねちねちねちねちねちねちねちねち!男なんだから、いい加減にしゃんとしい!」
「え、ええー……」
なんでいきなりドラゴンに説教されてんの、私。
神々しさすら感じてたドラゴンの言葉から男性的な響きは消え、むしろ大阪のおばちゃんみたいなノリになっている。
「いや、でもあれなんですよ。トラウマっていうか」
「そりゃあるわな、トラウマ。うちがこのくらいじゃない?と思うより、あんたは辛いかもしれんわな」
でも、とドラゴンは続けた。
ところでどうして、私の頭を爪で挟むんですかね?
「暗いわ!めっちゃ暗いわ!何年も何年もねちねちねちねちねちねちねちねち!暗いわ!暗いわ!」
「痛たたたたたた!?」
「ほんとあんたあほやろ。そんなん見せられるうちの身になりい」
「いや、私の中を見たのは勝手にやったんじゃ痛たたたたたたたたたたたた!?」
私の頭を潰さず、的確に痛みだけ与えてくるドラゴンはいっそ器用としか言い様がないが、その器用さは別な所に使って欲しかった!
万力で締め上げられるような痛み!?
向こうが勝手にやってきたのに、なんでこんな事されなきゃいけない!
「あんた、あたしと約束しい」
「な、なんすか」
「もう少しちゃんと生きや」
「は?」
「あんた暗過ぎるわ。もっと肩の力抜いて気楽に生きてみい。そしたら、もうちょっとマシに生きられるやろ。女なんて星の数もいるんだから、昔の女なんてとっとと忘れちまえばええんよ。いなくなった女の代わりに誰かを助けるなんて失礼やん?ちゃーんとその人ら見てやらんと」
「お前に何がわかる!」
竜に生死を握られている事なんて、一瞬で吹き飛んでいた。
「私は彼女に虫から人にしてもらった!それを悲しむのが何が悪いっていうんだ!ちょっと外から私を見ただけで、何か理解したつもりだっていうのか」
私の頭を掴む竜の爪を血が流れるほど強く殴ったって、その衝撃で私の頭が揺れるだけで何一つ痛みを与えられないのは理解している。
「彼女の思い出一つ一つが!彼女に与えられた傷の一つ一つが!それをわかったようにお前が語るな!」
ただ腹が立つ。
他人に理解してもらおうなんて、これっぽっちも思っていない。
私はあの電車の中で、確かに満たされていたんだ。
「私の愛は、あそこにあったんだ!それを哀れまれる筋合いなんて、どこにもない!」
爺やばぁば、身内を助けようとするのは、所詮は彼女の代わりでしかない。
そんな事は言われなくてもわかっている。
「私には何の価値もありはしない。やれる事を当たり前にやる以外、何の能もない」
死ぬのなんて怖くはない。
だけど、彼女と同じ所に行けなくなるのが怖くて、自殺は出来なかった。
ただひたすらに持て余していた。
私は愛の余熱で走り続けているだけの、ぽんこつの機関車だ。
のろのろと走り、いつかは止まるだろう。
だけど、
「トカゲ風情が私の愛を見くびるな。
私の熱量は物語の筋書きくらい変えるとも!何の意味もない、何一つ変わりはしない、この蛇足でしかない生で、私は私の愛を証明するとも!」
じろりと見つめられただけで震え上がっていたはずの身体は、今では怒りのあまりげしげしと竜の身体に蹴りを入れているほど。
私に力があれば、それこそ逆鱗引っこ抜いてブレーンバスターくらいしている。
おら、かかってこいよ。勝てはしないが、蹴りだけは入れてやっかんなこの野郎!




