今すぐダッシュでお家に帰りたい時もある
それは、神話的な光景だった。
見ているだけで震えが走るような、圧倒的な力を持つドラゴンに、たった一本の剣しか持たない少年が立ち向かう。
影すら追い付かないような速度で走り回る彼は、ドラゴンの暴風のような攻撃を掻い潜り、刃を突き立て続ける。
硬い鱗は少年の刃を受け止め続け、未だ血の一滴も流れやしない。
少年の奮闘は、無意味な物なのか。
いや、そうであるのなら、ドラゴンは身動ぎ一つしないだろう。
ドラゴンは少年の立ち位置に合わせるように、小刻みに対応していく。
つまり、少年の持つ粗末な剣は、ドラゴンの命に届く可能性を秘めているのか。
戦闘の経験は、私にはない。
だが、あの凄まじく鋭い剣風は、もしかしたら竜の命に届くかもしれない、と期待するには十分だった。
「なあ、オーギュスト」
「……なんだ」
「ドラゴン倒せる?」
「無理に決まってる」
「ですよねー」
私と同じように地面に伏せて見物しているオーギュストがイラっとした気配がしたが、そんな事を気にしている暇はない。
最近、忘れかけていたのだが、私は悪役に転生したはずだ。
しかも、ラスボス。
最終的には相当強くならなきゃいけないわけだが……何の伏線も、脈絡もなく歩いてた私より小さな子供とドラゴンが戦ってるんでしょ?
つまり、私はもっと強くならなきゃいけないって事じゃない?
え、あのスタ○ウォーズのヨー○みたいな動きしてる子供より?
ライトセ○バーとか持ったら、まんまジェ○イじゃない?
常識的に考えて、無理じゃないだろうか。
「お、おい……」
「なんだね、アルトくん」
「お、俺達これからどうするんだ?か、帰ろうぜ?絶対無理だろ、あれ」
まぁ無理かどうかと言われたら、どう考えても無理としか言い様がない。
爺にら山頂まで行けって言われただけだから、帰ってもいい気はするのだが。
最初はどこかに不正のないように監視がいるのかと思ったが、見晴らしのいい場所でもそんな様子はまったくなかった。
山頂まで行けばドラゴンがいて、山を降りた時に話さない、という事もないし、不正対策にはなっているのだろう、多分。
……帰ろうかな、本当に。
目の前の怪獣大決戦を見ていると、そんな気にしからない。
助けるにしてもどっちを助けたらいいかわからないし、そもそも何の役に立つんだ。
などと言ってる間に、
「あ、終わった」
何がどうなったのかわからないが、少年が仰向けに倒れこんで……行く途中に踏み止まった。
「マジか」
自分の身長と大して変わらないようなぶっとい爪で斬られて、それでも倒れないとは。
あそこまで行くと、もう肉体がどうこうじゃない。
精神がどこかへ辿り着いているとしか思えなかった。
だが、少年の目を見張るような動きは消え失せ、老人の散歩のように歩を進める姿はひどい物だ。
それこそベッドで寝たきりの老人より、あの少年が先にお迎えが来るだろう。
一歩、また一歩とドラゴンに向かうたび、コップをひっくり返したかのように鮮やかな真っ赤な血が、自分達で踏み荒らした雪を染めていく。
「ダメだろ、あれはもう……」
アルトくんの呻き声にも似た言葉は、この場にいる私達全ての代弁だ。
そんな悲惨としか言い様のない中でも、少年は進み続け、いよいよ竜の足元に辿り着いた。
もう振り上げる力もないのか、下段というよりは、しがみつく杖のような有り様の剣が竜に向かう。
雷光のような速度は、もはやどこにもない。
もう、どうしようもなく駄目だった。
悲壮すら感じる少年の行動は、ドラゴンの硬い爪に傷一つ付けられず終わる。
「…………」
何とかしようとすら思えない。
ドラゴンを出し抜いて、あの少年を救うのは、すでに遅すぎた。
もしも上手くドラゴンを出し抜き、少年を三人がかりで背負って山を下ろうとしても、あの出血量ではそれこそ魔法か、魔法のように進んだ医学を修めていなければどうしようもないし、私達が修めているはずもない。
