永遠など虚しいのである。
10.
再び一階、食堂へ戻ってきました。
夕陽は夜の帳へ代わり、窓の外は闇です。月光どころか、星ひとつ見えません。同じ廊下を逆に辿ってきただけなのに、微妙に空気が変わったようで、どことなく落ち着きません。周囲に注意を払うムゥの隣で、ヘンゼルもぎゅっと胸元に刺股を握り、辺りを警戒していました。
「戻ったぜ、旦那」
扉を開けると、髑髏は、まだ皿の上に乗っていました。
セヴァの持つ照明に、歯の抜けた顎が、にたりと持ち上がります。
『ファフィフォファフォ、ホッヘヒヘフヘ』
「わーッたわーッた、今喋れるようにしてやンよ」
「お前、歯の正確な順番なんて知ってるのか?」
ふと疑問に思って、訊ねます。
歯科医でもないセヴァに、そんなことわかるのでしょうか。
「知らねェ。でも見ろよ、これ」
セヴァは、がば、とムゥの目の前で、髑髏の顎を開いて見せます。
え、なんだこれ。気味悪さも忘れて、見入ってしまいました。
歯と顎の接触部分、いわゆる歯槽ですが、その窪みが、非常に特徴的なのです。もはや普通の歯根の形は四つほどで、残りは明らかに不揃い。丸や三角の窪みまであります。いや歯茎どうなってんだ。鍵穴か何かか? というか人間か?
「わぁ、パズルだ!」
「そういうことよ。ムゥ、明かり持ってろ。歯ァ寄越せ」
手渡されたハンカチを広げ、セヴァは髑髏を引っくり返しました。
歯の形や大きさ、歯根を照合しながら、詰めてゆきます。
「コイツが右の奥歯……ン、合わねェな?」
「いっこ前じゃない?」
「お、正解」
「これは上の歯!」
「後回しにした方が良さげだな、邪魔ンなる」
「じゃあこれ、左の奥歯!」
「丸は二個しかねェな、犬歯ァここだ」
「この顔みたいな穴は……」
ヘンゼルも加わって、髑髏に歯を詰めてゆきます。
なんて猟奇的なパズル大会でしょう。実際、ヘンゼルとセヴァは、見ず知らずの他人の頭蓋骨をいじくり回して、楽しげに歯を取っ替え引っ替えしているのです。強心臓にも程があります。
これ私が臆病なのか?
呆れつつも、いっそ感心しながら、ムゥは作業を見守りました。
「よし、最後の一本」
「ぼくやりたい!」
さして時間も掛からず、すべての歯が、顎に収まりました。
『ア、ア、ア、ヒャヒャヒャ!』
ヘンゼルが手を引いた瞬間です。
それまで、おとなしくされるがままになっていた髑髏が、けたたましい笑い声を上げました。
『可笑しや可笑しや! あぁ可笑しや!』
唾でも飛んできそうな剣幕です。
あまりの大声に、セヴァが耳を伏せました。
その手を滑り落ち、テーブルの上に陣取って、ごとり。髑髏は三人に向き直りました。かちかちこつこつと、生えそろった歯が、耳障りな音を立てます。
「何がそんなに可笑しいんだ?」
『こんな館にこんな客! なんと可笑しな取り合わせ!』
大きなお世話です。
こっちだって、来たくて来たわけではありません。ムゥは渋面します。
「旦那ァ。ご機嫌なとこ悪ィんだけどよゥ。猫の生首見なかったかい? 濃い桃色で、王冠を被ってて、にたにた笑ってる太ェ野郎なんだが」
『これは可笑しや! こんな館で! 猫の生首をご所望とは!』
そこはまぁ、反論できません。
改めて考えると、とんだイロモノを追い掛けてきたものです。
「で? 何処にいるんだ?」
『何処でにも! 猫は遍在する! いると思えば! 彼方にも此方にも!』
禅問答か?
