名前のない喫茶店
道行く人の群れ。その中を暗い顔で立ち止まっている男が一人。
彼が何を思ってそこに立っているのかは、彼自身にしかわからない。
そんな彼の前に現れた一人の青年。
「辛気臭い顔……そんなんじゃ幸せも逃げてくよ、お兄さん」
男は光の無い瞳で青年を一瞬だけ見るが、すぐに顔を背ける。
「ほっとけ、君にはどうでもいいことだろう?」
男の態度に青年はため息をついて、男に背を向けて歩き出す。
「そんな自分を変えたいんなら僕の後についてきなよ。絶対変われるからさ」
そう言って、ゆっくり歩みを進める青年。
男はなぜかその背中を追いかけずにはいられなかった。
気づくと男は青年の肩をしっかりと掴んでいた。
「待て、君は俺をどこに連れて行く気だ?」
青年は男の方へ振り向くと、楽しそうな笑みを浮かべる。
「あなたが変われる場所だよ」
男は青年の言葉にわけがわからないといった表情をする。
しかし、青年は男のことなどお構いなしにその手を取り、真っ直ぐ進んでいく。
「いいから、騙されたと思ってついてきなよ」
青年の言葉に確かなものなんて含まれてはいない。
そして、男がこの青年について行くことで彼が変われる保証もない。
そう、何もないのだ。
しかし、男は青年の後ろをついて歩く。
男は青年の言葉に手を引かれたのではない。
背中を押された、そんな気がしていた。
その言葉に確かなものなんて存在しないが、男は保証のない不安の感情以上に暖かい光のようなものを感じていた。
男の中で再び生まれたその感情は、子供の頃、友達と見知らぬ土地を歩いたり、新しい遊びに挑戦した時の探究心・好奇心によく似ている。
青年の行く先に何があるのか、男はそれだけが気になっていた。
***
「ついたよ、お兄さん」
男が青年の後をついて歩いてから一時間以上が経過した頃、ようやく目的地に到着したようだ。
男はすっかりくたびれている。
なぜなら彼と青年が通って来た道というのは、ビルの裏や下水道、塀や屋根の上などどれも人が通るようなところではないからである。まるで猫が通る道を歩いているようだった。
「ここ、は?」
男が顔を上げると、そこにはレンガ造りで落ち着いた雰囲気だが、どことなく懐かしさを感じさせる建物があった。
その建物の壁は蔦で覆われ、その周りは綺麗な花壇で囲まれており、まるで小人の家のような可愛らしさも兼ね備えている。
その建物の入り口には看板が吊るされているが、そこには何も書かれていない。
何のお店なのだろうかと男が首を傾げる。
そんな男の考えていることがわかっているのか、青年はくすりと笑って言った。
「ようこそ、名前のない喫茶店へ」
男は青年に導かれるまま、おそるおそる店内へと足を踏み入れた。
チリリンと扉につけられていたベルが軽やかに音を立てる。
店内は高級そうなアンティーク調の家具や食器が並べられているが、表の印象と変わらず落ち着きがあり、店主の趣味なのか飾られている花の香りが店内中を包み込む。
男は初めて訪れた場所でこんなにもリラックスできたのは、これまでに無い経験であった。
青年はまっすぐカウンターに向かい、椅子に座った。
その慣れた様子から常連なのだということがわかる。
男が青年の隣に腰かけたのを確認してから、青年は近くにあったベルを鳴らす。
「マスター、お客さん連れてきたよ。いつものね」
青年の声を聞き、店の奥から出て来たのはなんと……
「ね、猫?!」
そう猫だ。
着ぐるみとか被り物といったたぐいのものではなく、紛れもない猫。
マスターと呼ばれたその猫は、セピア色の毛並みに縞模様が入ったスレンダーな猫であった。
猫は二足歩行で歩き、白いシャツに黒いベストとズボン、腰巻のエプロンを身に付けており、とても無愛想な顔をしていた。
マスターは青年の言葉にこくりと頷くと、目の前でコーヒーを淹れ出した。
きちんと豆から挽く、本格的なやつを。
「驚いたでしょ? ここはロンチーノさんが営む名前のない喫茶店。僕、彼女の淹れるカフェオレが好きなんですよ」
「え、彼女!?」
男は猫が喫茶店を営んでいることにも驚いていたが、それ以上にマスターが女性であることに驚きを隠せないでいた。
マスターであるロンチーノの顔立ちは、女性にしてはキリっとしており、目つきが少し悪いのだ。
男性に間違えられても可笑しくはない。
「あ、やっぱりわからなかった? 彼女はちょっと顔がきついのと、人見知りであまりしゃべらないからみんな間違えるんだよ」
青年をじろりと睨むロンチーノ。青年はそれを気にも止めず、話し続ける。
「彼女の声はすごく可愛らしいんだよ。顔とのギャップがまたいいよね」
「そう、なのか?」
男はちらりとロンチーノの顔を見るが、やはり無愛想な顔だった。
表情が全くと言っていいほど読めない。
コーヒーを淹れ終わったのか、ロンチーノはコーヒーが入ったカップと瓶から取り出したクッキーが数枚乗った皿を二人に差し出す。
「あ、どうも。いただきます」
男はロンチーノの淹れたコーヒーを一口飲む。
すると、コーヒーそのものの味と香りが男の鼻と舌を刺激し、男の身体全体に広がった。
「うまい……」
「でしょ? ま、僕は甘党だからカフェオレしか飲めないけど」
青年はそう言って、カフェオレを飲みながらクッキーをつまむ。
男もクッキーに手を伸ばし、口へと運ぶ。
