まずは基本を押さえるのである。
3.
『此処はチュートリアルノ洞窟だよ!』
セヴァの跳び蹴りが背中に炸裂、ムゥは倒れ込んで、顔で地面を削ります。
「はっ……私はいったい……」
「てめェが真っ先に引っ掛かってどォすんだ馬鹿」
とことん呆れた表情で、セヴァが見下ろしてきました。
衝撃で我に返ったムゥは、直ちにヘンゼルの様子を確認します。セヴァの小脇に抱えられて、きょとんと首を傾げていました。怪我は、ない。
「……嘘だろう……」
安堵と共に、猛烈な自己嫌悪が襲いました。
何をやってるんだ私は。
自分達は、誘われたのです。まんまと乗ってしまいました。手口からして、落人案件で間違いないでしょう。しかも自分が率先するとは。ヘンゼルを守らなければならない立場にいながら。つい先日、醜態を晒したばかりじゃないか。
はぁあああ。
深く沈痛な溜息が、洞窟内に木霊しました。
「……これ、あれだろう。入り口が塞がって帰れないパターンだろう」
「いや? 普通に出られるっぽいぜ」
「え」
振り返れば、確かに。
入り口からは光が差し込み、さっきまでいた野原が見えています。
「結界もねェな。少なくとも、悪意敵意は感じねェ」
すんすんと鼻を鳴らしながら、セヴァが辺りを見回します。
なんの変哲もない、ただの洞窟でした。
唐突に生えてきた事実を除けば、ですが。
「ま、時間経過でどォなるかわかんねェ。引き返すなら今だろォよ」
「よし!」
なら、さっさと帰ろう。それで見なかったことにしよう。
王冠は残念だが、安全第一だ。宝探しイベントは、また日を改めよう。
立ち上がり、ムゥは踵を返します。
「おしまい?」
数歩進んだところで、背後からヘンゼルの声がしました。
また失念していました。ヘンゼルにしてみれば、これはムゥの企画です。純粋に楽しんでいたのを、唐突に打ち切られた形になります。さぞ不服でしょう。
説明が必要だろうと、ムゥは振り返りました。
「違うんだ。これは手違いだ。いったん外へ、」
その先は、言えませんでした。
だって、ヘンゼルの顔。
虚無です。
怒りや悲しみどころか、未練も、不満さえ、見て取れません。完全な無でした。まるで作り物か、さもなくば昆虫です。およそ感情というものを知らない、何か別の生き物。一瞬でもヘンゼルがそう見えて、ムゥは、絶句したのでした。
この子が、こんな顔をするのか。
どうして? そんなに続けたかったのか?
「すまない、すまないヘンゼル。きっと埋め合わせをする、から」
「うん。だいじょうぶ。ぼく平気だよ」
しどろもどろ捲し立てるムゥに対して、ヘンゼルは、やはり眉ひとつ動かしません。淡々と頷き、セヴァの腕を解いて、服の埃を払います。
「仕方ないよね。危なかったら、困るからね」
――……なんてことだ。
全身から血の気が引いて、ムゥは、半ば気が遠退きました。
甘かった。
とてつもない後悔が、激しく胸を締め付けました。ヘンゼルの傷は、考えていたより、ずっと深かったのです。それを今、嫌というほど思い知りました。
ヘンゼルは、きっとシィちゃんの一件で、理解したのです。自分の好奇心が、気の向くままの行動が、時として、取り返しの付かない悲劇を招くことがあるという事実を。平穏な日常が、如何に脆く、危うい綱渡りであるのかを。
耐えられるはずがありません。
だって、まだたったの七歳です。
如何に賢かろうと、そんな無慈悲を突きつけられるには、早すぎます。
だから、心を殺したのです。何かに興味を持つたび、殺していたのです。
怖かったでしょう。辛かったでしょう。
それを誰にも言わないで。ムゥやセヴァを、心配させまいと。
こんなになるまで気付かなかったなんて、保護者失格だ。
いくらなんでも無思慮が過ぎた。
私は、とんだ愚か者じゃないか。
「…………」
ヘンゼルに歩み寄り、しゃがんで、目線を合わせます。
緑の眼は、ぱちぱちと瞬くのみです。まったく感情が読めません。自分の失態が原因だと思うと、逃げ出したくなります。でも、駄目です。此処で逃げたら、同じ場所にはもう、きっと戻って来られません。
「……ヘンゼルは、どうしたい?」
訊きながら、ムゥ自身が迷っています。ヘンゼルの安全を考えるなら、撤退一択でした。けれど、今日はそれで済んだとして、明日はどうなるのでしょう。明後日は。十日後は。一年後は。その先は。一生、逃げ続けるのか。
それも答えのひとつでしょう。何が正解かなんて、わかりません。ヘンゼルには健やかに育って、幸せに生きてほしい。そうは思いますが、所詮それもムゥの我儘なのです。ムゥが産んだわけでもなく、ましてや所有物でもないのですから。
ただ、ヘンゼルが苦しんでいるのなら。
何を犠牲にしてでも、助けてやりたい。
それが親心というものではありませんか。
「本当は、どうしたい? 教えてくれないか?」
今、すべてを打ち明ける必要はないと判断しました。
これがムゥの仕込みだと思っているなら、それを利用するまでです。
もし立ち直れなかったら?
