叶えば失うのである。
11.
寒いな、と思いました。
すんと鼻を鳴らして、顔を上げました。
寒いはずです。だって屋外です。ヘンゼルは、枯れたススキの生い茂る野原に、ぽつんとひとり、座っていたのでした。
何処で、何をしていたんだっけ。
ぼんやりと夢心地で、記憶を辿りました。
「あぁ」
勇者ごっこしてたんだ。
先生と、セヴァさんと、三人で。
館を探検していて、絵画の悪魔と戦って、勝ったと思ったら、絵に吸い込まれたのです。それで、気付いたら、此処でこうしていました。
「せんせえ?」
応える声は、ありません。
「セヴァさん?」
ざわざわ。聞こえるのは、ススキが風に揺れる音だけ。
「はぐれちゃった……」
立ち上がって、辺りを見回します。誰もいません。知らない場所でした。
ざわめく薄黄金の海が、何処までも広がるのみです。
掌に息を吹きかけ、摺り合わせます。手を繋ぐ人がいないと、今の時期はこんなにも寒いものなのか。ヘンゼルは、ぶるりと身を震わせました。
「あ!」
いいえ。いました。
二十歩ほど先に、目立つショッキングピンクの丸い物体が、放り出されたように転がっています。
ススキを掻き分け、駆け寄って、抱き起こしました。
持ち上げても、王冠は頭にくっついたまま。意外にずしりとして、両腕が塞がります。短くも柔らかい毛並みの、優しい手触りは、ひとりぼっちの心細さに、染み入る温かさでした。眠っているのか、呼んでも揺すっても眼を開けず、ただ乾いた鼻で、ぷうぷうと静かな息をしています。
やっと捕まえました。
でも、喜んでくれるセヴァも、褒めてくれるムゥも、いません。
「……ねぇ、君は、ぼくの願いを叶えてくれたんだね」
もうわかっていました。
この猫は、落人です。
宝箱の隠された洞窟。店での買い物。謎と仕掛けの不思議な館。読んでもらう本でしか知らなかった世界は、ずっとヘンゼルの憧れでした。やってみたかったのです。ムゥとセヴァと、いつか三人で、心躍る大冒険。
そんな密かな願望を、この落人は、何故だか具現化してくれたのでした。
「ネコさんも、いっしょに遊びたかったの?」
真意は知れません。
でも、あまりに魅力的な誘惑に、抗いきれませんでした。
その結果が、ひとりぼっちです。
ムゥとセヴァは、何処へ行ってしまったのでしょう。
怪我をしたり、怖い目に遭ってはいないでしょうか。
――あのときみたいに――、
「……ッ!」
焼き付いた光景が、目の前で、唐突に再現されました。
欠けた耳。囓られる腕、脚。臓物の臭い。血溜まりに倒れ伏すムゥ。
それは日常の何気ない瞬間、ふとした弾みで蘇ります。或いは食事の支度をするムゥの背に、或いは寸刻の微睡みの中に、なんの脈絡もなく、突然あの光景が差し込まれるのです。自動的に思い出してしまうのです。夢を見て、飛び起きることもありました。
そんなとき、確かめなければ気が済みませんでした。
ムゥは本当に生きているのか。
自分が見ていない間に、やっぱり死んでいるのではないか。
いや。むしろ、此方が夢なのではないか。
本当のムゥはあのとき死んでいて、自分はずっと夢を見ているのではないか。
いつか目が覚めて、その事実を突きつけられるのかも――
嫌だ。嫌だ嫌だ。
途方もない後悔に、押し潰されそうでした。
光の失せたムゥの眼が、今でも、頭から離れません。
あれは絶対に、己の迂闊な好奇心が招いた惨事です。
嫌だよ。まだ。
行かないで。傍にいて。もう少し。まだ。
僕を、あなたの子供でいさせてよ。
良い子にするから。
わくわくも、どきどきも、いらない。友達もいらない。
だから――そう決めたはずなのに。
あの洞窟で、ムゥは、ヘンゼルの好奇心を否定しませんでした。
それに甘えた。甘えてしまった。
「……バチが当たったのかな……」
ぐすんと洟を啜って、ヘンゼルは、眼を擦ります。
ぽろぽろと涙が、猫の額へ落ちました。
あぁ、きっと僕は悪い子なんだ。
だからこんなことになったんだ。
「うっう……ぐずっ……ふうぅ……」
どうしよう。
泣いていることが悲しくて、更に涙が溢れます。
こんな、誰もいない場所で、どうすればいいんだろう。
『――あぁ、よしてくれ。余計に気が滅入るじゃないか』
出し抜けにな子供の声に、ヘンゼルは驚いて、ばっと顔を上げました。
「だ、誰? どこにいるの?」
『こっちだ。まっすぐ歩いてきな』
眼を凝らせましたが、ススキの他には、何も見えません。
もしかしたら、自分より小さい子なのでしょうか。それとも気分でも悪くして、うずくまっているのかもしれない。ヘンゼルは、声の聞こえた方へ歩きました。
すると、萎れたススキに囲まれて、ぽつんと一本だけ。向日葵が現れました。
それだけです。声の主は、何処でしょう。
『ピーピーうるせぇんだよ。それでなくとも辛いってのによ』
此処でした!
