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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
好奇心は猫を撫でる
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線引きが必要なのである。

8.






 次の部屋のドアは、寝室の鍵で開きました。

 ということは、此処が寝室です。

 まず目に付いたのは、やはり大きなベッドが二台でした。傍にサイドテーブル、間接照明に、キャビネット。いずれも王道で古風なデザインが、落ち着いた大人の空間を演出しています。


「あ! 犬!」


 ヘンゼルが、壁に掛かった絵を見付けて、駆け寄りました。

 室内用のためか、踊り場の絵とと比べれば、だいぶ小さなものでした。ヘンゼルのスケッチブックより一回り大きいくらいの、水彩画です。

 これもまた、奇妙な絵でした。

 一匹の犬が、雨に打たれて項垂れている構図で、その惨めな佇まいたるや、如何にも負け犬の様相です。まるで世界から見捨てられたような、いつまでも続く夜のような、空虚で貧しい犬の姿に、ヘンゼルは、胸が痛くなりました。


 “きゅん、きゅん……”


「えっ?」


 驚いて、辺りを見回しました。

 今、何か聞こえなかった?


 “きゅんきゅん、くぅーん”


 耳を澄ませると、やっぱり。

 犬の鳴き声ではありませんか。


「先生! セヴァさん! 絵が鳴いてる!」


 ヘンゼルの声に、部屋を探索していた二人が、足早に寄ってきました。


「なんだって?」

「ちょっとだっこして!」


 セヴァに抱えられて、ヘンゼルは、絵の犬と向き合います。

 “くぅん”

 ムゥとセヴァは、眼を丸くしました。


「本当だ」

「なんだい、主人を呼んでるのかい?」

「やっぱり聞こえるんだ」


 心なしか、犬は、小刻みに震えているように見えます。

 怖いのでしょうか。寒いのでしょうか。その両方でしょうか。俯いているため、表情こそわかりませんが、後肢に挟まれた尻尾は、怯えている証拠です。


 “くぅんくぅん、きゅん、きゅう”


「あぁよしよし。可哀想になァ」


 セヴァが、指先で犬の頭を指先で撫でました。

 意外にも優しい声音です。同じイヌ科として、思うところがあるのでしょうか。けれども、これは絵なのです。毛並みの感触が伝わるはずもなく、かすかすと、爪がキャンバスと擦れる音だけがしました。


「気の毒だな。何かしてやれないか?」

「ッても、絵だからなァ……」


 ムゥは、犬の頭上に、掌を翳します。

 ちょうど、傘になるような格好で。

 無意味なのは重々承知ですが、動物のこういう声は、どうも理屈なしに心を抉ります。深く考えた行動ではありませんでした。

 しかし、それを見たヘンゼルが、はっと眉を上げます。


「そうだ!」


 そして背負ったリュックを下ろし、中を漁りだしました。


「なんだ、どうした?」


 答えず、ヘンゼルは、探します。

 今回リュックの中身は、ヘンゼルが選んだのではありません。ムゥが見繕って、詰めてくれたのです。ヘンゼルのお気に入り。いつもお出かけに持って行くもの。それなら、あれが入っているはず。


「あった!」


 奥の方から取り出したのは、二十四色のクレヨンでした。


「ねえ、もういっかい、だっこして」

「足場が欲しいのか?」

「うん!」


 ヘンゼルの意図を察して、ムゥは、セヴァに目配せします。

 セヴァは頷き、窓際から、サイドテーブルを持って戻ってきました。


「それ動くの?」

「あァ。さっき()ッけたンだ」


 絵の下、踏み台になるように、サイドテーブルを設置します。

 ヘンゼルは、青いクレヨンを握って、立ち上がりました。

 靴を脱ごうとしたところで、ムゥが首を振ります。


「そのままでいい」

「いいの?」

「こんな場所だからな。いつでも動けるようにしておくんだ」

「お行儀悪いよ?」

「悪いことがわかっていればいい。今日は特別だぞ」

「うん!」


 サイドテーブルに乗ると、セヴァに抱えてもらったのと、同じくらいの高さ。

 改めて近くで見る絵は、筆遣いといい、色彩といい、素晴らしい完成度です。犬の境遇さえ気にならなければ、或いはそういうテーマだと納得できれば、多くの人に賞賛されるべき作品でしょう。それこそ幼いヘンゼルにも、わかるくらいです。

 本当に、こんなことをして、いいんだろうか。

 そもそも、誰かの作品なのに。


 “くぅん……”


 ぐっと、クレヨンを握りしめました。

 ごめんね、作者さん。

 心を決めて、ヘンゼルは、キャンバスにクレヨンを走らせました。

 うんと大きく、犬の頭上に曲線を引きます。こういうのは、思い切りが大事なのです。濃く、強く。雨を弾けと、願いを込めて。続いて、その両端を結ぶ線。今度はギザギザです。バランスを意識して、どちらかに偏らないように。

 繋がったら、内側をぐりぐりと青で塗り潰します。さすがに丁寧に塗っている暇はないので、荒っぽい手際になりましたが、要は背後の雨が透過しなければいい。これが物体だと、見る者が、犬が、わかればいいのです。

 最後は、真ん中辺りから柄を生やして――


「できた!」


 描き上がったのは、傘でした。

 幼い画伯の手によって、憐れな犬には、真っ青な傘が差し掛けられたのです。


「なかなか上手いじゃねェか」

「うん。力強いタッチがヘンゼルらしい」


 見守っていた二人が、口々に賞賛します。

 えへへと照れ隠しに笑って、ヘンゼルは、犬の頭を指で撫でました。


「もう濡れないよ!」


 本当に?

