あなたには僕が見えるか
12.
愕然としました。
急いで帰宅したら、我が家が半壊していたのです。
いくら大雑把なセヴァでも、これには度肝を抜かれました。
遠目に確認して、まさかまさかと、重い脚を速めます。
飛び込んだ先で見たのは(玄関を開ける必要はありませんでした)、滅茶苦茶に荒れ果てた室内、剥がれた床に、血塗れで転がっている相棒の姿でした。
布野郎――シィちゃんは、いません。
「ムゥ! チビ!」
「セヴァ……ひっく……セヴァ、さん」
傍らに座り込んで嗚咽を上げるヘンゼルは、どうやら軽傷のようです。服も髪も乱れて汚れ、頬にこびりついた血痕は、涙で流れてぐしゃぐしゃ。隈の浮いた目元も赤らんだ鼻も、疲労困憊を物語ってはいますが、大怪我は負っていません。
そちらはひとまず安心し、ほっと息を吐きました。
「せんせ……先生が…………ぼく……」
「どいてな」
できるだけ優しく、セヴァはヘンゼルを押し退けました。
ムゥの傍に膝を突いて、あぁ。
思わず、呻き声が漏れます。
無残でした。両脚と片手の欠損、腹部は大きく裂けて、中身は半分以上が消失。片耳もなく、肩にも深い咬傷が、痛々しく抉れています。呼びかけ、揺すっても、反応はありません。肌は蝋人形のように青く冷たく、夏の空色をしたはずの眼は、ぼんやり暗く濁り始めていました。
三、いや二割か。
即座に印を組み、セヴァは、両手をムゥに翳しました。
残る魔力の、ありったけを治癒の韻律に変えて、一息に流し込みます。
途端、緑色の光がムゥを包み込み、激しく渦を巻いて、ぱんと弾けました。
そのあまりの眩しさに、ヘンゼルは一瞬、眼を瞑ります。
そして、開けられませんでした。
死体でなければなんとかする。
いつだったか、セヴァが言っていたのを思い出します。
でも……だったら……もしこれで……。
……駄目だったら……そういうことで……。
ぎゅう、と強く拳を握ります。
怖い。
「……ぁ…………」
それは微かな、弱々しい声でした。
けれどその声を今、どんなに、どんなに聞きたかったでしょう。
「よォ。悪運強ェな、お前」
「……ぅ……せ……」
「ほとんど御遺体だったぜ。何やってんだ間抜け」
「ぉ、そ……い…………」
「はああぁあ?」
これだけやらかして、命の恩人に出る文句がそれかよ。ぼやいて、どかり両脚を放り出したセヴァは、ようやっと、生きた心地がしました。
「先生!」
ムゥの胸に飛び込み、わっとヘンゼルが泣きじゃくります。
「ごめんなさいごめんなさい! ぼくのせいで!」
「ヘンゼ……けが……」
「ないよ! ぜんぜんないよ!」
「……そぅ……か……」
撫でようとしたのでしょう。ムゥの指先が、ぴくりと動きます。
できませんでした。
でも、あります。
両手も、右脚も、耳も、腹もその中身も、ちゃんとあります。元通りです。
――死なないものだなぁ。
苦笑して、ムゥは再び、重い瞼を閉じました。
「っ! 先生!? 先生!」
「あァ、よせよせ。寝かしといてやンな」
「寝……?」
取り縋るヘンゼルを、セヴァが制しました。
顔に耳を寄せると、小さな寝息が聞こえます。
「俺が治せるのは傷だけだ。気力体力は別。消耗したんだろォさ」
俺もな。
言って、セヴァは、乱れた金髪をがしがしと掻きました。
「で? 布野郎は? 何処行きやがッた?」
「あ……うん」
問われて、ヘンゼルは考え込みます。
何をどう話せば良いのか。
頭の中は、未だ興奮と恐怖と安堵で、ぐつぐつ煮えています。なにせ一度に多くのことが起きすぎました。行動と感情、事実と懸念が、無秩序に入り乱れて、言葉を詰まらせます。説明の義務がある。そうは思うのですが、上手くできない。
よくわからなくなって、頭を抱えてしまいました。
「……ま、ゆっくりでいいさね。チビ、もうちッと頑張れるか?」
ムゥを背負いながら、セヴァが視線を寄越しました。
一人で歩けるか、という意味でしょう。
ヘンゼルは頷きました。
「荷物はいらねェ。行くぜ」
「どこに?」
「庵さ。此処じゃァ、雨も凌げやしねェ」
小降りにはなっていますが、これは明日まで止みそうにありません。
いずれ移動せねばならないのです。なら、緊張感の残っている今のうちがいい。セヴァは、そう判断したのでした。