ヘンゼルを呼んだのは、この向日葵だったのです。
「喋った!」
『喋っちゃ悪いかよ』
億劫に応える向日葵は、けれど元気がありません。
がっくり肩を落としたように、葉も花も下を向いて、項垂れています。すっぽりバケツで覆ってしまえるくらいの背丈に、乾いた葉。色褪せた花びら。痩せた茎やまばらに抜けた種が相まって、まるで小柄な老人です。それでいて、声だけは子供特有の、黄色い音域を発するのでした。
「ど、どこか痛いの?」
『見りゃわかるだろ。萎れてんだよ』
「どうして?」
『こう寒くっちゃな。やってられねぇってわけ』
言われてみれば、その通りです。向日葵は夏の花。
ススキと同時に咲いていることが、既におかしいのです。
そもそも、口を利く品種など、未だかつて聞いたこともありませんが。
『そうだ。あんた、夏を持ってねぇか?』
不意に訊かれて、ヘンゼルは、眉を跳ね上げました。
「そんなの持てないよ?」
『いや持ってるだろ。持ってるはずなんだよな』
強く畳み掛けられ、ヘンゼルは困惑します。
此処で気が付いたとき、リュックも刺股も、何も手に持っていませんでした。館に置いてきてしまったのなら、どうしようもありません。というか、夏って何? 持ち歩けるの? 荷物と言えば、ポケットに入るくらいの小さな……。
「……あっ」
閃いて、ポケットに手を突っ込みます。
摘まみ上げたコインには、はっきりと向日葵の刻印が刻まれていました。
“向日葵のレリーフ”。
『それだ!』
――まだ続いている!
どきん、と胸が高鳴りました。
猫の落人が創り出した物語が、法則が、此処でも未だ生きている。
だとしたら。
ヘンゼルは、レリーフを握りしめました。
これを使えば、先に進めるかもしれない。
先生たちと合流できるかもしれない!
「どうすればいいの?」
『空に投げてくれ。なぁに、軽くでいい』
使ってしまえば、もうきっと、自分の手には戻ってこないでしょう
なんとなく、そう直感しました。
三人で獲得したレリーフは、戦利品です。
文字通り、宝物にしようと思っていたのです。
正直言って、手放すのは嫌でした。
でも、硬貨は、使ってこそ。
それが価値というものではありませんか。
「わかった」
頷いて、ヘンゼルは、向日葵のレリーフを放り上げました。
コイントスの要領で飛んだレリーフは、しかし放物線を描くことなく、するすると風船のように空を昇り、曇天へ吸い込まれてゆきます。
やにわに厚い雲が割れ、そこから大きな太陽が、カッと顔を覗かせました。
『キたァーーー!』
向日葵が、歓声を上げて仰け反りました。
降り注ぐ陽射しを浴びて、その姿が、見る間に生長してゆきます。葉は瑞々しさを取り戻し、茎は太り、背丈まで伸びて、鮮やかに咲き誇る花びらの中、たわわに詰まった種の歯で、にかり。
『やっぱオレといえば夏だな!』
溌剌と笑うと、応じるように、蝉が鳴き始めました。
薄黄金のススキは、いつしか青々とした夏草へ代わり、ぎらぎらと輝く太陽が、抜けるような濃い青空で笑っています。肌寒さから一転、むわり草いきれに真夏の熱気が、ヘンゼルを包み込みました。ぽかんと口を開けて見上げれば、くしゃみがひとつ。あぁこれは、確かに夏です。
『ありがとな! 助かったぜ!』
見違えるほど立派になった向日葵が、びしり葉で敬礼しました。
「元気になった?」
『ああ。お礼に教えてやる。振り返って、まっすぐ歩いていきな。きっといいことがあるからよ!』
言われて、ヘンゼルが振り返ると、いつの間にか夏草が左右に分かれ、一本の道を作っていました。
正解です。
これでいいんだね? とばかりに、ヘンゼルは、猫を撫でました。
ぴくり、と髭が一度だけ、頷くように振れました。
「ありがとう!」
『おう。気を付けてな!』
向日葵に手を振って、ヘンゼルは歩き始めました。
向日葵は、その背中に、葉を振り返してくれました。
†
猫を抱いて歩きます。
脱いだスモックを頭に被ってはいますが、それでも夏の暑さは、容赦なく全身に突き刺さります。陽射しを遮るものなど、日陰のひとつもありません。数歩進んでは汗を拭い、蝉の合唱に勇気づけられ、ヘンゼルは歩きました。
しばらく行くと、道を塞ぐ生垣に突き当たりました。
たぶん、椿だと思いました。
というのも、青いのです。葉や花の形は、ヘンゼルの知っている椿なのですが、色だけが、あの空のように真っ青でした。それが生垣を作っているものですから、己の認識が不安になる光景です。