構わない。そのときは、私が死ぬまで背負って歩いてやろう。
でも、できるなら……。
「あのね」
ヘンゼルが、おもむろに地図を差し出しました。
握りしめていたのでしょう。くしゃくしゃになっていました。
見ると、それはムゥが描いた野原ではありません。太い幹から二本の枝が生えた構図で、最奥部に王冠のマークが記されています。この洞窟の地図、ということでしょうか。いつの間にか、描き換わっていたのです。
「ここ、左から順番に回ってね、あやしいところ調べる。たぶん仕掛けがあって、引き返すことになるんだ。あ、敵が出てくるかも。スライムなら倒せるかなあ? そうだそうだ、宝箱があるかもしれない!」
話しながら想像が膨らんだのか、次第にヘンゼルの唇が緩んでゆきます。
一度崩れた表情は、あっという間に現実を忘れて、冒険の世界へ。わくわくと眼を輝かせます。やはり不安定でした。これから何度か、こういった感情の乱高下を繰り返すのかもしれません。けれど、あぁ。
この子は、まだ進みたいと願っている。
どうしてか、それが嬉しくて、ムゥは、つんと鼻が痛くなりました。
「わかった。私がマッピングを……いや、手を繋ごう。セヴァ頼めるか?」
「おう。あ、そうだチビ助」
ヒップバッグからメモ帳を出して、セヴァに手渡します。
受け取りがてら、セヴァは、帯に差していた棒をヘンゼルに渡しました。
「さっき拾ってたろ。武器は装備しなきゃなァ」
残念ながら、檜ではありません。ただの木の棒です。
まぁそれなりに硬いので、持っていれば役に立つかもしれませんね。
「そういえば、チュートリアルノってなんだ?」
「知るか。勝手に言わされてンだよ」
「やっぱり……そういうことか?」
「だろォよ」
軽口を叩きながらも、セヴァは、メモ帳を指で弾きます。
「ま、いざってときァ、俺様に任せな。死人は出さねェよ」
不敵に笑う彼もまた、頼もしい旅の仲間なのでした。
ええ。今回はセヴァもいます。加えて、引き返せる仕様。
ならばギリギリまで、試してやろうじゃありませんか。
試練。勝手に言わされた言葉ですが、まさしく試練だと、ムゥは肚を決めます。
あれはもしかして、ヘンゼルにではなく、自分に向けた――。
「……よし」
繋いだ手に、力を込めます。
ヘンゼルは片手に地図、腰に武器で、すっかり勇者の出で立ちです。見上げる眼は期待に満ちて、まだ見ぬ朝焼けのように、何処とも知れぬゴールを見つめていました。
落人の目的は不明です。そこは気懸かりですし、警戒を怠るつもりはありませんでした。しかし、どのみちこの森では、彼等と一切の関わりを断つのは無理です。何処かで必ず遭遇します。上手い付き合い方を身に付けるしかないのです。
自分は拒絶してばかりだった。
この子は違う。それだけのことだ。
「ダンジョン攻略だ!」
「おー!」
『残りのHPには注意しようね!』
だからHPってなんだ。
†
まっすぐ行って、三叉路。それぞれ少し広い空間で行き止まり。
この地図が正しければ、迷いようのない構造です。ただし、出口が記されていません。真ん中のルート、その最奥に、王冠の印が描かれているだけです。怪しさは満点なのですが、ひとまずヘンゼルの提案どおり、西のルートから回ることにしました。
「足下に気を付けろ」
「うん」
横幅は、大人が五人並べるほどでしょうか。しんと静まり返って、生き物の気配がしません。今更ですが、妙な洞窟です。普通こういう場所には、こういう環境で生活する者たちがいるはずなのです。なのに、コウモリ一匹見当たりません。そのくせ、取って付けたような草が生えています。何処から光を得ているのやら。
“照明”を持ってきて良かったな。
何かに使えるかと、採取用のヒップバッグをそのまま着けてきたのが、図らずも役に立ちました。
「ヘンゼル、お腹空いてないか?」
「だいじょうぶ」
「俺は腹ァ減った。誰かさんがトチ狂ったもンだからさァ」
「その辺の草でも食え」
さて、三叉路に当たりました。
一応目印を付けて、西の通路へ入ります。