どうも掴み所のない髑髏です。せっかく歯が揃ったのに、これで本当にヒントがもらえるのでしょうか。
「旦那ァ? 笑ってるだけなら、やッぱ歯ァいらねェなァ?」
ほら、セヴァが苛々してきました。
据えた眼で髑髏の鼻先に迫り、わざとらしい笑顔を作って、威圧します。
「俺等、そいつ探してンだわ。見ッけねェと先に進めねェわけよ」
『先へ! 進む! これは可笑しや! 此処は置き去りの館だというのに!』
「ねえ、どうして置き去りなの?」
そろそろ拳が出そうなセヴァを遮り、ヘンゼルが訊ねました。
実際、気になっていたのでしょう。
ムゥだって気になります。いったい何が「置き去り」の館なのか。
『願ったからだ! この私が!』
髑髏が、殊更大きな声で笑いました。
『死別の恐怖に耐えかねて! 愚かにも永遠を! 我が妻の熱を奪うな! 呼吸を奪うなと! すると奴が現れた! 私の肉体と引き換えに、奴は我らを時間の中に閉じ込めた! それから此処は置き去りだ! 月日の流れから取り残された、置き去りの館となったのだ!』
ァヒャヒャ!
呵々大笑する眼窩は、何も映さぬ伽藍銅。
もし彼に肉があったなら、その顔は、果たして笑っていたのでしょうか。
ちらと見れば、セヴァも怒気を削がれたのか、顰め面で腕を組んでいました。
ヘンゼルは不思議そうな顔をしています。
笑いどころが理解できないのでしょう。ムゥも同じでした。
「駄目だな、狂っちまってる」
セヴァが肩を竦め、どうしたものかと、視線を寄越したときでした。
“――わんわんわんわん!”
突然かつかつと、騒がしい爪音が、食堂に駆け込んできたのです。
「ワンちゃん!?」
そう、あの犬でした。
ヘンゼルが傘を描いてやった、ずぶ濡れの犬です。
どうやって絵から出たものか、しっかりと肉体を伴った犬は、驚く三人の足元を走り抜け、泥だらけの毛並みもそのままに、ぴょんとテーブルに飛び乗りました。
そうして、じゃれつくように髑髏へと伸し掛り、その剥き出しの骨を、ぺろぺろと舐め始めます。さも懐かしげに、愛おしげに。
『……ジョバンニ?』
ふと哄笑が途切れ、髑髏は、呟きました。
わん! 犬が元気良く応えます。
『あぁジョバンニ! お前ジョバンニか! 何処へ行ってたんだ!』
『わんわん! わん!』
『あぁ、あぁ、よし、よしよし。こんなに汚れて……すまない、迎えにも行けないで、すまなかった。お前ずっと待っててくれたのか? こんな愚かな主人を……』
『わんっ!』
『良い子だ、良い子だな。そうか。お前の方が迎えに来てくれたのか……』
『わっふ! わふ、わん!』
そうか。
絞り出すように言って、髑髏は、笑いました。
あの、ひび割れて乾いた哄笑ではありません。かつて幸せな時間を、確かに共に過ごした君へ。優しい贈り物のような、ねぎらいの慰めような、心の底から溶け出した、それは温かい笑い声でした。
『そうか……時間は……動き出していたのか……』
ひとしきり笑って、髑髏は、深く息を吐きました。
『どうやら君達は恩人のようだ。私は、これまでの非礼を詫びねばならない』
申し訳ない。言って、頭を垂れます。一見、頭蓋骨が斜めに傾いただけですが、おそらく最敬礼だったのでしょう。たっぷり数秒、三人は、涎塗れの頭頂部を見つめることになりました。唐突に態度の改まった館主に、眼を丸くしながら。
『捜し物があるなら、踊り場を調べてみるといい。此処で何か起こるなら、きっと彼処だ。彼処が、あれがすべての始まりなのだから』
髑髏の口調は、先程までとは打って変わって、威厳に満ちています。
たぶん、此方が本来の彼なのでしょう。
『感謝する。本当にありがとう』
面を上げた伽藍銅が、何故だか破顔したように見えて、その骨格が、すぅと霞み始めました。
ジョバンニと呼ばれた犬が、そこへ足取りを弾ませて、寄り添います。黒い眼は期待に輝き、尻尾は千切れんばかりに振られ、これから主人とお出掛けするのが、楽しみでしょうがないといった様子です。
