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ヒュプノランタン  作者: 雪麻呂
あの空を飛べたら
9/71

されど愛しき日常

9.






「それでね、今日はこーーーんなに飛んだんだよ!」


 パジャマ姿のヘンゼルが、クレヨンを振り回します。

 小さな手が七色に汚れてゆくのも構わず、ヘンゼルは、広げたスケッチブックで今日の出来事を語りました。やたらとデカい魚がニコニコと太陽を目指す構図は、これぞ六歳児の特権といった潔さ。


「トビーくん、ちょっと色が変わってきてるの。明るくてキラキラ」

「それは金色か?」

「うん! でもねー金色のクレヨンないの」

「少し茶色と緑色を混ぜるといい。影と光を意識するとそれっぽくなる」

「うんやってみる!」

「後で綺麗に手を洗うんだぞ」

「はーい!」


 いつも返事だけは完璧なのです。返事だけは。

 ヘンゼルを風呂に入れて、少し遅めの夕飯を終え、細々とした家事を済ませて、さぁ勉強の時間だとヘンゼルを掴まえたはずなのですが、掛算の復習が、いつの間にかお絵描きになっていました。よくあることでした。

 さっきまでヘンゼルとガチンコ早口言葉対決をしていたセヴァは、ソファで爪の手入れをしています。


「おチビ、七掛ける八に四足して五引いて一足して、いくつだい?」

「え? と……うーん……ごじゅう、よん?」

「惜しいなァ、もう一声」

「ヘンゼル、五十六だろう?」

「お前が答えてどォすんだい。誰の手習いさね」

「うるさい外野。クレヨン片付けるの手伝ってくれてもいいんだぞ?」

「こいつァ藪蛇」


 セヴァの笑い声を背に、ムゥは少し反省しました。

 彼の言うとおり、答えだけ教えるのでは勉強になりません。

 ヘンゼルの困っている顔を見ると、どうにも放っておくことができないのです。我ながら過保護だとは思いつつも、これは自分の保護者としての勉強でもあるのだと、肝に銘じました。


「すごい先生! なんでも知ってるんだね!」

「計算は練習あるのみだぞ」

「あ、じゃあ、じゃあね! わかる? トビーくんはどうして色が変わるの?」


 出し抜けに訊かれて、ムゥは言葉に詰まりました。

 そんなこと、ムゥにだってわかりません。落人は非常識なものなのです。これは此方も藪蛇でした。

 それでもヘンゼルの眼は、答えを期待してキラキラと輝いています。


「……水から出て太陽の光を浴びたからじゃないかな」


 つい、適当なことを言いました。

 ヘンゼルは、なるほどと大いに納得して、頷いています。

 いくらか罪悪感を憶えて、ムゥはセヴァを振り返りました。

 察したセヴァが、にんまり笑って片目を瞑ります。


「俺ァ、金色の蛙ゥ見たことあるぜ」

「そうなの!?」

「あぁ。いい気分で冬眠してたとこをよゥ、小便引っ掛けちまッたい」

「とうみん? とうみん、てなに?」

「それはね、ヘンゼル。変温動物と言って」


 いい具合に話が逸れました。

 ここぞとばかりに、ムゥが知識を披露します。

 ヘンゼルの眼が、またパッと光ります。

 ヘンゼルには、早くから読み書き計算を教えていました。頭が良く、学術的興味も強い子です。あと一年ほどで、入門用の術書を手解きしてやっても良い。単なる親の欲目ではなく、幾人もの術士を見てきたムゥが確かに認める才能が、ヘンゼルにはありました。

 いつか本当に、ムゥの助手を務めるようになるかもしれません。その日を楽しみにして、せいぜい今日は蛙の冬眠について語りましょう。






 ヘンゼルを拾ったのは、三年前のことです。

 忘れもしません。嵐の夜でした。

 水辺で培養していた薬草の様子を見に行って、大きな樹の洞で泣いているところを保護したのです。

 ぶかぶかのシャツを着て、靴は履いておらず、持ち物といえば、古びた懐中時計が一つだけ。身長はムゥの腰にも届きませんでした。正直、何処の乞食かと思ったものです。

 家路を急ぐムゥの背で、子供は、ヘンゼルと名乗りました。年齢は三歳。母親とはぐれて迷子になったらしい。いくら宥めても、ママ、ママと泣きじゃくるのが、なんとも不憫でした。

