世界は君のものである。きっと。
9.
館の探索も、いよいよ終盤です。
二階右手前。残りの一部屋。
三人は、その前に立っています。
「さァ、大詰めだ」
「ヘンゼル、用意はいいか?」
「うん」
書斎の鍵で、最後のドアが開きました。
まず目に付いたのは、向かって正面の、大きな本棚です。室内は落ち着いた装飾と家具で調和し、向日葵のレリーフを手に入れた寝室と同じ感性で統一されていました。左側にはテーブルセット、右側に机。多くの人が思い浮かべるであろう、まさに書斎です。
「先生の研究室と似てるね」
「確かに、ムゥと気が合いそうな趣味だ」
「私は住人の歯を無闇と抜いたりしないんだが」
机の上には、数冊の本が散らばっています。
赤、青、緑、紫、水色、橙、黄色、白、黒、茶色。
高さも厚みも変わらない、色だけが違う本が、十冊。
三人の視線が、再び本棚へと向けられました。
本棚ですから、もちろん本が詰まっています。でも、三段ある中段、その真ん中だけが、ぽっかりと空いているのです。ちょうど、数冊の――十冊ほどの本が収まるくらいに。
「おかたづけ? すればいいの?」
ヘンゼルが本を一冊、手に取ります。水色の本です。
ムゥが黒い本を。セヴァが白い本を。それぞれ同時に手にしました。
念のため、机の抽斗を引いてみましたが、こちらは動きません。
「十冊全部使うのか」
「さァな」
ページを捲っていたセヴァが、何やら渋い顔で首を振ります。
「まァ、やってみようぜ」
動く物は、使う物。
手に入れたということは、必要ということ。
これまでの法則では、例外なくそうでした。
三人で、本棚を埋めてゆきます。
「あれ、いっぱい?」
ところが、十冊すべては収まりません。
どう詰めても、三冊が余ってしまうのです。
並び方を変えてみたりもしましたが、駄目です。
何も起きません。
「やっぱりな」
セヴァが溜息を吐きました。
気付いて、ムゥも眉間を絞ります。
「順列か」
これは、並び順の問題です。
十冊のうち、七冊を正確な順番で並べる。そういうパズルなのです。
セヴァの仏頂面の理由が、わかりました。
十冊の中から、七冊を選んで、更に正しい順番を引き当てる確率は?
「604800通り……」
六十万四千八百。そのうちの、一つです。
溜息も出るでしょう。
「総当たりは現実的じゃないな」
「たりめーよ。苔が生えちまわァ」
「うーん……どうしたものか」
ムゥは手に余った本を一冊、開きます。赤い本でした。
ぱらぱらとページを捲っていると、真ん中の辺りに、絵が描いてありました。
絵というより、イラストです。物語の挿絵めいて、デフォルメされたライオンが二本足で立ち上がり、どういうわけか小さな虫に怯えている様子でした。
「なんでライオ……ん?」
どこかに挟まっていたのでしょう。
メモが一枚、足元に落ちました。
拾い上げて、目を通します。
虚に橋を架けよ。さすれば道が開けるだろう。
ただし、共に在る者は、決して引き離してはならない。
彼等は世界の中心なのだから。
見た目は大事。でもそれだけに惑わされずに。
さぁ、物語を綴るが良い。
「……まさか、これがヒントか?」
だとしたら、意味不明です。
セヴァと二人、額を付き合わせてメモに見入ります。
「橋ッてのは何のことだい?」
「さぁ。わからん」
「見た目……色かァ?」
「形は同じだしな。並んでいるというのは?」
「本の並びッてことかねェ」
「世界の中心?」
「そりゃァ俺様よ」
「お前を本棚に突っ込んでやろうか?」
話し込んでいて、ふと気付きました。
やけに静かです。
「先生、見て見て! 虹ができたー!」
得意げな声に顔を上げると、ヘンゼルが、本棚の前で両手を広げていました。
そうですね。ヘンゼル成分が足りませんでした。