『ちょっとアンタ!』
一輪が、甲高い声で話しかけてきました。
思春期の少女めいた、まだ少し幼さの残る、でも女性の声です。
いきなり怒鳴られたので、ヘンゼルはビックリして、後退りました。
「ご、ごめんなさい!」
『何が? 別に怒ってないんだけど?』
咄嗟に謝ってしまったのが、余計に機嫌を損ねたようです。
椿の蘂がわなわなと震えて紅潮し、唇へ変わりました。
それで、捲し立てるのです。
『あたしはね、困ってんの。暑いのよ。なんなのこの意味わかんない暑さ。あの空の色に染まっちゃって、見てよこれ真っ青よ! おかげで、あたしの美しい紅色が台無しじゃない! どうしてくれんの!』
奇しくも、原因の一端はヘンゼルでした。
先んじて謝ったのは、まさに正しい行為だったようですが、話がややこしくなりそうなので、ここは黙っておきましょう。
というか、普通に怒っていますね。
『アンタ、冬とか持ってない?』
「これ?」
スモックのポケットから取り出して見せたレリーフに、生垣の椿たちが一斉に、顔を向けました。
そう見えたのです。だって、すべての花びらの真ん中が、唇になっていたのですから。
『それだわ!』
『ねぇそれを頂戴!』
『暑いの、暑いのよ』
『もう堪んないわ!』
『なんとかしてよ!』
椿たちが、きゃあきゃあと騒ぎ始めます。
あまりの姦しさに、ヘンゼルは、頭がくらくらしました。
早くしないと、四方から囓られそうな勢いです。
おっかなびっくり、椿のレリーフを、代表格らしい一輪の唇に押し付けました。
ちらり覗いた舌が、味わうように、レリーフを舐め取っていきます。
その赤さと肉厚の感触に、ヘンゼルは、ちょっと変な気分になりました。
『んっ……ん』
椿がレリーフを呑み込んで、彼女たちの喧騒が、ぴたりと止まります。
しん、と注目が集まる中、レリーフを呑み込んだ椿の色が、変わり始めました。中央から、花びらの先へ。絵の具めいて青に赤が混じり、最初は紫に。そこから赤へと、じわり染まってゆきます。その一本がすっかり赤に染まっても、まだ終わりません。滲むように、周りの椿へと赤は進んで、波及した色が、放射状の階調を作りました。
ゆっくり咲く花火みたいだ。
ヘンゼルが見惚れていると、椿たちが、ふうと深い息を吐き出しました。
とても冷たい息でした。それは木枯らしとなって、びゅうと渦巻き、天へと昇ってゆきます。たちまち空が掻き曇り、見上げる鼻先に、はらり。一粒の白が落ちてきました。
雪です。冬になったのです。
突然の寒さに、ヘンゼルは、またくしゃみする羽目になりました。
捲っていた袖を、指先まで伸ばします。
『あぁ……生き返るわ……』
うっとりと零し、椿は溜息を吐きます。
小さな吹雪が通り抜け、そこの生垣が左右に割れて、花の扉が開くように、道の続きができました。
『……この先をまっすぐ行きなさい。いいことがあるわ』
「ありがとう!」
『べっ、別にアンタに感謝してるわけじゃないんだからね!』
「まだ怒ってる?」
『だから怒ってないわよ! ほんっとガキなんだから!』
椿の花びらが、いっそうポッと赤らみます。
女の子って、よくわかんないや。
スモックを着込み、椿たちに手を振って、ヘンゼルは歩き始めました。
†
一本道を歩きます。
冬の服装ですから、暑いよりは、よほどマシでした。それでも、吹き付ける北風は厳しく、ヘンゼルは何度も洟を啜ります。寒さのため、却って頬は紅潮し、耳が痛くなってきました。降り積もる雪が、そろそろ踝を超えそうです。この子に雪が当たらないように。腕の中、眠る猫をぎゅっと抱きしめれば、その温かさに、どうしてか泣きたくなって、白い息を吐くのでした。
『もしもし、お坊ちゃん。そのまま行くと危ないですよ』
何処からか声を掛けられ、ヘンゼルは、ぎょっと脚を止めました。
辺りを見回しても、誰もいません。
なんだか、さっきもこんなことがあったような。
「ど、どこ? だれ?」
『おっと、失敬』
目の前の空間が、がさがさと震えて、雪が飛び散ります。
紅葉の木が現れました。
雪で真っ白に隠れて、気付かなかったのでしょう。
『……これこのように。わたくしにぶつかるというわけで』
フフフと上品なテノールで笑って、紅葉はゆっくり頭を垂れました。
高価な三揃えを着込んだ紳士を想像させる仕草ですが、その優雅さに反して、姿はみすぼらしいものでした。所々まばらに落葉し、残った葉も茶色に褪せて、張りを失い、乾いています。可哀想に、禿親父です。いや禿紳士?