何も出来ず、何もしなかった。
それは、仕方のない事だ。
そもそもあの少年がどこの誰かもわからないし、話しかけたら無視されてしまったんだ。私が何かする理由なんて、そもそもこれっぽっちもない。
仕方のない、というレベルですらなかった。
何の関係もない子供が、勝手に死のうとしているだけだ。
それは私の人生に傷を付ける物ではない。むしろ、これで冷たい奴だ、なんて言われる事があるなら、お前がやってみろという話である。
何せ敵はドラゴンだ。
西遊記の孫悟空相手にはいい所がこれっぽっちもないドラゴンだが(まぁこっちは龍だが)、逆に言えば孫悟空クラスになると、ドラゴンのようなレベルでなければ噛ませ犬にすらなれない。
しょぼくれた妖怪では、孫悟空の強さを魅せる事すら出来ないのだ。
悟空ならざる私が鉄の剣で打ちかかろうと竜の鱗に傷一つ刻めず、一握りの英雄だけが竜殺しとして英雄になれる。
そんな竜に、何の関係もない子供のために挑むだなんて、夢うつつの酔っぱらいだってしやしない。
剣一本で台風を払えるか?という話だ。
ドラゴンとは、そういう巨大な自然現象のような存在に違いない。
左右を見れば、寒さとは違った理由で震える二人の姿。
まぁ私も似たようなものだろう。
もし、何かの気まぐれでドラゴンの眼がこちらを見れば?
その時は必死になって命乞いをするしかあるまい。
泣き喚いて、小便撒き散らして、それで竜が呆れて無視してくれれば、これからの人生の幸運を全て使い果たしてしまっても惜しくないだろう。
「あー……」
「……おい」
「まさか……落ち着けよ、冗談じゃないぞ!?」
そう考えつつも、少年を助ける理由なんて、実の所は最初からある。
何せ、馬鹿みたいに強い。
敵の軍勢に突っ込ませれば、滅茶苦茶倒してくれそうじゃないか。
どう考えてもあんなに強くなれる気はこれっぽっちもしないが、そもそも別に私が強くならんでもいいのだ。
彼を……こう、何か上手い事、救い出して、何かこう上手い事、助けて部下に出来れば、これから先……こう、何か上手い感じに行くんじゃないかなって。
賭ける理由としては、悪くはないだろう、きっと。
いや、やっぱりやめておけばよかった気もしてきた……。
「なんで立ち上がってんだよ、見付かったらどうする!?」
「もう見付かってるだろう」
伏せてるだけだからね、私達。
その程度でドラゴンに見付からないなんて、まったく思えないわ。
私が立ったせいで、竜の視線がこっちを向いたし。
「めっちゃこっち見てる!?どどどどど、どうするんだよ、お前!?」
「とりあえず二人ともそのままでいてくれ」
まぁまったく脈がない、わけではないような気がするわけですよ、一応。
さすがに完璧にどうしようもなさそうなら、動こうとは思わなかった。
何とかなる可能性はそれなりにありそうな気がする、不思議と。
人語を話してたし、少年にトドメを刺していない辺り、そこまで殺意に満ちているわけでは……ないと、とてもいいなって。
あと、
「おい、ジャック!し、死ぬなら一人で死ねよ!?」
お前のその言葉、私は絶対に忘れないからな、アルト。
そんな強い決意と共に竜の前に立った私は、
「はじめまして、私は麓に領地を構えさせていただいておりますジャン・ドワイト家の」
「語るに及ばぬ」
「は?」
「汝の言葉に真はない」
初対面の相手にここまで言われたのは、さすがに初めてだ。
むしろ、人当たりのいい好青年とはよく言われてたんだけど。
え、まさかいきなり私の冒険はここで終わってしまった、みたいな?
縦に割れた爬虫類の瞳、ただまっすぐに睨みつけられただけで心臓すら止まってしまったように身体が動かない。
重さを感じない動きで近付いてきた竜は、その鋭い爪で私の頭を器用につかんだ。
「だから、汝の魂に聞こう」




