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牙ある羊・5

 シラノが雪中で出会ったのは、三人の少年だった。

 三人とも口元まで覆い隠すような防寒具を着込み、まともに雪を見た事がなかったシラノからすれば、こういう格好が普通なのか、と妙な感心をしてしまう。

 まず目に付くのは、巨大なオークである。

 シラノくらいならぱくりと簡単に食べられそうな大きな口からは牙がにゅっと突き出し、縦にも横にも大きな身体は少しばかり怖くて身がすくむ。

 だけれど、その割に円らな瞳は意外なほどに優しげで、ここでシラノが大袈裟に怯えてみせれば彼は傷付くのではないか、なんて思ってしまった。

 もう一人は一見すれば、普通の少年だ。

 ただ一目見た瞬間、シラノは彼の事をすっかり嫌いになっていた。

 それは凍り付いた金色の前髪の下にある、青い目だ。

 少し垂れがちな目は、はっきりとシラノを見下していた。

 何故そう思うのかはわからない。

 だが、はっきりと、この少年がシラノだけではなく、目に映る全てを見下しているような気がしたのだ。


「その、君はなんというか……人間?」


 そんな失礼な事を言い出した少年に、シラノは何と答えるべきか迷った。

 どこからどう見てもシラノは人間に決まっている。

 優しく撫でられる柔らかな髪の毛も、母譲りの綺麗な顔も、どこからどう見ても人間だろう。

 真面目に返事をする気にもなれやしない。

 いっそ、ここで斬ってしまおうか、と思うくらいにはシラノは彼が嫌いになった。


「…………?」


 そう思った瞬間、彼は半歩だけ後ろに下がる。

 不思議そうな表情を浮かべながら下がった彼は、自分でもどうしてそうしたのかわかっていないのだろう。

 もしも、あと瞬き一つでもシラノの間にいれば、斬っていただろうに。

 シラノは自分を証明しなければならないのだから、今更死体を重ねる事に躊躇はない。

 この少年を斬るのに、特に躊躇せずにいける。

 優しい目をしたオークの人相手では指が鈍るかもしれないが、それが必要ならやるだろう。


「……ジャック、もっと行け」


「そこはほら、リーダーが話しかけるべきじゃない?」


「……オーク、怖がられる」


「そういうレベルの相手な気がしないんだけど……」


 何やら話している彼らに、シラノは背を向けた。

 斬る必要もなく、自分を証明するために彼らは何一つ意味を持たないだろう。

 それよりも、遠くから感じる何やらひたすらに巨大な物を目指すべきだった。


「あ、ちょっと!」


 今にして思えば、シラノはずっとこれを感じていたような気がする。

 それは人であり、もっと細かい物であり、どうしようもなく大きな物だ。

 周囲の雪の一粒一粒を余すことなく感じられるように、山の麓にいる大きな人と、近くにいる小さな三人を感じ、山頂の途方もなく大きな物があった。

 大きな物を感じたお陰で、シラノは自分が小さな物を感じている事に気付けたのだ。

 それは不思議な気付きだった。

 

「な、なあ……俺達、なんであの子に着いて行ってるんだ?」


「いや、向かってる方向が同じだし、今から道を変えるのもなあ」


 背後から聞こえる声に煩わされる事もなく、シラノは大きな物に触れる。

 それは、ひたすらに大きかった。

 オークなんかよりも大きく、山よりも巨大で、そのくせ蝶々よりも軽やかだ。

 シラノが伸ばした何かでどれだけ(はや)く打ち込もうと、ゆらりと触れるように打ち込もうと、それははっとするほどに鮮やかに避けるのだ。

 それだけではない。

 軽さの中に、ごろりとした岩のような重さがある。

 それは決して動かず、ほんの僅かでもシラノが甘えた手を打てば、ぴしりと叩き付けてきた。

 軽やかに、それでいて重く。

 斬ろうと思えば斬れていた小さな物とは違い、この大きな物はシラノが見た初めての本物だった。

 大きな物の、このずっしりとした部分は、一体なんなのだろうか。

 シラノの身体が大きくなり、重くなれば手に入れられる重さではないように思えるが、かと言って闇雲に打ち込もんだ所で、軽いシラノは風に飛ばされる浮草のようにふらふらとするだけだ。

