君に花束を捧げる事しか出来ずに
八歳となった一年が、終わりつつある。
生い茂っていた草木は枯れ、踏みつける感触は霜が混じっていて少し面白い。
遠くの山々から、雪の気配が近づいていた。
「二十七頭!」
とはいえ、私の日常はさほど変わりはない。
日の出より少し前に起き出し、山を駆け下り、町を抜け、目に付く野生馬の群れを数えたり。
爺のように確実に、とは言えないが、多少は成長が感じられるようになってきた。
少しばかり違う点と言えば、隣に爺がいないだけだ。
この数か月、ふらっとどこかに消える事があるんだが、何をしているんだろうか。
まぁあの髭面、見てて楽しいわけでもないし、いないならいないで構わないんだが。
それに爺がいないなら、大声で歌いながら走っても恥ずかしくない。
声を出しながら走るとか最初は出来るはずがない、と思っていたけど人間、意外と慣れる物なんだなあ。
聞いているのは眠りにつきつつある草花と馬達だけ……何故、彼らは全速力で遠くへ走り去っていくのだろう。
不思議だ。
爺がいない時に限って全力疾走する馬群をよく見かけるのは、本当にどういうわけなんだろう。
「よう、坊ちゃん!今日も精が出るな!」
「お……おはようっ!」
一年も走りまわっていれば、顔も覚えられるし、私も覚える。
朝の陽ざしが強まってくる時分、ドワイトの街を走り抜ければ声くらいはかけられるようになってきた。
息も絶え絶えな子供が走ってれば、そりゃ目立つだろうしなあ。
朝以外はあまり顔を出さないから正確な所はわからないが、遠くから見るしょぼくれた印象とは違い、街はそこまで寂れた感じではない。
まぁ都会かと言われたら、そんな事はないのだろうが。
だが爺の授業曰くこの街は国一番の岩塩鉱山らしく、仕事前の炭鉱夫達が寒そうに歩いているのが目についた。
そんな彼らをアテにして、ちょっとした食べ物を売る屋台もちらほらと見える。
ドワイトの街は山から吹き下ろす風がとても冷たく、しかし走り続けて火照った身体にはそれが心地よくすらある。
街は、いまだに違和感があった。
アスファルトとコンクリートで覆われた東京ではない、強い土の匂いが鼻に残る。
前世ではほとんど嗅いだ事のない匂いだけれど、意外と嫌いではなかった。
岩塩を運び出すために広く取られた道の横には、石作りの建物が立ち並ぶ。
生まれた当時なら違和感しかなかったこの光景も、今では素直に自分の故郷と思えるようになってきた。
むしろ、東京生まれ東京育ちの身としては、田舎に故郷のある人間の話を聞くのが好きだったのである。
東京で数年、地元を離れれば人どころか、建物すら変わってしまう。
覚えている景色はいつもあやふやで、それがどうしようもなく嫌だった。
布団に入った暗闇の中、ふと他の土地に住んでみたいと思う事はあっても、いきなりそれをやれる勇気も覚悟なく、結局似たような所をぐるぐるとしていただけだ。
そのくせ似たような知らない人達と、似たような新しい建物に馴染めるわけでもなく、私はどこまでも中途半端だった。
今の私は、あの頃と少しくらいは変われたのだろうか。
「おはよう、友達になってくれないアンリ!今日も元気かな!」
「あーもう!いつまでおなじこというんですか!あれはしつれいのないようにしようと思って緊張してたんですぅ!」
「あの時の事は絶対に忘れない、絶対にだ」
ぱたぱたとサンダルの音を立てて慌ただしげに歩き回るアンリに、私はにこやかに挨拶をした。
食堂はすでに空き始めていて、顔見知りもいない。少し残念だ。
どうやらドワイトの屋敷は再訓練をする怪我をした兵士達や、入ってきたばかりの新兵を鍛える施設であって現役はほぼいないらしい。
だから、爺がいる時は誰も近づいてこないのだ。いや、あのおっかない髭に睨まれたくないだけかもしれんが。
国中を駆け回る彼らの話は、いつも面白い。
ただどこぞの酒が美味い、どこぞの飯が美味い、どこぞのウエイトレスが可愛かっただの、そんな猥雑な話が中心だが、その中に混ざる各地の風俗はほとんど旅をした事のない私にとってはたまらない話だ。
昔、旅が好きで好きで仕方のない友人がいたが、彼の話は私の中にある写真だけの風景に肉付けをしてくれた。
鬱蒼と茂る熱帯雨林、大いなるガンジス川の畔で生きて死ぬ人達、どこまでも続く砂漠で殺し合う人々。
ふと考えたら何をしている奴だったのだろう、と思わなくもないが、彼本人よりもそういう空想の中にだけある、私が絶対に触れられない景色を聞く方が好きだった。
金銭を積めば、確かに私はジャングルまでは行けるだろう。