しばらく歩くと、すぐ行き止まりでした。やや開けた空間になっているだけで、特に異常はありません。
「ハズレかあ」
ヘンゼルが唇を尖らせます。
励まして、次の通路へ。真ん中のルートです。
たぶん、此処が本命です。王冠の印は、あの猫でしょう。
絶対に捕まえて毛を毟ってやるぞ。ムゥは密かに意気込んでいました。
ところが。
「あれ?」
いません。
というか、何もありません。
行き止まりです。
「地図は正確だぜ。少なくとも此処までは」
真面目にマッピングしていたらしいセヴァが、ヘンゼルの地図と自分のメモ帳を見比べて、ペンで頭を掻きます。
岩壁に囲まれた空間は、広さも形も、さっきとまるっきり同じでした。この王冠の印だけが異なっているのです。ならば意味があるはずなのですが。
「王冠、どこ?」
「俺ァあの猫がいやがると思ったンだがな」
「それな。ちょっと調べてみよう」
おかしな箇所がないか、三人で探索します。壁をぺたぺた触ったり、地面に照明を当てたり、草を引っこ抜いてみたり。もしかして真上かと、見上げて眼を凝らしても、特に変わったところはありません。
ただセヴァが、突き当たりの壁で、ずっと耳を欹てています。
「どうした?」
「や、なァんか……此処、薄い気がする」
「向こう側がある?」
「そんな感じだ」
「よし!」
ヘンゼルが、腰の棒を抜いて、ぽかりと壁を叩きました。
まぁ、ビクともしません。
続いてセヴァが蹴りを見舞います。当然これも駄目でした。
「爆薬持ってねェか?」
「今はないな。お前、術はどうだ?」
『チートは問答無用の永久BANだよ!』
そういうルールのようです。
要は、術の使用は反則とみなされるわけですね。
持ち込み装備の許可がギリギリ、ということでしょうか。
「先生、チートってなに?」
「秩序を乱す悪魔だ。発見次第、通報しまくれ。でないと多数のプレイヤーが暴徒と化してコンテンツそのもののを破壊し始めるぞ」
「こ、コンテンツってなに……?」
「あぁすまん。異世界の話だった。忘れてくれ」
『チーター死すべし慈悲はない』
仕方ありません。一度引き返しましょう。
残るは東のルートです。
「あ!」
今度は明らかに違いました。
宝箱があるのです。
えぇ、宝箱です。一人掛けのソファほどある、無駄に大きな宝箱が、奥にどんと鎮座しています。どことなく、ムゥが作ったものに似ていました。あれを拡大すれば、ちょうどこんな感じです。言うまでもなく、設置した憶えはありませんが。
「ほんとにあった!」
ヘンゼルが、棒で突きます。さすがに警戒しているようでした。
だって地図には記されていない情報です。罠だったら大変です。中から針が飛び出すとか、毒ガスが噴出するとか、ミミックが正体を現して襲ってくるとか。そういったアクシデントは、ダンジョンには付き物です。いつだったか、三人でプレイしたゲームブックを思い出し、ヘンゼルは緊張しました。
「どうしよう、先生、開けていい?」
「うぅん……もう少し調べて……」
「下がってろ」
「あ、お前!」
気の短いセヴァが、つかつかと歩み出ました。
止める間もなく、蓋を蹴り上げます。
すると、ぴかっ。宝箱の中から、眩しい光が吹き出しました。
咄嗟に庇ったヘンゼルを抱きしめて、ムゥは眼を凝らします。
セヴァの背中越し、開いた宝箱の上に、何かがくるくる浮いていました。
コインでした。
『椿のレリーフを手に入れた!』
それをセヴァが掴むと、光は消え、ひとりでに宝箱の蓋が閉じました。
「椿のレリーフってなんだ?」
「これじゃね? 知らんけど」
「お前が言ったんだぞ」
「だから言わされてンだよ!」
「セヴァさん、見せて見せて!」
「ほらよ」
セヴァからコインを受け取ったヘンゼルが、大喜びで鑑定を始めます。
たくさんあるポケットの一つから虫眼鏡を取り出して、像を拡大。
表に椿の彫られた、美しい金色のコインでした。
ちなみに裏は、あの猫がニヤニヤ歯を剥いたデザインです。
まったく表裏のコンセプトが噛み合っていませんが、こうしてコインになると、それなりに見えるのが不思議ですね。
「きれい! 宝物だ!」
……けど。