 とでも言いたげに、犬が、俯いていた顔を上げました。


「!?」


 そして、くしゅんと一発。くしゃみをして、きょろきょろ視線を巡らせます。

 傘に気付きました。

 見上げます。くんくんと匂いを嗅いで、此方に向き直ります。

 真っ黒な瞳が、きょとんと見つめます。

 ヘンゼルは、瞬きも忘れて、犬と見つめ合います。

 ぶるるるる! 激しい身震いと共に、水滴が飛んできました。

 咄嗟に身を引いたヘンゼルですが、それは髪の一本すら濡らさず、キャンバスの画面に当たって、流れ落ちました。まるで窓硝子越しの雨です。


 “わん!”


 今度は、犬自身が飛んできました。

 見えない窓硝子にぶつかって、きゅん。顔を顰めます。


「だ、だいじょうぶ?」


 不思議そうに首を傾げた犬に、ムゥとセヴァは、ひっそり瞼を伏せました。

 ……どうしたって、絵なのです。

 それでも犬には、関係ないのでしょう。キャンバスの向こう側に肉球を突いて、ぺろぺろと画面を舐め始めました。たぶんヘンゼルの頬を舐めているつもりです。これでもかと尻尾を振り回し、はっはと息を弾ませ、画面を曇らせては、嬉しげに吠えるのでした。

 わんわん!


「ありがとうッてよ」

「わあ! よかった!」

「お前、犬の言葉がわかるのか?」

「野暮だねェ……」


 犬は、尻尾を振りながら、傘の下をぐるぐる駆け回ります。

 雨は降り止まず、撫でてやることもできず、額縁に切り取られた静止画の中で、犬だけが生きていました。けれど絶対的に隔てられた世界の向こう、一匹の可哀想な犬が救われたことを、ヘンゼルは何より嬉しく思いました。


 “わふっ!”


 と、ある一点で、犬はぴたりと動きを止めました。

 足元の匂いを嗅ぎ、にわかに其処を掘り返し始めます。


「?」

「なんだ、糞か?」

「いや猫じゃあるまいし」


 景気良く泥を撒き散らして、数秒。

 出来上がった穴に鼻先を突っ込み、犬は、何かを咥え上げました。

 そうして、ぶんぶん尻尾を振りつつ、此方へ走ってきます。


 “わん!”


 ことり。

 わんぱくな鼻っ面が近付いて、画面いっぱいに広がったかと思うと、ヘンゼルの靴に、何か硬い物が落ちてきました。

 コインでした。


「え、え?」


 拾い上げてみると、表に向日葵(ひまわり)。裏には、あの猫が彫られています。


「くれるの?」


 “わんわん!”


「ありがとう!」


 “わん! わうぅーん!”


『向日葵のレリーフを手に入れた!』


 なるほど。そういう仕掛けだったのかと、ムゥは得心します。

 セヴァは素知らぬ顔で「忠犬だねェ」などと頷いていました。

 なんにせよ、ヘンゼルの機転と優しさが手繰り寄せた正解です。

 どうにか犬の頭を撫でようと苦心しているヘンゼルを見ながら、もうじき別れを正当化する理屈を考えている自分は、なんと面白くない大人だろうか。溜息を堪えて、ムゥは保護者の憂鬱に、笑顔を作るのでした。


「チビ。そろそろ行くかい」


 しばらくして、口火を切ってくれたのはセヴァでした。


「……そうだね」


 ヘンゼルは、サイドテーブルを下りました。

 散らばったリュックの中身を、淡々と片付け来てゆきます。名残惜しげではあるのですが、駄々を捏ねたり、犬を連れ出そうなどと無茶を言い出す気配もありません。構えていたムゥは、つい訊ねてしまいました。


「いいのか?」

「うん。ぼくらは、先に進まなきゃ。かわいそうだけど、それはたぶんワンちゃんとご主人様の問題。ぼくらができるのは、ここまで」


 刺股を持って立ち上がり、ヘンゼルは、絵の中の犬に手を振ります。


「さよなら。きっとご主人様が迎えに来るよ!」


 “わん!”


 行こう。

 振り返ったヘンゼルの笑顔は、ちょっと複雑で、でも賢明でした。

 何故だか一抹の寂しさが胸を突き、ムゥは、返事に詰まります。

 いくらかの未練を含んでいても、そこに固執するわけでも、それを捨てるわけでもなく。抱えて、引きずって、前に進む。この子は、いつの間にそんな選択ができるようになったのでしょう。

 予想外の素直さに、虚を突かれたというのもあります。けれど。

 寂しさと同時に込み上げる、この熱い感情は、なんなのか。

 親を知らないムゥは、誰に問うことも、できないのでした。







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― 新着の感想 ―
 まるでヘンゼルの書き足しを予想していたかのように「動かせる」サイドテーブル。 「必要なものしか動かない」ルールなのだし、子供がどう動くか想定した配置なのかしらん、とか思っていたのですが、今回はムゥの…
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