『お見苦しくて申し訳ありませんねぇ。いえ、わたくしも好きで枯れているわけではないのでして。どうにも歳ですからフフフ。冬紅葉とはいかないようです』
それは樹齢じゃなくて、種類の違いじゃなかったな。
『そこで大変恐縮なのですが、坊ちゃん。秋などお持ちではありませんか?』
「あるよ!」
そう来ると思いました。
ヘンゼルは、紅葉のレリーフを掌に乗せて、差し出します。
『これはこれは! ……頂いてよろしいので?』
「うん」
『ありがとうごさいます!』
一枚の紅葉が、すいと伸びて、レリーフを摘まみ上げました。
五つに分かれた葉が、器用に動く様は、さながらヒトデです。双子人形のクイズで、セヴァが言っていたナントカ峠の話を思い出し、ヘンゼルはちょっと怖くなりました。僕が掴まれたりしないよね?
そこへもう一枚、傍の葉が伸びてきます。何をするのかと思ったら、二枚の葉でレリーフを握り込み、捏ね始めました。泥団子を作るみたいに、ぎゅっと押さえたり、くるくる回したり。何度か繰り返して、葉が開いたとき、そこにあったのは、小さな小さな、満月でした。
『フム。重畳』
紅葉が呟くと、小さな満月は、ふわり浮かんで、空に昇ってゆきました。
それが、不思議なのです。昇れば昇るほど、大きくなります。遠ざかるのなら、小さくなるはずなのに。もこもこ膨らみ、明るく眩しく育ってゆくのです。
月が輝きを増すにつれ、辺りは暗くなりました。雪は次第に弱まり、寒さは和らいで、辺りが秋めくたび、紅葉は赤く染まります。
やがて、しっとり暮れた夜空へ見事な満月が浮かんだ頃、完璧に紅葉した秋の葉が、ざわり風に揺れていました。
『月夜に紅葉。なかなか乙なものでしょう?』
紳士然とした声は、大層に上機嫌。
ウインクでも飛ばしてきそうな、大人の色気を漂わせていました。
『ありがとうございました、お優しい坊ちゃん』
「どういたしまして!」
『良い子には、お礼を差し上げなくてはいけませんね』
「……ぼくは……」
悪い子だよ。
ふと呟いて、俯いてしまいました。
悪い子だから、此処にいるんだ。
『いえいえ。あのコイン、大切な物だったのでしょう?』
「うん。でも、モミジさん困ってたから」
『ほうら良い子だ! 親御さんは賢い教育をなさっていますね』
本当は、他に目的があるのだとは、言えませんでした。
ムゥとセヴァを褒めてもらえたことを、台無しにしたくなかったのです。
「……やっぱり、ぼく、ずるいよ。良い子じゃないよ」
『大人には、多少の狡さは必要不可欠です。そもそも世の中なんて、適度に狡く、適度に善良な人々の集まりです。どちらに振り切れても破綻するのですよ。その間で葛藤できる強い心を育てた親御さんは至極賢明だと、わたくしは思うわけで』
「ぼく、七歳だよ。大人になるのは、ずっと先だよ」
『そうでもありませんよ、坊ちゃん』
子供の成長は、驚くほど早いものです。
どこか懐かしげに、紅葉は、さわりと満月を見上げました。
『さぁどうぞ。お受け取り下さい』
何を?
ヘンゼルは、訊ねることができませんでした。
紅葉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、落ちていたのです。
足元に大きな穴が空いて、そこへすっぽりと。
「えっ?」
咄嗟に猫を抱きしめ、ヘンゼルは瞬きします。
ぽっかり丸く切り取られた夜空と、そこに散る紅葉が、一瞬で視界から消え去ります。あとは、真っ暗でした。恐怖を感じる暇が、あったかどうか。ひたすら呆気に取られたまま、ヘンゼルは、唐突な暗闇に呑み込まれてゆきました。