だが、そこまでの情熱は持てず、結局空想の景色は空想の中だけで終わっていた。
今にして思えば行っておけばよかった、と十年生きていても同じ事を言っていたに違いない。
「おまたせしました!今日ははじめてばぁばさんにごはんをつくらせてもらいました!」
「ありがとう、アンリ」
そんなどうでもいい事を考えていた私に、アンリが食事を持ってきてくれた。
他の席を見れば今日の朝の定食は山盛りのパンに、山盛りのサラダ、大皿のシチューのはずだが、不思議な事に私の所だけは山盛りのチャーハンに山盛りのサラダだ。
厨房からはばぁばがにやにやとこちらを見ていて、声を出さずに口元だけで私に意思を伝えてくる。
『わかっているな?』
アンリが作ったチャーハンは、ばぁばの作る米と卵が混ざりあった黄金チャーハンとは大違い……その、なんというかべっちょりした米に焦げた卵がへばりついている初心者のチャーハンである。
しかし、スプーンを握る私を見るアンリは、口元を隠すようにしてお盆を抱き締め、いかにも緊張しています、といった様子だ。
そんなアンリを見ながら、私はチャーハンを一口食べた。
「……ふむ」
「!?」
もう一口。
「……」
「…………ジャック様……?」
更に一口。
「……ど、どうですか?」
もひとつ一口。
「あ、あの……?」
『そろそろええ加減にしておけよ?』
ばぁばからの指令が来たので、この辺りにしておこう。
いやね、少しからかうと真面目に対応しようとして、涙目になるアンリが可愛いっていうか。
「うん、初めてにしてはよく出来てるね。美味しいよ、アンリ」
「ほんとうですか!」
ロリコンではないけど、妹が出来たみたいで少し嬉しい。
ふと、目が覚めた。
光源となる物が乏しい中世の夜は、耳が痛くなるくらいに静かだ。
江戸時代では職人の一日の手間賃が五百文、彼らが作る蝋燭が一本二百文ほどだったらしい。
一日の給料の半分をつぎ込んで得られるのが大して明るくもない蝋燭一本の明かりというのだから、わざわざ起きているよりもさっさと寝て、朝日の下で本でも読んだ方がよほどよろしいわけだ。
ドワイトの屋敷を囲む城壁は篝火一つなく、真っ暗な闇の中に沈んでいる。
私の部屋はロの字の形に建てられた屋敷の二階にあり、中庭がよく見える場所にあった。
「ああ」
唐突に私の口から洩れる声は、ひどく沈んでいる。
人に話せばよくある話と笑われるのだろうが、唐突に気分が落ち込んでしまったのだ。
理由を並べれば、いくらでもある。
私の接する人達は、小説の世界では全員が死ぬ。
ばぁばだけを何とかすればいい、と思っていた頃から考えれば、何とかしたいと思う線は自分でもうんざりするくらいに広がってしまった。
アンリを助けるのは当然だ、爺にだって死んで欲しくはない。朝、挨拶するだけの街の人達にだって死んで欲しくはないに決まっている。
兵士達だってそうだ、馬鹿な顔をして馬鹿な話をしている彼らに、死んでしまえと思えはしない。
だが、そんなどうしようもない運命は、原作通りのジャン・ジャックの行動をしなければ簡単に覆せる話だ。
大して覚えてはいないが、死ぬかもしれない選択肢を選ばず、主人公に敵対しなければいいのだ。
どんな馬鹿だって、死ぬとわかっている道に踏み込むはずはない。
ひどく簡単な解決法が見えている死の運命なんて、憂鬱の理由にはなりえない。
結局の所、こうして憂鬱な理由を並べた所で、理由付けした理由でしかないのだろう。
つまり、何となく、だ。何となくでしかない。
そんな何となくな気分で、私は窓を開けた。
冬の訪れが近づく風の一つでも浴びれば、この憂鬱な気分も少しくらいは晴れるに違いない。
中庭に、花が降っていた。
春になれば、小さく控え目に咲く中庭の花ではない。
薔薇のような刺々しさは無く、百合のような造形をした真っ赤な光を放つ花だ。
闇を切り裂くような強さは無く、そのくせ確かにそこにある赤い花々が、中庭一面に咲いている。
はらはらと降り注ぐ幻想的な花々は、地面に落ちればすっと根付いてく。
一本、また一本と根付く花々は中庭一面を覆いつくし、あっという間に赤い花畑が出来ていく様は、まるで赤い雪原のようで。
その中心にあるのは、墓だ。
母の墓だった。
「リリィ」
静かな静かな闇の中、声が聞こえる。
ひどく小さく見える背中は見たくなくて、弱弱しい声も聞きたくなくて、私は窓を閉める。
その日は結局、寝付けなかった。
「というわけで本日はお友達のいない若のため、お友達を連れてきました」
この髭、アンリにフラれた時いなかったくせに、どこで聞きつけてきやがったんだ。