いかないで
得ることは幸運か?
失うことは哀しみか?
1.
手塩皿を一口。舐めて、ムゥは片眉を持ち上げます。
「セヴァ、ちょっと」
「あン?」
「味を見てくれ。薄い気がするんだが、何を足せば」
「あー……いいンじゃねェの」
振り向きもせずに、セヴァはひらひらと手を振り、また縁側に寝そべってしまいました。まったく答えになっていません。というか、私は味見をしてくれと言ったんだが? 激辛にしてやろうかこのクソ爺。
結局、醤油を加えました。少しだけです。よく考えれば、自分とヘンゼルも食べるのですからね。
嫌いではないけれど、馴染みのない味です。野菜を甘塩っぱく煮込んだ、セヴァの故郷の料理。ヘンゼルの好みに合わせて、最近ほとんど作っていなかったので、どうも勘が鈍っています。
「誰の好物だと思ってるんだ」
まったく。
鍋に蓋を落として、ムゥは竈を調整します。
懐かしい方法でした。
湯気に混じる、藺草の匂い。炊事場から続く居間には、大きな囲炉裏が、くつりくつり火種を埋めています。柱も天井も、すべて木製と知って、最初は驚いたものでした。これはこれで理に適っていると、今は知っています。中庭の見頃は紅葉と山茶花で、障子越しに咲いてなお赤く、景色に季節の色を差すのでした。
この家は、あの頃のまま。
かつて、セヴァと二人で暮らした日々を思い出します。料理どころか家事全般、セヴァから教わりました。自分には一生、縁のないことだと思っていたのに。
「……明日の朝は、あの腐った豆のスープでも作ってやるか」
さて、鍋を煮込んでいる間に、洗い物でもやっつけてしまおう。
半壊した我が家の修繕は、遅々として進んでいません。
基礎は残っており、貴重な薬品類は無事だったのですが、なにせ家財のほとんどが吹き飛びました。衣類にしろ食料にしろ、セヴァが此方の“庵”に備蓄していてくれなければ、冬を越せたかどうか。ゾッとします。現在は日々の生活で手一杯、本格的な再建は今春以降になる予定です。
経緯については、ヘンゼルを責めるつもりは、毛頭ありません。
何がどうして家の半壊にまで至ったのかは気掛かりですが、とにかくヘンゼルが無事であれば、ムゥとしては他は些事です。セヴァが言うには、全部シィちゃんがやったんだろうとのこと。まぁ多分そうだろうと思います。
そもそも、保護者である自分の責任だ。
そう考えれば、強く言えるはずがありませんでした。
あれは確かに、己の甘い判断が招いた最悪の事態でした。結果として、ヘンゼルを危険に晒し、自分は現場放棄の不始末です。盾どころか、ほぼ死体と化していました。情けないやら恥ずかしいやら、傷が癒えた今も、折に触れて思い出しては、内心のたうち回りたくなります。
後遺症のひとつも残らず、まったく元通りの生活を送れているのも、間違いなくセヴァのおかげでした。あんな重傷を完璧に治療してくれたのです。重ねて、深く感謝しています。
……して、いるのですが。
ちらと見たセヴァは、さっきと同じ姿勢で、縁側に寝そべっています。
此方に背を向けているので、どんな顔をしているのかはわかりません。ただ時折ぱたぱたと、忙しなく尻尾が動くのは、不機嫌の証拠でした。美しい庭は、彼の眼に映っているでしょうか。
あれから、セヴァの様子がおかしいのです。
それこそ会話が噛み合わなかったり、手にした物を落としたり、むやみと言動が浮ついています。苛々と爪で机を弾いているかと思えば、次の瞬間ぼんやりと呆けて、煙草を無駄にしてしまう。近頃とくれば日がな、ああして縁側で置物になっている始末でした。
これは、何か厄介事を抱えたな。
長い付き合いです。それくらいは気付きます。ただ、詳細が掴めない。具体的に何をどう悩んでいるのか、わからないのです。
さりげなく水を向けてもみましたが、適当にはぐらかされてしまいました。
別に、初めてのことではありません。本当に必要なら、時が来れば話してくれるはず。そこを見誤る男ではないという信頼もあります。でもだからといって、気にならないわけではないのです。
それに、もうひとつ。
「せんせえ」
呼ばれて振り向くと、枕を抱いたヘンゼルが立っていました。
「なんだ。寝てていいのに。夕飯まではまだ時間があるぞ」
「いっしょにいる」
ヘンゼルは襖の陰から出てきて、ぎゅっと割烹着の裾を掴みます。
手を止めて、寝乱れた金髪を直してやりました。とろけた眼は、たぶんまだ夢の中です。撫でられては、こくり鼻先が落ちます。そうまでしなくても、ムゥは別に消えてなくなったりしません。何度も言っているのですが、納得しないのです。
「囲炉裏の傍へ行ってろ。寒いだろう」
「や」
ぶんぶんと首を振り、今度は腰に抱きついてきます。あ、枕に水が。
仕方ありません。洗い物は後にして、今はヘンゼルを構ってやりましょう。
縁側へ続く障子を閉め、鍋は囲炉裏に移し、此方で煮詰めることにしました。前に座布団を敷き、二人で座ります。
ムゥの懐に収まって船を漕いでいたヘンゼルは、数分と経たず夢の世界へ戻ってゆきました。
この子が寝不足になるなんてなぁ。
ムゥは溜息を吐きます。
あの一件以来、ヘンゼルが妙な甘え方をするようになりました。
掃除、洗濯、炊事。果てはちょっとした近所の散策から、手洗いまで。何をするにも、ぴったり後を付いてくるのです。断じて邪魔とか、煩わしいとかいうわけではないのですが、理由を訊いても答えないので、困惑してしまいます。もう親鴨にでもなった気分でした。
最近は、言葉にも動作にも精彩を欠き、やたらと「だっこ」や「あーん」をねだります。七歳といえば、まだそんな子もいるでしょうが、ヘンゼルは違いました。違ったはずなのです。あんなに利発で、全身好奇心の塊だったのに。此処では障子の一枚も破らないなんて、そんなこと、あるでしょうか。
「……せんせ」
「うん?」
「……むにゃ……」
寝言か。
腕の中で寝返りを打つヘンゼルに合わせ、ムゥは胡座を崩しました。
こっちの問題の方が、遙かに深刻だ。
このところ、ヘンゼルの夜泣きが、再発したのです。
六歳になる頃にはすっかり落ち着いていたはずが、突然わっと叫んで飛び起き、ムゥに縋り付いて大泣きします。宥めても賺しても、なかなか収まりません。三日に一度はそういうことがあるものですから、実は三人そろって寝不足なのです。
できるだけ昼寝させてはいるのですが、ムゥが傍を離れると、すぐこうして起きてきてしまう。困ったものです。
「私は元気だ。ちゃんと生きているぞ」
とんとんと、起こさないように、静かに背中を叩いてやります。
「何処にも行かないさ」
あれだけ怖い思いをしたのです。
赤ちゃん返りくらいは、無理もないのかもしれません。
それでも、ヘンゼルが心配でした。
このままでは、何か取り返しの付かないことになってしまうような。ヘンゼルの在り方が、大きく変わってしまうような。嫌な焦燥感が、するのです。
ぎゅう。胸に押し付けられた頬が、囲炉裏の炎に、仄赤く緩みます。
「どうにかしないとな……」
呟き、ムゥは、項を掻きました。