 自分がよくなっている、とは思う。

 この大きな物と触れ合う僅かな時間は、これまでシラノが生きてきた全ての時間よりもシラノを大きくしている。

 だが、どうしようもなく届かない。

 薄い薄い紙一枚が、どうしても詰められなかった。

 闇雲に追おうと届かず、だが待とうとすれば、自分でも気付かなかった隙にするりと差し込まれる。


「――っ」


 本物だった。

 シラノが生まれて初めて見た、本物だ。

 なら、この大きな物に届かないシラノは一体なんなのだろうか。

 ほんの一瞬、シラノの腹の底で燃える炎が消えた。

 ただそれだけで、シラノの奥歯が欠けた。

 それだけ堅く噛み締めなければ、今すぐ泣き叫んでしまうだろう何かが飛び出す所だったのだ。

 このぞっとするほど冷たい何かを避けるようにして動けば、シラノの奥をずしりと重く出来ない。

 だが、この冷たい大穴に足を踏み入れろと、大きい物は言うのか。

 逃げられない冷たい大穴を執拗に狙われ、ひたすらにシラノはそれを防ぎ続ける。

 嫌だと泣こうと、大きな物ははっきりと浮かび上がった傷口を責め立てる。

 踏み入れろ、と大きな物は言い続ける。

 出来るはずがないじゃないか!


「あ」


 連なっているのか、それとも一つの音なのか。

 自分の喉から出ているとは思えないくらいの大きな声が、シラノから飛び出すと共に、現実のシラノの足は一歩を踏み出していた。


「来たか、小鬼」


「殺してやる!」


 あっという間に距離を詰めたシラノの手に返ってきたのは、凄まじいまでの圧だ。

 こちらの鋭さはふわりと受け止められ、そのくせ一歩も動かせない。

 抜けば斬れていた偽物とは違い、シラノの剣を受け止めた大きな物は、ひどく大きな爪だった。

 透き通るような真っ黒な爪が、シラノの鋭さをふわりと受け止め、あまりに鮮やかに刃筋を滑らす。

 それは器用に動かせる爪だけではない。

 手を変え品を変え、奇妙な角度から放たれるシラノの刃を、その身を包む鱗で滑らす。

 手応えからすればひどく堅いが、斬れない物ではないだろう。

 だが触れた瞬間、大きな物の鱗がするりと逃げていく。

 それは、竜だった。

 見上げるように大きく、ただひたすらに巨大な竜だった。

 青ざめた輝きを宿す竜は、想像していたよりも小さいが、それでも小山ほどはあるだろう。

 もし、何も知らずに出会っていれば、感嘆の声をあげる美しさがあった。

 しかし、


「わがはいに触れるな!」


 ただどうしようもなく、竜が憎い。

 嫌な所に触れる竜が。

 もしも鬼ごっこをすれば誰も着いてこられないような速度で走り回るシラノは、力一杯斬り付け、偽物なら斬られた事に気付かずに歩いていくだろう疾さを繰り出し、向こうから当たりにくるような鈍さを宿した刃を踊らせ、手首から肩から腰まで痛めるような奇妙な角度で刃を流す。

 そして、その全てが何の意味もなかった。

 斬れるはずの鱗には毛筋一つの傷すら与えられず、それどころかのっそりと繰り出された爪の一撃でシラノの剣の切っ先が最初からそうだったかのように斬られる。

 

「ぐっ!?」


 柄に手応えすらなく剣を斬り飛ばすのは、シラノにも出来るだろう。

 しかし、こうして当然のようにやられてみれば、それこそ子供とドラゴンのように途方もない差があるという事だ。


「認められるかァ!」


「まず、認めよ」


 どことなく男性的な声をしたドラゴンの動きは案外、人に似ている。

 四つ足と二本足の差はあっても、重心をふらつかせない事が肝要だ。

 偏りは停滞を生み、その停滞を選んで斬れば、シラノは竜の鱗も斬ってみせるだろう。

 だが、その停滞がどこにも見当たらない。

 竜の手足が届かない背に駆け上がろうと、簡単に対応されるだろうという予感すらあった。

 色気すら感じる白い喉元にはっきりと見える真っ青な逆鱗にこそ停滞があるが、明らかなまでの誘いだ。

 そこに飛び付けば、シラノは死ぬだろう。

 そう強く確信出来る。

 理性が言葉にするだけの根拠を生み、直感がこれまでにない強さで語りかけてくるほどだ。

 理性と感覚が、同時に訴えてくる死のビジョンである。


「――ふぅ」


 だからこそ、シラノはゆっくりと息を吐いた。

 それしかないのなら、そうするしかないのだ。

 どう足掻いても届かないのなら、理の外にある何かを掴まなければならない。


「遊ぶように死線を越えるは良し」


 だが、


「届かぬのなら無意味よ」


 稲妻が落ちてきた。

 斬線は、ただ真っ直ぐに。

 全力で振り下ろしたシラノの刃を、竜はあっさりと撃ち破った。

 より鋭く、より疾く、より力強く。

 言い訳の余地すらないくらいに、シラノは竜に劣っている、と認める他ない一撃だった。

 鋼の剣を断ち切り、柔らかなシラノの胸を抜け、シラノの心すら綺麗さっぱりと、竜の爪は斬っていた。


 シラノは、自分が偽物だとどうしようもなく思い知らされた。



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