大人達の議論が退屈だったのか、興味が先行したのか、一人で勝手に本を弄っていたのです。この子らしいなと、苦笑しつつ応じようとして、ムゥの眼が、はっと見開かれました。
「虹?」
「うん。七色なら虹でしょ?」
さも当然のように笑うヘンゼルに、ムゥは逸る気持ちを抑えて、訊ねます。
「樵はあったか?」
「きこり?」
「あぁ。その七色の中に、樵の絵が描かれた本は、あったか?」
「あったよ!」
ヘンゼルは、迷わず緑の本を抜き出しました。
受け取って、ページを捲ると、ありました。
真ん中の方に、鈍色の肌をした樵が、斧を構えている絵。
「セヴァ、手伝え。本の中身を確かめろ」
「中身ィ?」
「何が描かれているか――或いは、描かれていないか」
言いながら、ムゥは赤い本を開きます。
これにはライオン。
次に、青い本です。これには、案山子。
「魔法使いか!」
仮説を補強される快感が、ムゥの唇を持ち上げました。
魔道具作成の過程で何度も経験していますが、この瞬間は、堪らなく嬉しい。
「いいぞヘンゼル! 虹で合ってる!」
「ナンなんだよゥ?」
「そういう物語があるんだ。少女が竜巻で異世界へ飛ばされてな。元の世界へ帰るために、魔法使いに会いに行く。案山子、ライオン、樵と一緒にな。最後は虹の橋を渡って帰る。ほら橋だ! 虹の橋が架かった!」
「……ちょっと違くね?」
「違くない」
語り継がれるうちに、物語の枝葉が変わるのは、よくあることです。
ムゥが聞いた話と、セヴァが聞いた話は、少し違うのでしょう。
でも、大筋は合っているはず。
方向性は間違っていない。
「だけど、なんにも起きないよ?」
「何か……足りないんだ。もう一押しだ」
他の本は、すべて白紙でした。
どうして白紙なんだろう。
白紙であることに、意味があるのか?
「チビ、こいつ見てくれや」
セヴァが、メモを取り上げて、ヘンゼルに渡しました。
「ナンか思い付かねェか?」
生きた年月が邪魔をして、大人二人だと、無駄に難しく考えがちです。
間違いが何十万通りあるとか、確率の計算がどうとか、そういうことではなく、本質は、もっと単純な話ではないか。それこそ虹の七色のように、小さな子が遊びで辿り着く要素のある、これはそういった謎解きではないのか。セヴァは、思ったのです。
「うーん……」
ヘンゼルは、薄い眉を寄せて、じっとメモを見つめます。
「いつも一緒……世界の中心で……橋を架けて……物語を……」
綴る……。
「できた!」
腕を組んで、ぶつぶつ呟くこと、ものの数十秒。
ヘンゼルは、ぱっと表情を輝かせて、両の拳を握りました。
「カカシさんが先生、ライオンさんがセヴァさん、木こりさんがぼくだ!」
ん?
予想外斜め上の回答に、セヴァは、珍しく応答に詰まります。
「おチビ? そりゃァ……ナンの話だい?」
「お話考えるんでしょ? ぼく好きだよ!」
ヘンゼルは、リュックからスケッチブックを引っ張り出します。
「カカシさんとライオンさんと木こりさんは、仲良し。いつも一緒だよ。あるとき王様の冠が盗られちゃって、さあ大変! 三人で取り返しに行く。でも道が途切れてて進めないぞ! それで魔法使いにお願いしたら、あら不思議! なんと虹の橋を架けてくれた!」
どうもヘンゼルは、物語を綴れという一文に、甚く心を惹かれたようです。
膨らんだ想像を描かずにいられなくなったのか、みるみるスケッチブックの一面に展開されてゆく、大冒険活劇。豪快なタッチのそれを見ては、話を振ったセヴァも、苦笑いで頭を掻くしかありません。
「訊き方が悪かったな。ま、これはこれで痛快だ」
「配役はどうやって決めた?」
そこに、ムゥが食い付きました。
「どうして私が案山子で、セヴァがライオンで、ヘンゼルが樵なんだ?」
