牙ある羊・1
シラノが初めて人を殺したのは、四歳の頃だった。
相手は腕自慢の自由騎士、という名の食い詰め者である。
「我輩こそは天下無双の自由騎士ヒューバッハ・ヴァンフォーレである!」
何やら喚き散らす自由騎士の言っている意味がわからず、シラノは母に聞いた。
「あのおじさんは何を言ってるの?」
「自分が一番強いんですって。ただの物乞いのくせに声だけはでかいんだから。そんな事より、水汲みに行ってらっしゃい」
「はぁい」
自由騎士と自称する者達の大部分は、無職である。
武技を磨くために諸国漫遊の旅をしている自由騎士でござい、と言うのは美しいが、無職であるからには金がない。
名の売れた一流所なら田舎貴族に何やら大層な武勇談の一つや二つ聞かせてやれば、帰りに多少の路銀くらいは渡してくれるだろう。
だが、しょぼくれた十把一絡げの自称自由騎士が出来る金策といえば、萎びた田舎の村で声を張り上げるくらいだ。
一手指南するもよし、数食分の食料を渡すからとっとと出ていけ、と言われるまで粘るもよし。
武装したならず者に暴れられるくらいなら、村人も少しばかりの食料を恵んでやった方がマシだ。
自由騎士などという連中は、せいぜい山賊よりは多少マシ程度の無職である、
そんな事情を知らないシラノからすれば、ピカピカの(見える所だけ必死に磨いている程度で、都に行けば鼻で笑われる貧乏臭さの)鎧を身に纏った騎士は大層かっこいい物に見えていた。
「いい子ね、私のシラノ。貴方は私の天使よ」
かっこいい騎士も好きだが、自分の癖の強い髪をくしゃくしゃと撫でる母の細い指が、シラノは好きだ。
シラノは、シラノとよく似た母の癖の強い金の髪が好きだ。シラノは、母の痩けた頬が好きだ。シラノは、魔法のように美味しい料理を作る母の手が好きだ。
ただカブのシチューだけは、どうにも苦手なので、それだけはちょっとやめて欲しかった。
母と別れたシラノは、小さな壺を抱き締めるようにして近所の小川へと向かう。
うんしょ、うんしょと壺の運ぶシラノの癖の強い髪を、村の大人達はにこにことしながら撫でていく。
シラノは、みんなが優しいこの村が好きだった。
「ねえねえ、おじさん。こくしむそーってなあに?」
その帰り道、抱えた壺の重さも忘れて、シラノは少し嬉しくなってしまう。
いつも大人ぶった年上のサリサが知らない事を、シラノは知っているのだ。
それどころか自由騎士の周りに集まる子供達も知らないらしい。
「ぼく知ってるよ。こくしむそーって一番強いって意味なんでしょ?」
「そうなんだ、シラノはすごいね!」
今日ばかりはいばりんぼのサリサに、シラノはふふんと胸を張ってやった。
「おじさんつよいのー?」
「ああ、勿論だ。なんならまとめてかかってきなさい、君達」
自由騎士のおじさんはどうやら子供が好きなのか、厳つい髭面に笑みを浮かべる。
周りに集まった子供達は、その辺りで拾ってきた木の棒を片手にきゃーきゃーと打ちかかっていく。
「おっと、なかなかやるな。だが、我輩は負けん!」
その全てをひらりひらりと避け、鞘で打ち払っていく様は何とも格好いい物にシラノは見えた。
「水汲みの途中でしょ?おばさんに怒られるよ」
「す、少しだけだから!」
うずうずとした気分そのままに、シラノは他の子供達と同じように自由騎士へと向かっていく。
「お、来たのか、シラノ」
「力を貸してくれよ、シラノ!」
「うん!」
シラノは騎士ごっこが好きだった。
まだ小さく、かけっこでは勝てないシラノが、この時だけは主役になれるから。
「おお、また敵の援軍か!」
もし不幸があるのなら、この自由騎士が子供好きだった事だろう。
子供に合わせて腰を落としていた自由騎士の動きは、油断なく戦場に立っている時に比べればひどく鈍く、また子供でも頭に木の枝が届く高さに合わせていた。
そして、もう一つの不幸は、
「ぬう!?」
思わず呻き声を上げるほどの、シラノの剣才である。
それも尋常一様の才ではない。
シラノが振り下ろした木の枝は、鋭く空気を切り裂きながら、騎士の頭上に落ちてくる。
その斬撃の鋭さは、一端の騎士である、という顔をした大人でも放てるかどうか。
しかし、騎士が全てが終わった後から考えてみれば、その一撃は大した物ではなかった。
致命の刃が常に交わされる戦場の中では、という但し書きが付くが。
鍛え抜かれた騎士の技は、反射的に刃の軌道に鞘を割り込ませ、命に到る一撃を予防する。
この年でこの剣勢、なんと恐るべき子供だろうか、と騎士の身に戦慄の実感が貫いた時には、全てが手遅れだった。
あるはずの衝撃はなく、振り下ろされていたはずの木の枝が、いつの間に鞘の下を潜り込むようにしているのが、騎士の意識の外で見えた。
それは、天使が囁いたとしか思えない魔技である。
「あ」
と声に出したつもりが、騎士の口から溢れたのは、鮮やかな血の塊だ。
何をどうしたのか、防いだはずの木の枝は深々と自分の喉笛を破り、頚椎まで届いているのが騎士にはわかった。
「やったあ!ぼくの勝ちだね!」
どう、と倒れ込んだ騎士の目に映ったのは、天使のような少年の姿だ。
悪気なんて物はこれっぽっちもなく、あどけなく微笑む幼い少年の姿だった。