ヘンゼルの唇が、不審げに結ばれます。
宝箱の大きさに対して、小さすぎやしませんか。
「中身、これだけだったのかな?」
罠でないことは判明したのです。もう一度、開けてみることにしました。
「ん……ぎぎぎっ、重い!」
「あ、ヘンゼル!」
口論していたムゥが気付いて、加勢します。
これは最初からセヴァが挑んで正解でした。
なんだか異常に重いのです、この蓋。
そのセヴァが加わって、ようやく開くことができました。
「先生、照らして。中見たいの」
「よし。これで……重っ! 重い!」
「もっとそッちに寄りな」
三人で、箱の底を覗き込みます。
ボタンがありました。
凸式ではなく、底に埋め込まれた凹式、いわゆる埋頭ボタンです。赤い裏地に赤いボタン、光のせいもあって、先程のセヴァは見逃したのでしょう。
「え、なに? どういうこと?」
「そりゃァ、ボタンだから押すんじゃねェの?」
「どうして宝箱の底にボタンが……」
「ほいポチッとな」
「あぁ!」
果たして気の短いセヴァが行きました。
両手が塞がっているため、殴るに殴れません。しかも今ので、腕に掛かる負担が増えました。いったい何が起こるのかと、ムゥは、視線を巡らせることしかできません。
が、変化は視界ではありませんでした。
音です。
ゴゴゴゴゴ……。
ムゥは、反射的にヘンゼルを抱き寄せます。
「ッ、離すな馬鹿!」
落ちかけた蓋を、セヴァが両手で支えました。
音が、止みました。
「あれ?」
今度は、ムゥがボタンを押します。
ゴゴゴゴゴ……。
離すと、ぴたり。音が止まります。
ははぁ。合点がいきました。
これは、移動音です。
どうやら、押している間だけ、何処かで何かが動いているらしい。
「くっそ、なんで俺様一人で……」
「待ってセヴァさん! もうちょっと頑張って!」
ヘンゼルが、片手を宝箱の中に滑り込ませました。
何をするかと思ったら、持っていた棒の尻で、ボタンを押します。
「ゆっくり下ろして」
そうして、そのまま。垂直に立てた棒に、蓋を乗せる形で、手を引きました。
棒は、凹んだボタンの窪みにすっぽり填まって、縦につっかえ棒をされた形で、蓋を支えました。
ゴゴゴゴゴ……ゴゴゴ……。
重労働から解放されたセヴァが、項垂れて、両手を振るいます。
音の出所を探して、ムゥは照明を彷徨わせます。
ヘンゼルは、地図を見つめていました。
僕の考えが正しいなら……。
「ン?」
セヴァが顔を上げます。
くんくん鼻を鳴らしながら、掻き上げた前髪が、何処からか吹く風に、そのときふわりと揺れました。
「……あッ!」
途端、ヘンゼルを小脇に抱え、踵を返して駆け出します。
元来た道の方へ。
「でかしたチビ!」
「やっぱり! そうなんだ!」
「おい、どうした!?」
「急げムゥ! 走れ! 棒がいつまで持つかわかんねェぞ!」
「はぁ!?」
わけもわからないまま、ムゥは慌てて後を追います。
東ルートを逆戻り、三叉路まで来たとき、その理由が判明しました。
真ん中のルート、ただの行き止まりだったはずのそこに、光が射しています。
風は此処から吹き込んでいたのです。
「開いてる! 出口だ!」
ヘンゼルが歓声を上げました。
本当です。最奥の岩壁が何処かに消え失せて、外の景色が見えていました。
つまり、あのボタンを押している間だけ、此処の岩壁が移動する仕組みだったのです。何処へ行ったのかは、もうツッコんでも無意味でしょう。そういうルールに掴まったと諦めるしかありません。
「あっ、あれ!」
それから、もうひとつ見えたものが。
「クソ猫!」
「不敬罪!」
セヴァとムゥが、同時に叫びました。
猫です。ショッキングピンクの、巨大猫の生首が、王冠を被って洞窟の出口に、にやりにやり佇んでました。
見付かるのを待っていたかのように、三人に背を向けて、猫は走り出します。
ヘンゼルを抱えたセヴァが続きます。
行く手の光が、近付いて、広がってゆきます。
ぽん、と大きく跳ねて、猫が洞窟から飛び出しました。
少し遅れて洞窟を抜けたムゥは、あっと短く叫んで、立ち止まりました。