『厚かましい話なのだが、最後に頼み事がある』
どこか寂しげに、けれど何かを覚悟した声音で、髑髏が口を開きます。
『できれば、でいい。あれを――』
妻を、解放してやってくれ。
吐き出すように言って、その姿が、ゆっくり消えてゆきました。
最高にゴキゲンな、ジョバンニと共に。
†
「ネコさん、いないね?」
再び訪れた踊り場で、三人は、絵画と向き合っていました。
窓一枚分くらいの、大きなキャンバス。描かれているのは、初老の貴婦人です。美人ではあるものの、笑っているのか困っているのか、よくわからない表情が印象的でした。背景に咲き乱れた桜は官能的なほど美しいのに、全体を覆う雰囲気は、奇妙に物悲しく、陰鬱です。タイトルとは裏腹に、鑑賞者の気を滅入らせる油絵でした。
「印は此処で間違いないんだが」
地図と絵を見比べ、それからムゥは、辺りに視線を巡らせます。
あのあと確認すると、館主の言葉どおり、踊り場に王冠の印が現れていました。でも、此処にあるのは絵画だけ。あの猫が隠れられそうな箇所はありません。花瓶の一つもないのです。
「どう考えても絵が怪しいよな」
セヴァが壁から剥がそうと試みて、すぐ諦めました。
外して持って行けるわけでは、ないようです。
「クマさんが閉じ込められてるの?」
ヘンゼルの質問に、ムゥは首を傾げます。
が、じき思い当たって、苦笑しました。
「あぁ、悪魔の話か。熊じゃない。悪魔だ」
「あくま?」
「人間の心の弱みに付け込んで、悪いことをさせようとするんだ。言葉巧みに誘惑して、不利益な契約を結ばせようとする。タチの悪い詐欺師みたいなものだな」
「悪い人が閉じ込められてるの?」
「閉じ込められているのは、そっちじゃない。この館の住人達だ」
「このお家に?」
「そうだろうな」
勘違いしているなら、そのままでいいでしょう。ムゥは話を切り上げます。
館の主人が言うには、此処の住人達は、悪魔との契約により、永遠の時間に閉じ込められたとのことでした。これはゲームで、そういう設定とはわかっているのですが、主人の遺言が、どうにも気懸かりでした。
月日を置き去りにした館。
フライパンも、犬も、人形も、満足して消えていきました。
逆に言えば、その心残りのために、囚われていたのです。
まるで落人ではありませんか。
妻とは、この絵の貴婦人で間違いないでしょう。
だとしたら、彼女は落人かもしれません。
……本当に、このまま続けて大丈夫なのだろうか。
ムゥは確かに、冒険を許可しました。でもそれは、落人がゲームを仕掛けた一体だけであるという前提の上です。もし、その前提から間違っていたとしたら。これ以上、踏み込んで良いのだろうか。
ムゥの脳内で、事態は悪い方へと転がり始めます。元来の性分に加え、ヘンゼルの安全を預かる責任感が、ムゥを殊更、心配性にしていました。
館の入り口は、開け放したままです。此処からでも、開いた扉が見えます。
まだ引き返せる。
「それにしても、このお婆ちゃん、なんだか……」
腕を組むムゥの脇から、ヘンゼルが進み出て、絵に手を伸ばします。
そのときでした。
穏やかに結ばれていた貴婦人の唇が、にぃと邪悪な形に吊り上がりました。
ばりぃ! 音がしたような気がします。
気付けば、目と鼻の先に、恐ろしい形相の貴婦人が迫っていました。
「うわあっ!」
咄嗟に、刺股を突き出します。
貴婦人は、両の二の腕ごと胸元を押さえられ、辛うじて絵の中に留まりました。が、それでも彼女はキャンバスから飛び出した上半身で、ぐぐと関節を変な方向に曲げ、ヘンゼルに掴み掛かろうとするのです。
「ヘンゼル!」
刺股を握るヘンゼルの手を、更にムゥが、後ろから握りました。
成人男性の腕力が加わったことで、僅かに貴婦人が後退します。
その横っ面を、セヴァが体重を乗せて、殴り付けました。