 帰り道が見付かるまで、いつまでも、うちにいればいいから。

 連れ帰ったヘンゼルに掛けたのは本心からの言葉でしたが、後で考えればまさにこの日から、ムゥの子育て奮闘記が始まったのでした。

 三歳の男の子です。食事と入浴の面倒も見なければならないし、しょっちゅう服を汚します。洗濯だけでも大変です。なにせじっとしていない。ちょっと目を離せば、あちこちに傷を作って泣いています。

 拗ねたり怒ったりすると、もう手が付けられません。機嫌を取るのには、コツが必要になります。無論、一方で不道徳な言動や度の過ぎた我儘は、毅然と叱らねばならない。この辺りの匙加減が、極めて微妙で難しいのです。

 毎日ヘトヘトになりながら、ムゥは、世の母親達を心から尊敬しました。なんという重労働でしょう。術の研究などより、よっぽど気苦労が多い。

 まさかこんなところまで来て子供を育てることになろうとは、ムゥは夢にも思いませんでした。言うに及ばず、育児など初挑戦です。妻帯した経験すらないのに、どうしてこうなった。頭を抱える暇もなく、増えた家事に追われました。






「……つまり蛙は気温が下がると体温も下がってしまうんだ。蛙だけじゃないな。トカゲとか蛇もそう。だから冬の間は眠って過ごす。厳密には仮死状態なんだが」

「…………」

「ヘンゼル? 聞いてるか?」

「………ん」


 唐突にヘンゼルの反応が鈍くなって、さてはと、ムゥは注意深く観察します。

 やっぱりでした。こくりこくり、軽く船を漕いでいます。ムゥが喋っていたものの数分で、眠気が襲ってきたのでしょう。ぷつんと燃料切れに陥るのも、ヘンゼルあるあるです。


「ヘンゼル、おねむか?」

「んーん……まだ……ねむくない……」


 ヘンゼルは頭を振って、クレヨン塗れの手でゴシゴシと顔を擦りました。


「こら、汚れるだろう。ちゃんと洗って…………ぶっ」


 ヘンゼルの手を除けたムゥは、思わず吹き出してしまいました。

 だってヘンゼルときたら、何色ものクレヨンで頬と鼻が奇妙に染まって、ピエロみたいなのです。その上、眠気のため半眼が痙攣し、口元には涎が垂れて、まるで大失敗の看板でした。


「うふふふ、ヘンゼル、お前」

「え……なに?」

「その顔! く、ふふふっ」

「なになに? 何がおかしいの?」

「あはははは!」

「おいおチビ、こっち向け」

「ねぇセヴァさん、ぼく何かヘン?」

「はははっ! おま、大惨事じゃねェか!」

「あはははは」

「ひゃははははっ」


 ヘンゼルは、何が起こっているのかわかりません。のみならず、ツボにハマった大人二人が笑うのをやめないので、だんだん苛々してきました。


「なに! なんなの! もう知らない! 二人ともいじわる!」


 とうとう拗ねて、ぷいっとそっぽを向いてしまいました。


「あ……す、すまん、ヘンゼル」

「…………」


 これはいけません。長引くと厄介です。こんなとき、言葉での謝罪は逆効果なのです。ムゥは咄嗟に考えました。まだ爆笑しているセヴァをしばくのは、後でもいい。早くヘンゼルの機嫌を取らないと。


「……ヘンゼル、ヘンゼル」


 呼ばれて、ヘンゼルはゆっくりと、恨めしげな視線をムゥに寄越しました。

 次の瞬間、への字に結ばれていた唇から、黄色い笑い声が弾けます。


「あはっ! あははははは!」


 無理もありません。

 右中指で思い切り鼻孔を広げ、無茶な角度で下顎を突き出し、左手で目頭を抓んで中央に引き寄せ、白目を剥いたムゥ必殺の変顔。貴重な衝撃映像を、至近距離でばっちり見てしまったのですから。


「きゃはははは! 先生ヘンな顔!」

「だろう? 私も変な顔だ」

「あははは! すっごくヘン! はははははッ!」

「おあいこだな? 仲直りだぞ?」

「うん! あはは! はははは!」


 あまりの馬鹿面に怒りも眠気も吹っ飛んでしまったらしいヘンゼルは、ムゥの顔を真似て笑い、それが自分で可笑しくて笑い、どうして笑っているのかわからなくなって、やっぱりきゃあきゃあと笑い続けました。

 機嫌は直りましたが、これはこれで寝かし付けるのに一苦労です。

 やれやれと苦笑しつつも、ヘンゼルの金髪を撫でてやるムゥの手付きは、今夜もこの上なく優しいのでした。







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