「そりゃアレだろ、お前が案山子ッぽいからだろ」
「違うよ。色だよ」
ヘンゼルは、本棚に収まった本を指さします。
「青い本にカカシさん、赤い本にライオンさん、緑の本に木こりさん。青は先生の色、赤はセヴァさんの色、緑はぼく!」
セヴァが、赤い化粧の眦で瞬きます。
ヘンゼルの、エメラルドめいた瞳が、きらきらと輝きます。
ムゥの、空色の髪が一房、はらりと額を撫でました。
「つまり、この本が俺達なンだな?」
ムゥの考えが伝わったようです。セヴァの表情が変わりました。
「あぁ。だから他は白紙なんだ。物語を」
「作るために、か」
「引き離してはならない。当然だ。勇者一行だからな」
「いっつも一緒だよ!」
「この三冊だけは、虹じゃない。セットとして扱う」
「あとは並び順かァ。三冊なら総当たりするかい?」
「ううん、決まってるよ!」
ヘンゼルが、本棚へ駆け寄ります。
「お人形の部屋、あったでしょ? なぞなぞしたところ」
青、緑、赤。
順番に本を抜き出す後ろ姿に、ムゥは、三脚の椅子を思い出します。
「あれ、ぼくらみたいだなって思ったの。いつもの並び順!」
「あ……」
ヘンゼルがもっと小さい頃、三人で出掛けるときは、必ず手を繋ぎました。
ムゥが左手で。セヴァが右手で。真ん中のヘンゼルを持ち上げて、ブランコなどよくやったものです。左右がいつ、どう決まったのかは憶えていません。けれど、それは今に至るまで意識すらしたこともなかった、三人の場所でした。
「そういえば……そうだったな」
「ははッ、寝るときの並びじゃねェか」
セヴァと顔を見合わせ、少しだけ笑って、本棚へ歩み寄ります。
ヘンゼルが、青い本を手渡してきました。
セヴァは赤い本を受け取ります。
「位置は?」
「そりゃァ真ん中よ。世界の中心だからな!」
「ということは、並び順は……」
橙、黄、青、緑、赤、水、紫!
「せーのっ」
ヘンゼルの掛け声で、三人が、それぞれの色を本棚へ収めました。
――かちっ。
何かが填まった音がして、一秒。
七冊の本が、虹色に輝きました。
眩しさに、眼を眇めます。
「先生! 本棚が……」
動き始めました。
ごご、ごごご。ぎこちなく滑るように、横へずれてゆきます。
埃が舞い上がりました。
口を結び、鼻を塞ぎますが、堪りません。思わず眼を閉じます。
ごごご、ごごごごご……、
ごうん。
音が止まりました。
立ち込める埃を払いながら、ゆっくりと眼を開けます。
ほぼ予想どおりの光景でした。
本棚の後ろ、四角く刳り抜かれた壁の中に、小さな宝箱があったのです。
「やったあー!」
「凄いぞヘンゼル! 天才だ!」
ムゥとヘンゼルは、抱き合って飛び上がりました。
「中はな……に?」
宝箱を開けたヘンゼルの眉が、疑問の形に寄りました。
入っていたのは、白い粒が十粒ほど。大きさはトウモロコシくらいですが、形はまちまちで、四角いものや平たいものが混じっています。
「なにこれ? 種?」
ヘンゼルが一粒、抓んでじっくり眺めます。
覗き込んだムゥは、まさかと顔を引き攣らせます。
「……歯だ」
やっぱり。見覚えがあると思ったのです。
「チビ、こないだ乳歯抜けたもンなァ」
「うん! 下の前歯!」
「何本目だい?」
「えっとね、二本目!」
微笑ましい会話ですが、ヘンゼルの手には、赤の他人の歯です。
いったい、どうしてこんなところに。
誰の……、
「あいつか!」
食堂の頭蓋骨。歯抜け髑髏の歯は、きっとこれでしょう。
「大事な物だから宝箱に入れてたのかな?」
「厳重すぎンだろ」
「誰が欲しがるんだ」
あ、私たちか。
これで主の話を聞くことができるのですから。
ムゥは、歯をハンカチに包んで、漏れないよう紐で縛りました。
『主の歯を手に入れた!』
でもやっぱり、正直、いらない……。