けれど、駄目です。ビクともしません。
「ど、どうしようどうしよう! 挟んじゃった!」
「落ち着けヘンゼル!」
落ち着けと言いながら、ムゥ自身が半ばパニックです。
ヘンゼルを抱きしめる格好で刺股を握ったまま、動くことができません。
迂闊でした。警戒を怠ったつもりはなかったのですが、疲れた頭で考え事をしていたため、反応が遅れたのです。なんてことでしょう。先の危険を恐れて、今此処に在る危機を見落とすなんて。
「セヴァ!」
今一度、セヴァが貴婦人に容赦なく蹴りを見舞います。
顔面を直撃したはずの衝撃が、何かに弾かれ、分散されます。
すかさず印を結んだセヴァの表情が、舌打ちして曇りました。
「……術が発動しねェ……!」
いったんは抑えた貴婦人が、じりじりと此方を押し返してきます。
仰け反るヘンゼルの鼻先には、貴婦人の、いやらしい笑み。
いいえ。もはや老婆です。
『ヒヒ、いひひヒヒ……』
嗄れた声と共に、老婆の顔が、更に変貌してゆきます。
歯が尖り、耳も尖り、品良く纏め上げていた髪は解けてザンバラに。口は裂け、白目を剥き、肌はどす黒い紫色に変わり、頭からは、山羊らしき角まで生えてきました。既に人間の容貌ではありません。
「わぁああっ! わーっ!」
ヘンゼルが頭を振ります。
視界を塞いでやることもできず、ムゥは奥歯を噛みしめました。
あぁ。これは紛うことなき悪魔だ。
この絵には、悪魔が取り憑いていたのだ。
ムゥは、遠い昔、教会の神父様が読んでくれた聖書を思い出していました。この異形は、あのときの挿絵そのものです。
……悪魔……。
「あっ」
古い記憶が、脳裏を過りました。
幼い頃、一度だけ見た悪魔祓いの儀式。
無論、本物の悪魔を祓ったわけではありません。作法の例として、神父様が手順を披露していたのです。あのとき使ったのは……。
「セヴァ! 聖水だ!」
ムゥの叫びに、額縁を蹴っていたセヴァが、振り返りました。
「はァ!?」
「早く! 私のバッグに入ってる! ピンクの小瓶だ!」
唐突な指示に、セヴァは二三度、瞬きます。
しかし、じき意図を汲んだのでしょう。
ムゥのヒップバッグに手を突っ込みました。
「わっ、わーっ! どうしよう!」
ヘンゼルが喚きます。
応じるように、より強い力が、刺股を押し返してきました。
「ヘンゼルもういい! 手を離せ!」
「だめ! 先生が危ないよ!」
床を軋ませ、踵が後退ります。
獰猛な鉤爪が、涎を垂らす口が、蠢く舌が、すぐ目の前で踊ります。
ムゥの額を、汗が流れ落ちます。震える腕は、限界です。
とうとう悪魔の腰が、額縁を乗り越えました。
「おらァ!」
間一髪。
今まさに鉤爪が届かんとしたところへ、セヴァが聖水をぶちまけました。
『ギャァアァアァ!』
凄まじい悲鳴を上げて、悪魔が顔を覆いました。
萎びた指の間から、どろり何かが滴ります。
絵の具でした。
劇薬でも被ったように、その全身が溶け始めました。角、爪、耳、口。油絵具の独特な匂いを撒き散らし、ぎいぎいと身悶えする度に、歪な形が縮んでゆきます。肌の色が落ち、髪が抜けても、まだ終わりません。肩が萎み、腕が細り、様々な色が混ざって丸く捏ねられ、楕円に再形成されてゆきます。
しゅっと黒い空気が、キャンバスから吹き出して、霧散しました。
そうして、其処に残ったのは、何がどうなったのか、ショッキングピンク。
あの、猫の生首でした。
でもどうしたのでしょう。引っくり返って、動きません。
ネコさん。ヘンゼルは呟きます。
ざざざあぁ。応えたのは、絵の中の桜でした。
桜吹雪が舞い踊り、視界が一面、染まります。
昇っているような、墜ちているような、不安定な感覚に、ヘンゼルは思わず眼を瞑りました。それでも桜は、瞼の裏に咲き乱れ、鼻腔をくすぐり、頭の中を春霞に塗り潰してゆくのです。
――あぁ。
綺麗だな。ぼんやりと考えながら、ヘンゼルの意識は、沈みました。