三人で家を出て、東を目指しました。
道すがら、ぽつぽつと、ヘンゼルは事の顛末を語ります。
といっても、泣き叫びすぎて嗄れた喉に、興奮冷めやらぬ七歳児の話です。
聞いているのかいないのか。セヴァは、ただ相槌を打つのみでした。
「つまり、あの布野郎は……」
「うん。いないよ。いなくなった」
もう、何処にもいない。
しかしヘンゼルは、それだけは、きっぱりと言い切りました。
「…………」
そっか。
呟いて、それ以上は訊かず、セヴァは歩みを進めました。
どれくらい歩いたでしょうか。
何処を歩いたのでしょうか。
ヘンゼルは、あまり憶えていません。俯いて、破れた靴の先ばかりを見ていましたから。何故だか顔を上げられず、セヴァの尻尾を掴んで、その暖かさにすんと鼻を鳴らせば、夜の小雨に鳥が、ひゅうひゅうと応えるのでした。
「着いたぜ」
いつしか目の前に、生け垣に囲まれた小さな門がありました。
入ってゆくセヴァを追って、ヘンゼルは、わぁと呟きます。
白い玉砂利の敷かれた小道。その両脇を居並ぶ灯籠が、家屋までの道標めいて、ほろりほろり瞬いています。広い敷地内に、奇妙に捩くれた松や柳の大木の、雨に濡れて浮かび上がる姿は、夢のように突拍子もなく、それでいて完全に調和の取れた、まるで知らない世界でした。
慣れない足音を二三分、辿り着いたのは、立派な屋敷です。
こちらもまた、不思議な佇まいでした。
平屋のくせに、やたらと広い。数人は優に暮らせそうな規模で、重厚でありながら、何処か洒落ています。意匠にはなんとも言えぬ趣が窺え、建築の様式は控えめにも雄弁に深い文化を語り、驚くべきことに、屋根が茅でした。
「此処な。ムゥと二人で住んでたのさ。お前と会う、ずッと前」
「セヴァさんのお家?」
「あぁ。気に入ってもらえたかい」
「うん」
セヴァは満更でもない表情で、はんと眉を上げました。
実際、即答です。こんな状況に於いて、ヘンゼルの眼は、直撃された美意識に、きらきらと輝いていました。
「上がれ上がれ。畳も汚せ。掃除ァ明日だもう知るか」
脚で引き戸を開けたセヴァが、ずかずかと大股で土間を行き、段差になっている板場へと、ムゥを下ろしました。
続くヘンゼルは、また瞬きです。
外観も不思議なら、屋内も不思議でした。
板間の奥、おそらく広いだろう空間は、立てた紙らしきもので区切られ、しんと静まり返っています。そこから漂う、何か草の匂い。土間は炊事場へ繋がっているようですが、これも我が家の台所とは、大きく異なっていました。パンを焼く竈はどれでしょう。あれかな。変なの。どれにも取っ手がないけど、此処の戸は全部、脚で開けるのかな。
物珍しさに、きょろきょろ。ヘンゼルは周囲を見回していました。
不意に背後で、ばったりと音がしました。
驚いて振り返ると、セヴァが、ムゥの隣に倒れています。
「……も……俺様限界……」
寝る。
慌てて駆け寄ったヘンゼルへ、一方的に宣言し、尻尾が、ぱたり。
ものの数秒と経たず、セヴァは、豪快な鼾を掻き始めました。
「…………」
セヴァに何があったかは、聞いていません。
でも、さぞ大変だったのでしょう。きっと今、やっと気が抜けたのです。
それを見たヘンゼルの意識も、急激に重く鈍り、揺らいでゆきます。
靴も脱がずに、ムゥの隣に、倒れ込みました。
放り出された手に、そっと自分の手を重ねます。
骨張って、少しささくれた指先。やや伸びた爪。血管の浮いた甲。
貧血と疲労と雨のせいで、冷たい。
けれど、そこに確かに存在する熱に、生命の鼓動に、ヘンゼルは胸がいっぱいになって、ぐりぐりと額を押し付けました。
頭の中は、まだ火照っています。
自分が何をしたのか。憶えているのに、どうやったのかが、わかりません。今も様々な感情が、脈絡もなく飛び回ります。好奇心。期待。落胆。驚愕。歓喜。闘争心。罪悪感。決意。焦燥。嫌悪。恐怖。あぁ今夜は、きっと悪夢を見るでしょう。
それでも、ずっと朝まで、この手を。
離さないでおこうと、決めました。
――……し……て…………。
そういえばシィちゃんは、あのとき、なんて言ったんだろう。
落ちてゆく夢の縁で、ヘンゼルは、どうしても、思い出せませんでした。
アンノウン・ハロウィーン/了