クッキーのさくさくとした食感と、程よい甘さとバターの香りがコーヒーの苦みとよく合っていた。
「何て美味しいんだ」
ロンチーノは男の言葉に目を細めて、店の奥へと消えていった。
男はロンチーノの表情から怒っているのだと思い込み、慌てる。
青年は男が慌てる姿を見て、笑いながらこう言った。
「それ、彼女の手作りなんだよ。多分褒められて嬉しかったんだろうね」
「え? 喜んでたのか?」
ロンチーノはもともと無愛想な顔であることに加え、目を細めてしまったら元から悪い目つきが余計に悪く見えてしまうため、勘違いしても仕方がない。
「これからメインが出てくるよ。楽しみにしているといい」
「メイン?」
男は青年の言葉に、またも首を傾げる。
喫茶店においてメインはコーヒーではないのだろうかと考えていた。
「そう言えば気になってたんだが、なぜ君は私をここに連れてきたんだ?」
男の問いに青年はにっこりと笑みを浮かべ、こう言った。
「今にわかるよ」
青年の意味深な言葉に男はもどかしくなり、眉間にしわを寄せる。
そんな男を見て青年は楽しそうに笑った。
しばらくして、店の奥に消えたロンチーノが何かを持って戻ってきた。
そしてそれを男の前に差し出す。
「……これは、マドレーヌ?」
男の前に出されたのはバターの甘い香りを放ち、程よい焼き色のマドレーヌ。
一見どこにでもありそうなそれに男は見覚えがあった。
彼はその瞳をこれでもかと見開き、勢いよく立ちあがる。
その衝撃で椅子が後ろに倒れた。
「なぜ、あなたがこれを……?」
ロンチーノは黙って男の目を見ている。
その目はまるで御託はいいから食べろと言っているようだ。
男はロンチーノの目を無視し、言葉を続ける。
「これは、このマドレーヌは見間違えるわけがない……俺の祖母が昔、俺に焼いてくれたものだ。なぜ、あんたがこれを作れるんだ、ロンチーノさん」
男の問いに、ロンチーノは何も答えない。
ロンチーノにしびれを切らした男は、カウンターの中へ乗り込もうとする。
しかし、それは青年によって阻まれる。
「レディに近づき過ぎるのは良くないね。とりあえず、彼女に手出しする前に食べてみなよ。お兄さん」
青年が止めたことで冷静さを取り戻したのか、男は一つ深呼吸をした後、椅子を戻して席に着く。
男が席に着いたことを確認すると、ロンチーノは閉ざされた口をゆっくりと開いた。
「さあ、お召し上がりください。お客様」
その声は透き通っており、まるで草原の風のように男の横をすり抜けていった。
聞いたこともないような可愛らしく、美しい声。
鶯のような声とは、まさにこのような声のことかもしれないと男は思った。
……声の発生源は猫だが。
ロンチーノの声には不思議な力でもあるのか、彼女に言われるまま男の手が勝手に動き、マドレーヌを自身の口へと運ぶ。
男はマドレーヌを口に運び、よく味わってから、飲み込む。
すると、彼は皿にあったマドレーヌを次々と口へ放り込んでいく。
マドレーヌを食べる男の瞳からは、涙が溢れていた。
「表面はさっくり、中はしっとり。味は少し甘めで少し歪な形のこのマドレーヌは、祖母が焼いたものと全く同じものだ。どうやってこれを……?」
男の問いには作ったロンチーノではなく、青年が答える。
「この喫茶店は、あなたのような心の疲れた方をお招きする場所です。ロンチーノ、ここのマスターはあなたの心に強く響く料理を再現し、あなたの心に光を差し込む。そんな場所なんですよ、ここは」
青年の言葉を聞いて、男は昔のことを話し始めた。
「……祖母は俺が落ち込んでいる時に、よくマドレーヌを作ってくれた。そして俺の頭を撫でながらいつも言うんだ。
『強くあろうとするのはいいことだけど、疲れた時はいつだって私のマドレーヌを食べに来なさい。きっと元気になれるわ』
そんな祖母も俺が高校の時に亡くなって、マドレーヌのことなんてすっかり忘れていたよ。あんなに食べていたのに」
男はその手の中にある食べかけのマドレーヌを見て、祖母の笑顔を思い出していた。
「あの頃の俺は祖母のおかげで、笑顔でいられたんだな……」
青年とロンチーノは男の表情に笑顔が見られたことに安堵していた。
「いいおばあさんだったんですね」
「はい」
ロンチーノはまたもや目を細めると、男にレースの白いハンカチをそっと渡す。
そのハンカチには彼女の優しさが込められているそんなような気がしていた。
「ありがとうございます。ロンチーノさん」
ロンチーノは男の言葉に首を振る。まるで気にしなくてもいいと言っているようだった。
喫茶店が和やかな雰囲気に包まれたと同時に、突然男の視界が歪む。
「え? なんで……」
男の視界が訳も分からないままに暗闇に包まれる。
遠くで青年の『タイムリミットです』という声が聞こえた――――
***
気が付くと、男は最初に青年と会った場所に一人立っていた。
男があれは夢だったのではないかと思ったが、彼の握っているレースの白いハンカチが夢ではないことを示していた。
そして、男は真っ直ぐ歩き出す。
彼の瞳には光が宿っていた。
終わり
小説を読んでいただきありがとうございます。
この小説は私の愛猫をモデルに書かせていただいたものです。
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